投稿日 : 2020.04.14 更新日 : 2021.09.03
【証言で綴る日本のジャズ】川崎 燎|父は外交官。母はモデルで教師で盗聴エージェント
取材・文/小川隆夫
2020年4月13日、川崎燎さんは居住先のエストニアにてご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます。このインタビューは死去のおよそ2年前に実施し、2017年9月より全4話のインタビューシリーズとして掲載したものです。
連載「証言で綴る日本のジャズ」はじめに
ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が “日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち” を追うインタビューシリーズ。本邦ジャズ史の知られざる事実が、当事者の証言によって明らかになる。
ギター奏者・作曲家。1947年2月25日、東京都杉並区生まれ。高校時代に演奏活動をスタート。日本大学在学中にジャズのグループを結成し、ジャズ喫茶などで演奏。卒業前後から活動を本格化させ、スタジオミュージシャンのかたわら、猪俣猛とサウンド・リミテッド、稲垣次郎とソウル・メディア、酒井潮グループ、自己のコンボなどで活躍。73年、ニューヨークに移住。ギル・エヴァンス、エルヴィン・ジョーンズ、チコ・ハミルトンらのバンドで各数年以上にわたり、レギュラーメンバーとして在籍・共演し、アメリカで演奏する日本人ミュージシャンとしての名声を確立。現在は北ヨーロッパのエストニアを拠点に活動中。
興味深い両親のもとで育つ
——生い立ちから聞かせてください。
生まれた病院は高円寺だけど、育ったのは世田谷の梅ヶ丘で、誕生日は昭和22年(1947年)2月25日。男性です(笑)。
——ご両親についてもうかがってよろしいですか?
父(寅雄)(注1)は岡山県西大寺市(現在は岡山市)の出身で、明治23年生まれ(1890年)。十代のころ貨物船でハワイに渡り、英語を学ぶんです。それから本土のマサチューセッツ州にある、バスケットボールを考案したスプリングフィールド大学で英語を勉強して。卒業後は、1910年代にアメリカで活動を始めたというんだけど。
注1:川崎寅雄(外交官 1890~1982年)岡山生まれ。16年、米国スプリングフィールド大卒。ホノルル市日本基督教青年会主事、外務省嘱託(サンフランシスコ総領事館勤務・奉天総領事館勤務)、リットン調査団派遣時には通訳を務める。その後も満洲国国務院外交部外交部宣化司長などを歴任。戦後は日本競馬会参事、農林省勤務、日本中央競馬会参事、青山学院大学英語講師、社団法人日米協会評議員、日本倶楽部理事、日本ハワイ協会監事なども務める。
なにをやったかというと、外交官ですね。サンフランシスコの日本領事館に勤務して、外務省の関係でその後に日米協会(注2)を設立したひとりです。要するに、日米の交流を図る作業をしていた人物。あちこちの領事館や大使館を渡り歩き、30年代くらいになると北京や上海に行って、満州国を設立したひとりでもあったんです。
注2:一般社団法人日米協会は大正6年(1917年)、激動する国際情勢の中、日米両国の有識者たちによって創立された日本でもっとも古い日米民間交流団体。
——ということは、ずっと外務省で働いて。
母(熙子:ひろこ)から聞いた話では、上海で戦犯の刑務所所長もやっていたということで。それで第二次世界大戦が終わって、戦犯みたいになってシベリアにちょっと抑留されて。母は下関の生まれで、父より二十歳若いんです。彼女は下関からすぐ満州に渡った、満州育ちの女性で。
いままでの話でわかると思うけど、父は日本では英語の第一人者として認められていて、政治的な交渉があるときは通訳でいつも同席していたらしい。それで、瑞宝章をもらってます(笑)。満州の言葉はチャイニーズとロシア語なんです。だから、母は両方がペラペラ。
当時の上海は「リトル・ニューヨーク」と呼ばれていて、両親はそこにあるブロードウェイ・マンション・ホテルというすごいホテルに居住して。母は英語もできたから、盗聴のエージェントとしてドイツの秘密情報部で働いていたそうです。その辺は面白くて、映画にでもなりそうな話だけど。
戦後、母はかなり汚い船に乗せられて強制送還。父がシベリアから帰るまではファッション・モデルと英語の教師をして、生計を立てていたそうです。父がどれくらい抑留されていたかわからないけど、長くても2年ぐらいだったと思います。
父は青山に邸宅というかマンションを持っていたらしいけど、爆撃でなくなって。それで日米協会には社宅があったから、それの最初が梅ヶ丘だったんです。そこが豪勢な社宅で、女中さんやメイドもいて。
父が聴くラジオはFENで、友だちはアメリカ人ばっかり。母の友だちはロシア人。ぼくが育ったのは、そういう言葉の中でした。だから、そこがぼくの生い立ちの中で最初の記憶です。
——気がついたら、外国語や外国文化の中にいた。
それもあってか、ぼくはどこに行っても日本人を意識することがまったくない。「自分」という人物であることを意識するするしかないんです。
——最初から外国のひとには抵抗がなかった。
抵抗がないというより、ファミリアな感じですね。
——ご兄弟は?
ひとりっ子です。父が57か58歳のときに生まれた子供ですから。
——しばらくは梅ヶ丘に住まわれて。
小学校の四~五年までは梅ヶ丘小学校にいて、社宅だから移されるんです。若林に移って、若林小学校といったかな? そのあとは深沢。中学は青山学院の中等部で、高等部まで行きました。そのころは父が青学の大学で英語の講師をしていたから、ぼくは試験もなにもなく、入れちゃった(笑)。
音楽に目覚めたころ
——音楽との出会いは?
ぼくの音楽教育について話せば、最初はヴァイオリンと声楽。小学校に入る前にソルフェージュをすべて学んだから、譜面のほうが日本語の字を学ぶより早かった。それが音楽との触れ合いで、小学校の四~五年のときに、友だちの兄貴がウクレレ好きで、それを見て「いいな」と思って、弾き始める。ヴァイオリンをやっていたせいか、すぐに馴染めたんです。中学の初期もそんな感じで。ひと前で弾くのが好きだから(笑)、学校に持っていって、見せびらかせて。
——ご両親は音楽が好きだったんですか?
父はハワイで音楽を教えていたっていうんですよ。それから上海で外交官をやっていたころも音楽を促進することに貢献していたみたいだけど。でも父とぼくとの関係の中で、音楽はまったくなかった。
——4歳で声楽、5歳でヴァイオリンのレッスンを受けるようになったのは、どなたかが「やりなさい」といったんですか?
母からは「ピアノとバレエを習え」といわれたけど、「そんなのは女の子がやることで、男のやることじゃない」といって、声楽とヴァイオリンにしたんです。
——川崎さん自身も「音楽を習ってみたい」気持ちがあった?
父がFENばっかり聴いていたことも大きいですね。FENはアメリカのジャズをよくかけていて。母はロシアン・バレエが好きで、チャイコフスキーとかいろんなものにぼくを連れて行く。だからぼくは、クラシックとジャズとポップスと、それプラス日本の歌謡曲。それら4つのジャンルが自分の中には並列で入ってきて。鼻歌なんかも歌うのが好きだから、歌謡曲も歌っていたし、英語の歌もうたっていた。
——ウクレレではハワイアンを弾いていた?
当時、『ハワイアン・アイ』(注3)というテレビ番組があって、あれにウクレレの上手いひとが出てくるのね。それがすごく刺激になって、あの程度は弾けるようになりたいと思いました。ハワイアンから入ったけれど、ラテンとかポップスとか、最初に始めたのはポール・アンカやニール・セダカやコニー・フランシスとかだから。その時点で、そういうものをいろいろ学んだわけですよ。
注3:ハワイがアメリカ合衆国50番目の州となった59年にABCテレビで放送開始。日本でも63年にTBSで放映。ハワイを舞台にふたりの探偵が活躍する物語。
——歌はうたわなかった?
好きで歌ってました。シナトラとナットキング・コールが大好きで、風呂場でまねして練習してたのを覚えています。それから青学の中・高等部では聖歌隊にも属して六年間讃美歌を毎日歌っていました。
——一方で、天文学や電気関係にも凝って。
子供のころから好きでした。電気関係は鉱石ラジオ(注4)から始めて、それがゲルマニウム・ラジオ(注5)に発展して。中学に入ると真空管を使ったオーディオ・アンプとかチューナーとかトランスミッターとか。ぼくはアマチュア無線が好きで、CQ、CQ(注6)もやっていて。自分の名前で放送局みたいなのを作って、いろんな音楽をかけていたんですよ。いまでいうDJです。
注4:鉱石検波器により復調(検波)を行なうラジオ受信機で、真空管やトランジスタなどのいわゆる能動素子による増幅を行なわない無電源のラジオ(受信機)。
注5:検波器にゲルマニウムダイオードを用いたラジオ。電池などを使わず、電波のエネルギーだけで聞くことができる。
注6:無線通信において、通信可能の範囲内にあるすべての無線局を一括して呼び出す、あるいはそれらに対する通報を同時に送信しようとするときに用いられる略符号。
そういうことが好きで、ブロードキャスターですか? ほかのジャンルもやるけど、音楽主体のね。そういう体質があるみたい。それからオーディオも好きだったから、いろんなレコードをよりよい音で聴けるようになりたい思いで、オーディオ・アンプやスピーカーを作ったり、ターンテーブルも自作したり。
——それが中学のころ?
中学ぐらいまでで、小学校のころにはほとんどやっていました。そのころ面白かったのが秋葉原通い。あれは異常なところですよ。ぼくは東京に住んでいたから自然に思っていたけれど、世界のどこに行ってもああいう場所はない。
——川崎さんは小学生のときから秋葉原通いで。
小遣いをもらっては、部品を買いに行って。
——模型にも凝っていたとか。
戦艦に凝って、そういうのも作っていました。
——木を削って? それともプラモデル?
戦艦大和やミズーリなんかのキットがあったんですよ。だけど飛行機、あれはエンジンを始動するのにプロペラを指で回すでしょ。それだけはやらなかった。通っていた模型屋の親父さんがそれで指を全部失くしているから。
——ラジオの組み立てに話を戻しましょう。
たしか、中学に入って少し経ったときだと思うけど、NHKでFM放送が始まって(注7)。それが聴きたくて、FMチューナーを作って、聴いてました。それと天文学もあるんだけど(笑)。ぼくは望遠鏡作りも好きで。
注7:1957年12月24日に実験放送開始。当初はモノラル放送だったが、63年12月16日には実用化試験局となった東京局でステレオ放送を開始。
——それもキットで?
いや、本で見て、レンズや筒の材料を集めたんじゃないかと思うんです。望遠鏡のキットはあったのかなあ? あれも反射望遠鏡(注8)と普通の望遠鏡とがあって、両方を凝って作って。やっぱり月や火星が観られたときは感激したよね(笑)。
注8:鏡を組み合わせた望遠鏡。
バンド活動を開始
ーーかたや、音楽にものめり込んでいきます。
演奏を始めたのはウクレレが最初だけど、ギターに変わるのが13~14歳で、中学のとき。誕生日かクリスマスか覚えてないけど、アコースティック・ギターを母がくれて。それで高校(青山学院高等部)に入ったら、OBの荒木一郎(注9)さんが開設した軽音楽部があったんで、そこに入って。
注9:荒木一郎(俳優 歌手 1944年1月8日~)高校卒業後文学座所属で俳優業をスタート。66年に歌手デビュー。同年「空に星があるように」で〈第8回 日本レコード大賞・新人賞〉を受賞。80年代後半からは活動を大幅に減らしているが、2001年以降はときおりシンガーとしての活動も行なっている。また、アムウェイのディストリビューターとしても有名。
そのころは高校をサボって、渋谷の百軒店(ひゃっけんだな)にあった「ありんこ」だとかのジャズ喫茶に入り浸るんです。店のひとがいろいろなアルバムをかけてくれて、ブラインドフォールド・テスト(注10)じゃないけど、誰の演奏かすぐわかるようになることも面白かった。そんなときに、ケニー・バレル(g)の『ミッドナイト・ブルー』(ブルーノート)(注11)が「ありんこ」で新譜でかかって。それを聴いて感動しちゃって、「これはエレキ・ギターを買わなくちゃいけない」となったんです。ただし、その前にシャドウズ(注12)とかの映画は観てたんですよ。
注10:ジャズの曲を流して演奏者を当てる遊びのこと。
注11:メンバー=ケニー・バレル(g) スタンリー・タレンタイン(ts) メイジャー・ホリー(b) ビル・イングリッシュ(ds) レイ・バレット(conga) 63年1月8日 ニュージャージーで録音
注12:50年代から活動を開始し、歌手のクリフ・リチャードと組んだクリフ・リチャード&ザ・シャドウズとしてデビューしたイギリスのエレキ・バンド。
——クリフ・リチャードと共演した映画『太陽と遊ぼう!』とかがありましたよね。
それそれ。それのギターがものすごくカッコよくて、「ああいうふうになりたい」というのもあったんです。ただそれが即ポップスやロックにいかず、エレキを弾くのは『ミッドナイト・ブルー』を聴いたのがきっかけで。グヤトーンだかテスコ(注13)だかは覚えてないけど、エレキを買って、わりとすぐ弾けるようになった。
注13:国産の楽器メーカー。
——ヴェンチャーズやビートルズにはまったく興味がなかった?
興味がないというか、なんていうかな? ぼくは込み入ったものが好きなんだよね。単純なのは面白くない(笑)。
——軽音楽部ではどういう音楽をやっていたんですか?
北村英治(cl)さんがやっていたような「バードランドの子守唄」やデイヴ・ブルーベック(p)の「テイク・ファイヴ」とか。「テイク・ファイヴ」が弾けるようになれば合格って感じで始まって。曲はスタンダードで、クラリネットが主体でした。
——軽音楽部にはいくつかバンドがあったんですか?
メンバーはいるけど、演奏会をした記憶はないです。集まって、誰かがリーダーになってジャム・セッションをやっていたという、そんな感じ。
——川崎さんの世代だと、とくに青学あたりではカレッジ・フォークが大流行(おおはや)りだったと思うんですが、そちらに興味は?
ぼくは、それ、覚えてないんです。
——もっぱらジャズ専門で。
高校二年くらいのときに、卒業した先輩にクラリネット奏者がいて、名前は覚えていないけど、ぼくより五つくらい上だったのかな? そのひとが認めてくれて、「うちのバンドでやらないか?」。それが、実は新宿のヤクザのドラマーがバンド・リーダーで(笑)。ヤクザだから、神楽坂だとか池袋だとか銀座だとかのナイトクラブにコネがあるんです。そこがすごく面白かった。出し物はドサ回りの歌手とストリップ・ダンサーのふたつで。
——編成は?
ドラムス、ベース、ギターと、あとはホーンがぼくの先輩。
——そのときのギャラは?
ぜんぜん覚えていない。裏の楽屋でストリッパーが着替えたりするのと同じところにいたのは覚えているけど(笑)。
——でも、高校生にしてみればいいお小遣いになったんでしょうね。
当時のギャラのスタンダード程度は出ていましたよ。6時ぐらいに行って、12時か1時ぐらいまでが拘束時間。開演するのが8時ぐらいだったかなあ? ぼくらは6時半とか7時ぐらいから始めるから、ワンセット目は好きなことをやっていい。そこでいろんなジャズの曲を学んだんですよ。それを高校二年から三年にかけて、1年くらいやっていたかもしれない。
——毎晩ですか?
毎晩かな? 同時にラジオ部にも入って。学園祭でなにか展示しないといけないんで、トーン・ジェネレーターという回路を使って電子オルガンを作ったんです。銅板を切ってキーボードにして、接点によって違うピッチ(音程)が出るようにして。シンセサイザーのいちばんシンプルなヤツですね。
そのころはステレオがなかったから、モノラルのテープレコーダーを2台使ってステレオ録音をすることもやりました。ふたつのヘッドがあって、その距離とヘッドの高さを工夫して、半分ずつ録音できるようにしたんです。ギターを練習するときにオーヴァーダブできないと困るんで、それが発端です。
——テープレコーダーも自作?
テープレコーダーは作ってないです(笑)。ソニーかなにかの出来合いのヤツを改造して、2チャンネルで録音できるようにしました。でも距離が狂うと音がズレちゃうから、いつも同じ距離にして。
——それが高校生のとき。
そうです。高校ではバスケット部にも入って……
——バスケット部にも入ってたんですか(笑)。多才ですね。
バスケットボールは激しい運動だから、それがいい訓練になったと思います。青学を全周するマラソンとか、いろんな訓練を受けたんですよ。それがその後に役立っているというか。ゲーム自体も好きだったけどね。
——それは高校の3年間?
いや中学から6年間。
——忙しかったですね(笑)。
バスケット部の部長だった杉野というのがのちに赤井電機(注14)の部長だかなんだかになって、ぼくがあとでシンセサイザーとかをやるときに役立ったんです。赤井からサンプラーなんかを提供してもらえたから。それは80年代になってからの話ですけど。
注14:1946年に設立され2000年に倒産した音響・映像機器メーカー。ブランド名は、「アカイ」「AKAI」。