投稿日 : 2017.11.09 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】増尾好秋| 米軍の将校クラブで味わった「音楽とコカ・コーラ」

取材・文/小川隆夫

増尾好秋/第1話

新時代のジャズ

——増尾さんが入る前の貞夫さんのカルテットはプーさん(菊地雅章)がピアノで。増尾さんがピアノの代わりにギターで入って、チンさんが曲によってはエレクトリック・ベースも弾いて。同じカルテットでも、それで音楽が変わったじゃないですか。そこから貞夫さんは〈パストラル〉(注17)とかのオリジナルを中心にやるようになった。新しい音楽を作ろうとしたきっかけが、増尾さんとチンさんが入ったからだと思っているんですが

どうなんでしょう? 貞夫さんはアメリカでゲイリー・マクファーランドと仲がよくて、ガボール・ザボ(g)とも演奏しているんですよね。だから、ピアノじゃなくてギターが入っているバンドのサウンドにも興味があったんだと思います。

ぼくはウエス・モンゴメリー一点張りだったけれど、それじゃ追いつかない。それでピックを使ってギターを弾き始めたし、ソリッド・ボディのギターを使い始めた。実験というか、当時はいろんなことをやってました。そのときは音楽界ぜんぶがそうでしたから。

それまでの数十年間はモダン・ジャズがいちばんかっこいい音楽だったと思うんです。でもビートルズが出てきて、楽器にしろ音にしろ、ジャズ・ミュージシャンもそういうものを取り入れて、実験を始めたんです。ぼくもそうでしたが、なにがなんだかわからないでやってたことがたくさんあったと思います。

(注17)『パストラル』(CBS・ソニー)に収録。メンバー=渡辺貞夫(as fl sns) 八城一夫(p) 増尾好秋(g) 松本浩(vib) 鈴木良雄(b) 渡辺文男(ds) 田中正太(flh) 松原千代繁(flh) 69年6月24日、7月8日 東京で録音

——70年前後のことですが、あるロック・フェスティヴァルに行ったら、増尾さんとチンさんと、ドラムスはつのだ☆ひろ(注18)さんだったと思うけど、出てきました。

そういうのにも出ました。

(注18)つのだ☆ひろ(ds 1949年~)本名は角田博。60年代後半から渡辺貞夫、ジャックス、岡林信康、成毛滋、サディスティック・ミカ・バンドなどで活躍。71年歌手として発表した〈メリー・ジェーン〉がロングセラーを記録。

——ロック・ミュージシャンとのセッションもやっていたんですか?

多くはないですが、ところどころでやってました。どこで繋がったかは覚えてないけど、ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩(g)(注19)とセッションをやろうとなって、チンさんとぼくに、エディ藩が連れてきたドラムスや歌手を入れて演奏したことがあります。面白かったですよ。

(注19)エディ藩(g 1947年~)本名は潘廣源。66年にデイヴ平尾(vo)を中心に結成されたザ・ゴールデン・カップスのギタリスト。ヒット曲は〈長い髪の少女〉など。69年エディ藩グループ結成。その後も何度か再結成されたザ・ゴールデン・カップスに参加

1973年。中野サンプラザにて。

——成毛滋(g)(注20)さんとも交流はあったんですか?

ちょっとありました。だって、つのだ☆ひろが彼と繋がってるから。

(注20)成毛滋(g 1947~2007年)ザ・フィンガーズでデビュー後は日本のロック・シーンを代表するバンドを率いる一方、スタジオでも引っ張りだこに。

——そもそも、つのだ☆ひろさんとはどうして知り合ったんですか?

友だちに紹介されたと思うけど、もともとジャンルが違うからね。でも、ジャズも好きで聴いていたし、ジャズのドラムスが叩けたからつき合うようになったと思います。

——貞夫さんのバンドにつのださんが入ったのは、増尾さんとの関係?

チンさんとぼくとで「つのだ☆ひろはどうか?」と、貞夫さんに紹介したと思います。

——2枚目のリーダー作『24』(CBS・ソニー)(注21)ではレス・ポール(注22)を弾いて、ハードロックみたいな演奏じゃないですか。その前が『バルセロナの風』(同)(注23)で、こちらはA&Mから出たウエス・モンゴメリーみたいなサウンド。音楽がぜんぜん違いました。『バルセロナの風』はどういういきさつで作ったんですか?

CBS・ソニーが「リーダー作を作らないか?」といってきて。同級生ですけど、伊藤潔君がプロデューサーですから、彼と作ったアルバムです。

(注21)全曲が増尾作曲による意欲作。メンバー=増尾好秋(g) 市川秀男(elp) 鈴木良雄(b vo per) 日野元彦(ds) 角田ヒロ(ds per) 渡辺貞夫(fl per) 伏見哲夫(tp) 今井尚(tb) 堂本重道(btb)ほか 1970年10月12日、19日 東京で録音

(注22)ギブソンがレス・ポール(g)と共同開発し、52年から製造・販売しているエレキ・ギター。ロック系ギターではフェンダーのストラトキャスターと並ぶ代表モデル。

(注23)増尾のデビュー作。メンバー=増尾好秋(g) 杉本喜代志(g) 鈴木良雄(b) 渡辺文男(ds) 宮田英夫(fl) 八城一夫(org p) ラリー須長(per) 鈴木信宏(vib marimba) 1969年2月19日、5月1日 東京で録音

——自分のリーダー作ではウエスのような音楽がやりたかった?

ぼくが少しウエスから外れてたころの作品ですから、そこはちょっと複雑なんです。

——翌年(70年)吹き込んだ『24』ではまったく違う音楽になって。

そのころは自分で曲を書き始めて。あの時代だからみんな暗中模索で、すごくエキサイティングでした。どのジャンルの音楽もエキサイティングだった時代です。

——自分のライヴもそういう感じで。

始めていました。レス・ポールでどういう音を作るか。音作りにしても、そのころはまったく模索中で。

——演奏していて、自分たちのやっている音楽が変わってきた実感はありましたか?

滅茶苦茶ありました。

——貞夫さんのバンドに入って、音楽の幅が広くなります。

音楽のジャンルが違うから、その上で音楽を作らないといけない。「どうやったらいいんだろう?」と、自分なりに「ああでもない、こうでもない」とやってました(笑)。

——そのころ聴いていたギタリストは?

ジム・ホールです。彼はピアノなしでホーンのバッキングをしているから、どういうサウンドでどういうタイミングでやっているか、それが参考になりました。

——その時代ですから、新しいタイプのギタリストも出てきました。ラリー・コリエルやジョン・マクラフリンなんかに興味はなかったんですか?

すごくありました。アメリカに住むようになったのが71年ですけど、その前の年にヤン・ハマー(key)とジーン・パーラ(b)がサラ・ヴォーン(vo)の伴奏で来日したんです。貞夫さんとジーン・パーラはバークリー(音楽院)の学友ですから、貞夫さんが「ピットイン」でやっているというんで遊びに来たんです。

ヤン・ハマーともそういうことでちょっと繋がりができて、彼が住んでいたロフトでセッションをやってたときかな? 「いますごく面白いバンドのリハーサルをやっていて、今度ビーコン・シアターで初めての演奏をやるから、おいでよ」。それがマハヴィシュヌ・オーケストラのデビュー・コンサート。滅茶苦茶にすごかったです。

マイルス(デイヴィス)(tp)がエレクトリックのバンドをやってたし、ほかのひとも始めてましたよね。チック・コリア(key)がリターン・トゥ・フォーエヴァーを作って、ハービー(ハンコック)(key)がヘッドハンターズ。みんなそっちの方向に行ってたでしょ。だけどぼくはギタリストだから、マクラフリンが結成したマハヴィシュヌ・オーケストラにいちばんぶっ飛ばされました。

自分でああいう演奏はしないけど、ギターではジミ・ヘンドリックスが好きでした。ジャズ・ギターとは違う大きなヴォリュームで弾くギター。楽器自体、質が変わるんです。ジャズ・ギターを自転車に乗っている感じとすれば、ロック・ギターのヴォリュームはオートバイ。パワーが違う。そういうことはギターでしかできないし、それが魅力です。

ニューヨークに移住

——貞夫さんのバンドに入って、一方では自分のグループでも演奏していました。

そっちはたいしたことないけど、ちょびっとはやってました。

——渋谷にあった「オスカー」で増尾さんの演奏を聴いたことがあります。先日インタヴューした川崎燎(g)さんによれば、「オスカーで別格にすごいのが増尾さんとチンさんがいた早稲田のバンドだった」とのことです。「オスカー」にはよく出ていたんですか?

あそこは学生時代に。いま考えてみると特別な場所でした。

——あちこちの大学のバンドが出ていて。

この間も思い出していたんですけど、ぼくたちが演奏していたときに白木秀雄(ds)さんが来て、2、3曲一緒に演奏してくれたことがあるんです。どうして学生のバンドをあんなにたくさん出してくれたんだろう?

——これは貞夫さんのバンドに入る前?

入るちょっと前じゃないですか?

——増尾さんは、川崎さんと直居隆雄さんとで「若手ギター三羽烏」と呼ばれていました。ふたりのことは意識していました?

もちろんですよ。燎は日大(日本大学)、直居君は青山(青山学院大学)、ぼくは早稲田。楽器が違っても学校が違っても、同級生で音楽をやっているのはみんな仲間でした。面白いのは、そのころの燎はケニー・バレル(g)にハマっていて、直居君はジム・ホール、ぼくはウエス・モンゴメリー。三者三様で、ライヴァルでした。

——3人でやったことは?

「オスカー」でもやったし、ほかのところでも何度かやりました。

——話は変わりますが、貞夫さんのグループで70年に「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」(注24)に出ます。そのときに、増尾さんはギターを買おうと持っていったお金やパスポートを火事でなくしてしまったとか。

ホテルが貞夫さんの泊まったことのあるタイムズ・スクエアのそばだったんで、近くのチャイニーズ・レストランで食事をしていたんです。たまたまぼくは、その日買ったショルダー・バッグにトラヴェラーズ・チェックからパスポートから、ガールフレンドにもらった日記とか、大切なものをぜんぶ入れて。

(注24)54年にプロモーターのジョージ・ウェインがロードアイランド州ニューポートでスタート。58年の模様は、映画『真夏の夜のジャズ』でドキュメント化されている。72年からはニューヨークで開催。現在は世界各地で「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」の名を冠したコンサートが開かれている。

それで食べている最中に煙が出て、「火事だ。みんな出てくれ」。でも緊急な感じじゃないから、水でも飲んで、ぼくなんかスペアリブをひとつ持って(笑)、「じゃ、行きますか」。外に出て見ていたら、あっという間にどんどん燃えて。消防車も来てワーワーやり始めて、「アーア、燃えちゃった」みたいなときに、バッグを忘れてきたことに気がついたんです。あのときは貞夫さんにも迷惑をかけたと思います。

——それが増尾さんにとって初めてのアメリカ?

そうです。

——ニューヨークに移るのは翌年。

そのままぼくたちは日本に帰って、翌年の1月にバンドが解散することになったんです。貞夫さんのバンドも同じメンバーで3年ぐらいやって、煮詰まってきたとかいろいろあって、「ここで解散するか」と。

さし当たってぼくには「なにをやろう」というのがなかったんで、ニューヨークならレコードでしか聴けなかったミュージシャンがやっているし、「そこに半年ぐらい行こう」と。そう決めて、チンさんと直居君との3人で行くことにしたんです。そのあといろいろ音楽の仕事をしてお金を作り、6月に行きました。その時点で、チンさんは「しばらく行くのはやめるわ」となってドロップアウトしたので、直居君とふたりです。

ニューヨークで知っているのは中村照夫(b)さんだけだったので、ラガーディア空港まで迎えに来てもらい、アパートが見つかるまで、ぼくはクイーンズにあった照夫さんのうち、直居君は照夫さんの友だちのベーシストが借りていたマンハッタンのアパートに居候して。そのあと一週間くらいでマンハッタンにアパートを見つけて、ふたりで引っ越しました。

——半年で戻ってくるつもりだったけれど、居ついてしまった。

クリスマスのころに直居君は帰りましたが、ぼくは帰る気持ちじゃなかった。だからもうちょっといようと決めて、そのまま居残ったんです。

——そのころは、あちこちでジャズを聴いていただけですか?

できるときは飛び入りしたり、ジャム・セッションをやっていればそこに行ったりとか。いろんなミュージシャンと会うのはそれしかないですから。最初は照夫さんにずいぶんヘルプしてもらいました。彼がやっている仕事、マンハッタンの中じゃなくて、ブルックリンとかクイーンズとか、そういうところにも音楽のできるところがあるんです。街角のバーで演奏するとかね。そういうレヴェルのものもあれば、彼がロイ・ヘインズ(ds)のバンドでやるようになったので、そこでも演奏しました。

友だちに「マンハッタンでリハーサルをやってるから来い」といわれて行ったら、リー・コニッツ(as)がいて、彼のバンドでもやるようになったとか。そういう感じで少しずつ広がっていきました。

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