今回の編集部からの注文はミュージカルである。これは去る2月26日にハリウッドのドルビー・シアターで授賞式が開かれた第89回アカデミー賞で最多部門ノミネートとなり作品賞の本命と見なされていたものの(そして皆さんご存じの通りいったんは作品賞受賞と発表されるも)土壇場で結果がくつがえり大いに話題となった『ラ・ラ・ランド』という作品をミュージカルと受けとめたことによる決定であろうと思われる。
日本の配給会社が開設した公式サイトにも「ミュージカル・エンターテインメント」とあり、ウィキペディアでも「ミュージカル・ロマンティック・コメディ・ドラマ映画」(長くね?)と紹介されているわけだから、本サイト編集部が『ラ・ラ・ランド』をミュージカルと目するのはなにもおかしなことではないが、筆者の考えはちがっている。
『ラ・ラ・ランド』はミュージカルではなくコスチュームプレーである――より正確に言えば、ミュージカルの衣をまとった偽装劇ということになろうか。ここは『ラ・ラ・ランド』を論ずる場ではないので詳細は述べぬが、そこで着用されるコスチュームとは(古典映画の引用やパロディーをふくむ)さまざまな作劇的ステレオタイプの表現そのものであり、それらを組み合わせながら(ときにジャンルを横断しつつ)ミュージカルを偽装するのが『ラ・ラ・ランド』というわけだ。
かような構成があらわにするのは、ひたすらなリメークのくりかえしにより延命をはかるハリウッドの陥った無限ループ(更新困難な堂々めぐり)であり、作品自体の特徴としてあげられている「ミュージカル・エンターテインメント」性やら「ロマンチック・コメディ・ドラマ」性は、古典回帰を偽装するアイロニカルな演出が生みだした見かけ上のものにすぎない(したがって、同作に対してドラマ構築の脆弱性やらミュージカル映画としての不備やらを指摘したところで有意義な批判にはなりえない)。あとはそうしたメタジャンル性追求の狙いに乗れるかどうか、という話でしかなく、その意味で『ラ・ラ・ランド』はどこまでも見すぼらしい作品だが、それでもいちおうは映画という創作ジャンルが直面している現状の打破に取り組む姿勢だけはかろうじて見てとれることから、まだ新人監督と言っていいデイミアン・チャゼルの将来性にはひきつづき注目しても損はなかろう、と筆者は思っている次第である。
本題に移ろう。今回はミュージカルということで、ジョージ・キューカー監督作『マイ・フェア・レディ』を選んだ。『マイ・フェア・レディ』の素晴らしさは、今さらここで述べるまでもなく周知されているはずだが、何度でも語られる価値があることもまた、だれもが認めるところだろう。
ギリシャ神話のピグマリオンとガラテアの伝説から着想された戯曲『ピグマリオン』を原作とする『マイ・フェア・レディ』の物語が、ディープラーニングによる人工知能の急速な進歩が日々伝えられる今日ますます意義を増していると言いたくなるのは、言語学者ヒギンズと彼に師事して言葉づかいや行儀作法を学んだ末に淑女として自立するにいたる花売り娘イライザのくりひろげる教育劇が、たとえば2015年のイギリス映画『エクス・マキナ』(女性型アンドロイドの人工知能にチューリング・テストをほどこすことから展開されるスリラー)などで変奏されていることが確認できるからだ。人形愛嗜好の面もふくめて、このような「創造主と被造物」の関係性がSF作品と親和性の高いシチュエーションであるのはまちがいなさそうだが(そういえば、小説家リチャード・パワーズも『ガラテイア2.2』という人工知能教育をめぐる作品を書いていた)、もっと言えば、これは完璧性の破綻にこだわりつづけたスタンリー・キューブリックが好んで描きたがった設定でもある――『2001年宇宙の旅』のHAL9000対ディスカバリー号乗組員、『フルメタル・ジャケット』のローレンス二等兵対ハートマン軍曹、等々の上下主従間対立に、イライザ対ヒギンズと同型の反乱劇が見てとれるはずである。
語るべきことの多い『マイ・フェア・レディ』について、本稿では一点にしぼって論じてみたいと思う。それはテクニカラー作品である本作の、色彩設計の演出である。
色とりどりの花びらをあしらったタイトルバックにつづいて示されるファーストシーンは、夜の屋外場面である。舞台は終演後の劇場前。観劇を終えた礼服姿の観客たちに花を売ろうとするイライザと、彼女の野卑な言葉づかいを物陰に隠れながらメモにとるヒギンズ教授の出会いを描くシーンだが、そこでははっきりとダークな色あいが強調されている。
それは単にナイトシーンであることの暗さにとどまらない。劇場の建物や広場の路面、等々、全体に墨汚しがほどこされたかのように暗く染められているのに加え、観客たちの黒衣がさらに画面を黒々しく彩ってもいる。むろんイライザの着ている衣服にも派手な配色は見られぬばかりか、彼女の売り物である花々の明るい色は周到に隠されている。おまけに雨も降りだすため月明かりもないなか、人々はしばし雨宿りすることになるのだが、いつの間にか降雨がおさまると、地味な装いのイライザの前に小さな青い花が差しだされるという印象的なアクセントが添えられるのを見のがしてはならない――この一見ささやかな演出が、じつのところは作品の全体像を暗示しているのだ。
こうしてはじまる『マイ・フェア・レディ』は、物語上では粗野なイライザが修養を積んで垢抜けてゆくドラマが展開されるわけだが、映像上ではそれは黒みに光が射しこんで陰影をやわらげ、やがては多彩な色模様に画面が満たされる過程として表現されることになる――すなわち、下町の花売り娘が口にする訛りや下品な言葉と付随するかたちでダークな色あいが示され、彼女が洗練に向かうにともなって明るさや彩りが画面を占める割合が増してゆくわけだ。
かような演出意図は、ファーストシーンにつづく翌朝の青物市の場面からもはっきりとうかがえる。夜が明けた広場に人々が集いだし、朝市が開かれるのだが、冒頭のごとく全体に暗めで地味な色あいを帯びていた画面に花屋の店先が映しだされると、麻袋の覆いが次々にとりはらわれてカラフルな花々がいっせいにあらわれるといった仕掛けだ――これは一日のはじまりを明示する効果とともに、イライザが昨夜にも増して洗練へと向かいつつあることをほのめかす印象的なアクセントとなっている。
それにつづいて『マイ・フェア・レディ』の画面を主に彩るのはヒギンズ教授宅の茶系のインテリアであり、黒ずみや汚れが主調をなすことはもはやない。教授宅を訪れてみずからヒギンズに指導を依頼したイライザは、住みこみで淑女教育を受けることになるのだが、そんな彼女が手はじめにおこなうのは入浴と着がえである――地味な色を脱ぎ捨てて、体の汚れを落とすわけだ。するとそのときなにが起こるのか――画面いっぱいに真っ白な湯気が立ちこめるのである。
かくして、『マイ・フェア・レディ』の画面は黒から白への移行を果たし、イライザの修業が本格化するわけだが、作品が中盤にさしかかり、ついにただしい発音をものにした彼女が「踊り明かそう」を唄う場面の色彩設計は、ここにいたる過程を簡潔にたどりなおす工夫がほどこされており、涙なくしては見られない――照明がひとつひとつ消されて薄暗くなった屋敷の階段をのぼっていったイライザは、明るい柄の壁紙が目だつ寝室に入り、そこで真っ白なナイトウェアを着こんだ末、白いシーツの敷かれたベッドの上で唄い終わることになるのである。また、次のシーンとして示される競馬場の場面ではイライザの社交界デビューが描かれるが、画面を支配している色はやはり白であり、それはドラマ上においては人工的な規則性にしばられた上流階級の現実を同時にあらわす色彩設計だと解釈することもできる――ちなみにこの、競馬場で貴族らが唄うミュージカル場面は、その人形的な存在感と虚無的なムードの漂う無機性において、ヴォーギングダンスのイメージを先どりしているようにも思える。
もうひとつ、『マイ・フェア・レディ』の色彩設計について指摘しておきたいことがある。ここで見てきたような配色の変遷は、イライザの洗練過程を付随的に描きだす演出であるのに加え、さらなる説話的な効果が認められる――それは端的に、物語上に流れる時間経過の描写である。重層的な意味を持つ段階的な変化が、あくまでもドラマ展開の必然の範囲内で画面ごとに衣裳や小道具の彩りを通して見えてくる、映画ならではと言っていい演出は、二一世紀の今日ほとんど廃れてしまったので、これからはじめて古典を観るという読者はそのことも念頭に置きつつ、イライザが最後に着る衣裳の色にも注目してほしいと思う。
ところで、ミュージカル映画の本質とはなんなのだろうか。ジャンル全体を見わたしたわけでもない人間に明言できるものではなかろうし、それを単色で説明すれば多くの濃淡を見おとすことにもなりかねないが、せめてここでは『マイ・フェア・レディ』から見えてくる特色をまとめておきたい。
人工的な規則性の持続のなかに組み込まれてもなお隠しきれないエモーション――これが、『マイ・フェア・レディ』から見てとれるミュージカル映画の特色である。わかりやすく言い替えてみよう。カメラや舞台装置や芝居構成といった人工的な規則性の持続のなかに組み込まれてもなお隠しきれず、役者によって唄いあげられるエモーション――ミュージカル映画には、少なくともこういう側面があることだけはまちがいない。
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