ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫が“日本のジャズ黎明期を支えた偉人たち”を追うインタビュー・シリーズ。
ギター奏者。1946年10月12日、東京都中野区生まれ。父の増尾博は戦前から活躍していたピアニスト。中学時代にギターを始め、早稲田大学在学中の67年に渡辺貞夫カルテットでデビュー。71年にニューヨークに移住し、リー・コニッツ、ソニー・ロリンズ、ラリー・ヤング(ハリド・ヤシン)などのグループで活躍。77年に『セイリング・ワンダー』を録音し、自身のグループ活動も開始。81年から約3年はロリンズのグループに復帰。85年にソーホーでレコーディング・スタジオ(The Studio)を運営し始めたことで演奏活動を中断。2008年に同スタジオを閉鎖し(ペンシルヴァニア州の別宅にKakinoki Studioを新設)、演奏活動を再開。現在は春と秋に各3か月の日本ツアーを行なっている。
ギターとの出会いは偶然から
——出身地と生年月日を教えてください。
1946年10月12日に東京の中野区新井薬師で生まれました。なんで新井薬師かっていうと、母の姉が住んでいたから。戦争が終わって、みんな疎開先からそこに帰ってきて、ぼくはその伯母の家で生まれました。そのあと、近くにうちを建て、住むようになったんです。実家はいまでもあります。東京に帰ってくると、そこにいます。
——いまはどなたが住んでいるのですか?
94歳の母です。弟もそこに住んでいます。
——お父様がピア二ストの増尾博(注1)さん。ナット・キング・コールがお好きだったそうで。増尾さんのご兄弟は、弟さんがギタリストの元章(注2)さん。
ほかに姉がふたりいます。4人姉弟で、ぼくが3番目。ふたりの姉は亡くなりましたが、ひとつ上の姉はピアニストで、「プリンスホテル」とかのラウンジで弾いていました。
(注1)増尾博(p 1913~87年)戦前からジャズやタンゴのピアニストとして活躍。戦後はヘップ・キャッツ・セヴンを結成し、76年からはオールド・ボーイズに参加。
(注2)増尾元章(g 1951年~)73年に『ファースト』発表.。77~78年にはS-KENの初代ギタリストとして活躍。84年に井上尭之(g)、竹田和夫(g)と共演した4作目『ハピネス』を発表。85年右手の指4本の神経を断裂。90年代初頭にカムバックするもすぐに中断。2005年に2度目の復帰。
——お父様がピアニストだったから。
そうですね。下の姉はピアノを習って、上の姉はバレエをやっていました。
——増尾さんは中学でギターを始めたということですが、いちばん古い音楽の記憶は?
父が米軍キャンプの「オフィサーズ・クラブ(将校クラブ)」でも仕事をしていたので、小さいときから連れていってもらって。そこでコカ・コーラを初めて飲んだとかね(笑)。基地のPX(注3)で買ってきたり、将校にもらったりとかで、ジャズのレコードがうちでかかっていたんです。最初は竹針を使ったモノラルのレコード・プレイヤー。ナット・キング・コール、テディ・ウィルソン(p)、ジョージ・シアリング(p)、あとはビッグバンドとか、そういう音楽を聴いて育ちました。
(注3)post exchange(アメリカ軍基地内の売店)。駐屯地、施設、艦船内などに設けられ、軍人や軍属などに日用品や嗜好品などを安価で提供。
——それが物心のついたころ。
そうですね。父は歌謡曲とかはかけなかったんで、そういう音楽をまったく知らないで育ちました。
——ギターとの出会いは?
ぼくは伯母と仲がよかったので、よく遊びに行ってたんです。彼女は下宿やアパートを経営していて、入っていた学生さんか誰かが出るときに置いていったギターがあったんです。質屋さんなんかで売ってる箱のギターで、弦がスティールの。それが面白いのでちょっといじって。それで、「これ、もらっていい?」。そこからです。
——音楽の素養はまったくないままに?
まったくないけれど、うちにピアノがあったから、遊びで弾いてはいました。でも、レッスンは受けたことがありません。姉は習っていましたけど。
それで、父がギターのチューニングとかを少し知っていたんで、古賀政男(注4)の曲とか(笑)、そんなのを弾いたりして。そこから見よう見まねで始まりました。
(注4)古賀政男(作曲家 1904~78年)マンドリン、ギター、大正琴を演奏したのち、国民的な作曲家に。代表作は〈酒は涙か溜息か〉〈影を慕いて〉〈人生劇場〉〈東京五輪音頭〉〈柔〉など、枚挙にいとまがない。
——お父様から教わったこともない。
ないです。レコードでギターが入っていると、「どうやってるんだろうな?」と思って、弾くようになったのがギターとジャズとの繋がりです。ぼくもナット・キング・コールが好きだったから、そうするとギターが入っているでしょ。和音はわからないけど、聴いて、「こうかな?」とかやって。そういう感じですよ。
——最初からジャズだった。
ええ。それが中学の一年か二年のころ。そうするともっと興味が出てくる。本屋さんに行くと、ギターの本とかコードが書いてあるものとかがあるでしょ。その中に、「ブルースはこういうコード進行だ」って書いてあったんです。それを一生懸命に覚えて(笑)、帰って弾いてみたら、「この曲もそうじゃない、あの曲もそうじゃない」。
そういう感じで、自分で発見したというか、ちょびっとずつ探っていったというか(笑)。友だちで音楽をやるひとがいなかったから、学校から帰ってくるとレコードと一緒にギターを弾くのがいちばんの楽しみ。ぼくがそんなことをやってることも誰も知らなかった。
独学でギターをマスター
そのころになると、父もモダン・ジャズにすごく興味があったから、セロニアス・モンク(p)やフィニアス・ニューボーン・ジュニア(p)とか、そういう硬派のジャズのレコードがうちで流れていたんです。同時に父がハモンド・オルガンを買ったもんだから、ジミー・スミス(org)やブルーノートのレコードもかかるようになりました。ぼくも自然とそういうモダン・ジャズも聴くようになって。
それで、ぼくがジャズ・ギターに興味を持っていることを知った父がバーニー・ケッセル(g)の『ポール・ウィナーズ・スリー』(コンテンポラリー)を買ってくれたんです。それが、買ってもらった自分のレコードの最初です。そのレコードにドップリ浸かって。そのころになると『スイングジャーナル』(注5)も読み始めています。
(注5)47年から2010年まで発刊された日本のジャズ専門月刊誌。
そこに、「ウエス・モンゴメリーというギタリストがいて、『ジ・インクレディブル・ジャズ・ギター・オブ・ウエス・モンゴメリー』(リバーサイド)というレコードを出した」という記事が載っていたんです。自分でお金を出して買った最初のレコードがそれ。
でもその前に、ウエス・モンゴメリーがすごいギタリストだっていうことを読んで、『バグス・ミーツ・ウエス』(リバーサイド)を買っていたんです。ところが『ジ・インクレディブル~』のほうがいいと聞いたんで、交換しに行って(笑)。レコード屋さんもよく交換してくれたと思います。
——それがいくつのころ?
高校になってたかな?
——ウエスのギターは難しいでしょ?
難しいもなにも、ぜんぶ難しいんだもの(笑)。バーニー・ケッセルだってすごいし。
——でも、レコードに合わせてけっこう弾けたんですか?
なんとなくね。
——最初はグラント・グリーン(g)も好きで。
シンプルだけどノリのいいフレーズが好きでした。あとでわかったけど、彼はチャーリー・パーカー(as)やソニー・ロリンズ(ts)のフレーズをずいぶん弾くんです。だからギターで細かくなりがちのところを、そういうフレーズでドーンと出てくる。そこに強く惹かれました。
——バンド活動はしなかった?
高校の最後のころになると、クラスにジャズ喫茶でタバコを吸っているようなワルがいるじゃないですか。ぼくがジャズを聴いているのをそういう連中が知って、うちに来るようになったのね。そのころ、ジャズのレコードを持っているヤツなんかあまりいなかったから。
彼らがうちに来るようになって、たまに父と一緒に演奏させてもらったりとか。そのへんでやっと音楽の友だちができるようになって。学校にもね、ドラムスを叩くヤツとか、ちょっとギターをやっているヤツとかがいたんで、高校三年の文化祭でやったことがあります。
——ジャズの演奏を?
ジャズというか、ぼくが選んだ曲を教えて、勝手にやっただけですけど(笑)。ぼくは早稲田中学、早稲田高校。それで早稲田大学に行って。そのときだって、どこの大学でなにが勉強したいかなんてまったく考えていなくて。早稲田には「モダン・ジャズ研究会」があるから、「そこに行こう」と思って、入ったんです。
クラブに入ったら、1年先輩に鈴木良雄(b)、チンさんがいたんです。そのころ、チンさんはピアニストだったけど、ベースもちょいちょい弾いていました。ベーシストはいつでもクラブの中で数が少ないから、みんな兼任で弾くようになるんです。ぼくも弾きました。そこで、初めてぼくとおんなじようなことを考えているおんなじような歳のひとと出会ったんです。音楽でコミュニケートができるひと、それがチンさんでした。
——おんなじようなこととは?
レコードを聴いて、「あのコードはなんだろう?」とか、「あそこは3連のなにでやってる」とか、そういう細かいことに意識がいってるひと。そのころは教則本もなにもないし、理論もわからないから、自分で研究するしかない。それで、高校時代にいろいろコピーすることはやっていたから、その音が頭の中で鳴っていて、「あのサウンドはこうだ」とかはだいたいわかっているわけですよ。
そういうことをチンさんも考えていたんです。チンさんはクラシックの鈴木バイオリン(注6)出身ですから、ぼくとは違うところから音楽にきています。でも、チンさんも大学ぐらいからジャズに興味を持つようになって。デイヴ・ブルーベック(p)をコピーしたりとか、いろいろやっていたわけです。以来、ぼくたちはずっとライヴァルです。
(注6)46年に長野県松本市でヴァイオリニストの鈴木鎮一が開設した「松本音楽院」が母体。音楽を通じ心豊かな人間を育てることが目的の教育法で、日本、アメリカなどで活動を展開。
大学一年で渡辺貞夫と共演
——増尾さんが部室で弾いているのを誰かが観て、「すごいのが入ってきた」と大騒ぎになって、みんなが聴きに来たそうですが。
入学して普通はすぐクラブに入るでしょ。でもぼくは恥ずかしいというか、1か月ぐらい部室に行かなかったんです。それでひと気がなくなったころ(笑)、部室に行ったら先輩たちがいて、「なにか弾けよ」と。そうしたら、チンさんに「レコードから出てくるみたいな音がしてた」といわれました。それで部室にあったノートに、「すごいのが来た」と誰かが書いたから、大騒ぎになったんです。
——高校では学園祭でバンドを組んだとおっしゃいましたが、グループ活動はしていない?
していません。ほかのひととちゃんとやるのも大学に入ってからです。
——タモリ(注7)さんが同級生。
そうです。彼がこんなふうになるとは夢にも思わなかったけれど、頭がすごくよかった。ぼくの知ってるタモリはおとなしくて真面目で、静かで地味な存在。彼とはスクールバスで帰るときに、「昨日はロールキャベツを作った」とか(笑)、そんな話をしたことを覚えています。同級生のサックスでクラブのマネージャーをやっていた瓜坂(正臣)君が、タモリに「お前、司会やれ」となって、司会を始めたんです。
(注7)タモリ(タレント・司会者 1945年~)本名は森田一義。大学卒業後、福岡に帰郷し、生命保険外交員、喫茶店の雇われマスター、ボウリング場の雇われ支配人を務める。山下洋輔(p)らにアドリブ芸を披露したのがきっかけでデビュー。82年に『笑っていいとも!』(フジテレビ)と『タモリ倶楽部』(テレビ朝日)の放送が始まり、人気者に。前者は放送期間31年6か月、放送回数8054回の大長寿番組となった。
——司会のときは、おとなしいタモリさんが豹変するんですか?
あのあたりから、のちのタモリが出始めたんじゃないかな?
——おとなしいのか、それとも面白いことをいうのが地か?
両方あると思います。
——司会は大受けだった?
だと思いますよ(笑)。
——トランペットも吹いて。
吹いてはいたけど、まあまあだったから、「司会がいいんじゃない?」と。
——渡辺貞夫さんとの出会いは?
1年生の秋に、チンさんや先輩と銀座の「ジャズ・ギャラリー8」に佐藤允彦(p)さんを聴きに行ったんです。相倉久人(注8)さんが司会で、「昨日帰ってきた渡辺貞夫(as)が今晩演奏するから、よかったらそのままいてください」。貞夫さんのことは『スイングジャーナル』で知っていたけど、一度も聴いたことがない。それで夜まで待って、貞夫さんの演奏を聴いたら桁違いにすごかった。
(注8)相倉久人(音楽評論家 1931~2015年)【『第1集』の証言者】東京大学在学中から執筆開始。60年代は「銀巴里」や「ピットイン」、外タレ・コンサートの司会、山下洋輔(p)との交流などで知られる。70年代以降はロック評論家に転ずるも、近年はジャズの現場に戻り健筆をふるった。
そのころになると、新宿の「タロー」とかに行って、日本人のギタリストなら小西徹さんとかね、そういうひとは聴いていました。でも、貞夫さんの演奏はいろんな意味で別格でした。
それで、いまから考えてみると奇跡みたいな話ですけど、新宿で「J」というライヴ・ハウスをやっている幸田(注9)さん。幸田さんはチンさんと同級生で、アルト・サックスを吹いていたんです。
(注9)バードマン幸田(「Jazz Spot J」店主 1945年~)本名は幸田稔。早稲田大学「モダン・ジャズ研究会」でサックス奏者として活躍。会社勤務後、78年にタモリなどジャズ研OBの共同出資で「Jazz Spot J」を開店、店主となる。
貞夫さんがアメリカに留学する前の話です。そのころは留学がたいへんなことだったから、貞夫さんは家財道具をぜんぶ売って、それで行くと。自分のレコードも売っていて、それを幸田さんが買いに行ったんです(笑)。ですから、ちょっと顔見知りだった。
早稲田は秋に「早稲田祭」があって、そこで「モダン・ジャズ研究会」がひと部屋借りて演奏するんです。幸田さんが「ジャズ・ギャラリー8」のあと、貞夫さんのところに行って「来てくれませんか?」と聞いたら、すごく気楽に「いいよ」といって、来てくれたんです。みんな「ええッ! 嘘だろ」ですよ。それで貞夫さんを迎えるためのバンドを作って。そのときはチンさんがピアノで、ぼくがギターで、ベースとドラムスが先輩で、そこに貞夫さんが入って演奏したんです。
そりゃあもう必死です。
——曲はすでに決まっていた?
決まってませんよ(笑)。ぼくらができそうな曲をやってくれたんだと思います。とにかく信じられない夢のようなことでした。こっちは大学の1年生ですし、そんなことがなければ貞夫さんと演奏できるなんて、まずないでしょ。それで、それから1年か2年したころかな? 貞夫さんのバンドに入ることになるけど、ぼくのことを認めてくれたのがそのときだったんです。
——貞夫さんのバンドに入る前にも何度か共演はしているんですか?
トラ(エキストラ)で「ジャズ・ギャラリー8」に呼んでくれて、やりました。ピアノの誰か、前田憲男さんとか八木正生さんとか、いろんなピアノのひとが貞夫さんのバンドでやっていましたから、そのひとたちができないときに呼ばれたんだと思います。こっちは死ぬ思いでしたけど(笑)。
渡辺貞夫カルテットに参加
——貞夫さんのバンドに入るのはどういうきっかけで?
突然「入らない?」と誘われて。
——びっくりしました?
もちろんびっくりしました。家が新井薬師ですから、西武線で高田馬場に行って、スクールバスか歩くかで早稲田に行く。子供だったから、途中に雀荘がたくさんあるとか(笑)、そんなことも知らないし、興味もなかった。ギターを弾くことが好きだったから、それにずっとハマっていただけで、勉強もダメ。社会とはどういうことか、人間はどうやって生きていくのか、そういうこともぜんぜん知らない。ましてや、プロになるのはどういうことかなんてまったく知らないでジャズ・ミュージシャンになってしまった。
ジャズ・ミュージシャンで生活していくのはたいへんなことですよ。でもやっぱり好きだったから、貞夫さんに誘われて「アッ、そうか」と。もちろん「できるのかな?」って不安はありました。それでも自分で心に決めて、すんなり「やらせてください」といって、バンドに入りました。
——大学三年のときですよね。当時の貞夫さんのバンドは忙しかったでしょ?
そりゃあそうですよ。それで最初の1年間ですけど、ベースがなかなか決まらなくて。大げさにいえば毎月変わっちゃうぐらい。1年がすぎたあたりでやっとチンさんになって、落ち着いたんです。
——ドラムスは誰だったんですか?
渡辺文男さん。貞夫さんの弟さん。
——67年ということは、貞夫さんがボサノヴァなんかをよく演奏していた時代。
貞夫さんはゲイリー・マクファーランド(vib)とのつき合いがあったので、アメリカから帰ってきた時点でボサノヴァをはじめ、バート・バカラック(注10)やビートルズ(注11)の曲をレパートリーにしていました。音楽的な意味ではとてもエキサイティングな時期で。そういうものを取り入れる貞夫さんはすごくファッショナブルなひとだったと思うんです。ところがぼくはウエス・モンゴメリーが好きで、その世界にハマっていたからたいへんでした。ロックも聴かないとダメだし。
(注10)バート・バカラック(作曲家 1928年~)60年代初頭から70年代にかけて、作詞家のハル・デヴィッドとのコンビで多くのヒット曲を作曲。 〈雨にぬれても〉で「第42回アカデミー賞」受賞。〈遙かなる影〉〈恋の面影〉〈サン・ホセへの道〉〈小さな願い〉〈ウォーク・オン・バイ〉〈アルフィー〉など、2006年の時点で、米国で70曲のトップ40を持つ実績がある。
(注11)60年代初頭から70年にかけて、イギリス・リヴァプール出身のジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターで活動したロックバンド。多数のヒット曲と革新的な音楽性でポピュラー・ミュージックの流れを変えた。
ギターは、その前にベンチャーズとかのエレキ・ブームがありました。ギターといえばみんなそれですよ。ぼくはませていたというか、ジジイが弾いているジャズ・ギターのほうがかっこいいと思っていて、音や音楽の内容からしてベンチャーズには興味がなかった。でもあとになって、「オッ、こういうのも面白いな」とは思いました。
貞夫さんのバンドに入ったころはビートルズが出てきていたでしょ。ギターでも、ジミ・ヘンドリックス(注12)とかクリームのエリック・クラプトン(注13)とかジェフ・ベック(注14)とかレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジ(注15)とかが出てきた。年代の近いひとが弾いているし、感じるものがいろいろあって、そういうプレイも好きになりました。貞夫さんのバンドでもいろんな音楽を取り入れるようになって、同時進行的にぼくもほかの音楽に強い興味を持つようになっていきました。ボサノヴァなんか、ギターでもぜんぜんスタイルが違う。そういうものが一遍にウワーっと凝縮されて。
(注12)ジミ・ヘンドリックス(g 1942~70年)66年に渡英しジミ・ヘンドリクックス・エクスペリエンス結成。67年「モンタレー・ポップ・フェスティヴァル」でアメリカに凱旋。ギターに火をつけるパフォーマンスが有名。革新的なギタリストと評判になるも、ツアー中のロンドンで死亡。死因は不明。
(注13)エリック・クラプトン(g 1945年~)ジェフ・ベック、ジミー・ペイジと並ぶ3大ロック・ギタリストのひとり。ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズを経て、66年にジャック・ブルース(elb)、ジンジャー・ベイカー(ds)とクリーム結成。68年の解散後はブラインド・フェイスやデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。その後はソロ活動を中心に現在にいたる。
(注14)ジェフ・ベック(g 1944年~)エリック・クラプトン脱退後のヤードバーズに参加し、68年にジェフ・ベック・グループで独立。ハードなギター・サウンドを売りにしたが、70年代中盤はフュージョン的な演奏、その後はエレクトロニカ、テクノロック・サウンドに接近し、いまもロック・ギターの最前線で活躍中。
(注15)ジミー・ペイジ(g 1944年~)ヤードバーズに参加後の68年にレッド・ツェペリンを結成し、世界的な評判を獲得。80年の活動停止後はソロ・ワークとツェペリンのシンガー、ロバート・プラントともしばしば共演。
そのころの貞夫さんは『ナベサダとジャズ』(注16)というラジオ番組をやっていたでしょ。あれは毎週ニッポン放送に行って、ちょっとはリハーサルもやりますけど、次から次へと曲を演奏する。チンさんとぼくはコード譜だけをでっかい紙に書いて(笑)、それを見ながら、必死ですよ。仕事が終わったあととかに、チンさんの車をそのへんに停めて聴くけど、ふたりでいつも「またダメだ」(笑)とやってました。反省ばかりですよ。でも、いい思い出です。
(注16)69年4月から72年6月1日まで、月~金曜の午後11時から15分間ニッポン放送で放送されていた。
——貞夫さんはやる曲がなくなって、楽譜集の最初から順にやっていったと(笑)。
貞夫さんもたいへんだったでしょうね(笑)。一緒にやったのは3年ぐらいですけど、すごく凝縮された充実した日々でした。チンさんとは、「あのときがいちばんたくさんお金をもらってたんじゃないの」ってよく話すんだけど(笑)。
——すごい人気だったでしょ。普通のジャズのグループじゃないですよね。
ぼくたちは団塊の世代が始まる世代だから、貞夫さんのバンドに入ったことで同世代のひとが聴きに来るようになったんです。いまのロック・バンドのノリですよ。女の子がウワーって来るんだから(笑)。
——音楽だけじゃなくて、着てるものもかっこよかった。とくに増尾さんがかっこよくて、憧れていたんですから。
アッハッハ(笑)。貞夫さんはいまでもファッショナブルですからね。
新時代のジャズ
——増尾さんが入る前の貞夫さんのカルテットはプーさん(菊地雅章)がピアノで。増尾さんがピアノの代わりにギターで入って、チンさんが曲によってはエレクトリック・ベースも弾いて。同じカルテットでも、それで音楽が変わったじゃないですか。そこから貞夫さんは〈パストラル〉(注17)とかのオリジナルを中心にやるようになった。新しい音楽を作ろうとしたきっかけが、増尾さんとチンさんが入ったからだと思っているんですが。
どうなんでしょう? 貞夫さんはアメリカでゲイリー・マクファーランドと仲がよくて、ガボール・ザボ(g)とも演奏しているんですよね。だから、ピアノじゃなくてギターが入っているバンドのサウンドにも興味があったんだと思います。
ぼくはウエス・モンゴメリー一点張りだったけれど、それじゃ追いつかない。それでピックを使ってギターを弾き始めたし、ソリッド・ボディのギターを使い始めた。実験というか、当時はいろんなことをやってました。そのときは音楽界ぜんぶがそうでしたから。
それまでの数十年間はモダン・ジャズがいちばんかっこいい音楽だったと思うんです。でもビートルズが出てきて、楽器にしろ音にしろ、ジャズ・ミュージシャンもそういうものを取り入れて、実験を始めたんです。ぼくもそうでしたが、なにがなんだかわからないでやってたことがたくさんあったと思います。
(注17)『パストラル』(CBS・ソニー)に収録。メンバー=渡辺貞夫(as fl sns) 八城一夫(p) 増尾好秋(g) 松本浩(vib) 鈴木良雄(b) 渡辺文男(ds) 田中正太(flh) 松原千代繁(flh) 69年6月24日、7月8日 東京で録音
——70年前後のことですが、あるロック・フェスティヴァルに行ったら、増尾さんとチンさんと、ドラムスはつのだ☆ひろ(注18)さんだったと思うけど、出てきました。
そういうのにも出ました。
(注18)つのだ☆ひろ(ds 1949年~)本名は角田博。60年代後半から渡辺貞夫、ジャックス、岡林信康、成毛滋、サディスティック・ミカ・バンドなどで活躍。71年歌手として発表した〈メリー・ジェーン〉がロングセラーを記録。
——ロック・ミュージシャンとのセッションもやっていたんですか?
多くはないですが、ところどころでやってました。どこで繋がったかは覚えてないけど、ザ・ゴールデン・カップスのエディ藩(g)(注19)とセッションをやろうとなって、チンさんとぼくに、エディ藩が連れてきたドラムスや歌手を入れて演奏したことがあります。面白かったですよ。
(注19)エディ藩(g 1947年~)本名は潘廣源。66年にデイヴ平尾(vo)を中心に結成されたザ・ゴールデン・カップスのギタリスト。ヒット曲は〈長い髪の少女〉など。69年エディ藩グループ結成。その後も何度か再結成されたザ・ゴールデン・カップスに参加
——成毛滋(g)(注20)さんとも交流はあったんですか?
ちょっとありました。だって、つのだ☆ひろが彼と繋がってるから。
(注20)成毛滋(g 1947~2007年)ザ・フィンガーズでデビュー後は日本のロック・シーンを代表するバンドを率いる一方、スタジオでも引っ張りだこに。
——そもそも、つのだ☆ひろさんとはどうして知り合ったんですか?
友だちに紹介されたと思うけど、もともとジャンルが違うからね。でも、ジャズも好きで聴いていたし、ジャズのドラムスが叩けたからつき合うようになったと思います。
——貞夫さんのバンドにつのださんが入ったのは、増尾さんとの関係?
チンさんとぼくとで「つのだ☆ひろはどうか?」と、貞夫さんに紹介したと思います。
——2枚目のリーダー作『24』(CBS・ソニー)(注21)ではレス・ポール(注22)を弾いて、ハードロックみたいな演奏じゃないですか。その前が『バルセロナの風』(同)(注23)で、こちらはA&Mから出たウエス・モンゴメリーみたいなサウンド。音楽がぜんぜん違いました。『バルセロナの風』はどういういきさつで作ったんですか?
CBS・ソニーが「リーダー作を作らないか?」といってきて。同級生ですけど、伊藤潔君がプロデューサーですから、彼と作ったアルバムです。
(注21)全曲が増尾作曲による意欲作。メンバー=増尾好秋(g) 市川秀男(elp) 鈴木良雄(b vo per) 日野元彦(ds) 角田ヒロ(ds per) 渡辺貞夫(fl per) 伏見哲夫(tp) 今井尚(tb) 堂本重道(btb)ほか 1970年10月12日、19日 東京で録音
(注22)ギブソンがレス・ポール(g)と共同開発し、52年から製造・販売しているエレキ・ギター。ロック系ギターではフェンダーのストラトキャスターと並ぶ代表モデル。
(注23)増尾のデビュー作。メンバー=増尾好秋(g) 杉本喜代志(g) 鈴木良雄(b) 渡辺文男(ds) 宮田英夫(fl) 八城一夫(org p) ラリー須長(per) 鈴木信宏(vib marimba) 1969年2月19日、5月1日 東京で録音
——自分のリーダー作ではウエスのような音楽がやりたかった?
ぼくが少しウエスから外れてたころの作品ですから、そこはちょっと複雑なんです。
——翌年(70年)吹き込んだ『24』ではまったく違う音楽になって。
そのころは自分で曲を書き始めて。あの時代だからみんな暗中模索で、すごくエキサイティングでした。どのジャンルの音楽もエキサイティングだった時代です。
——自分のライヴもそういう感じで。
始めていました。レス・ポールでどういう音を作るか。音作りにしても、そのころはまったく模索中で。
——演奏していて、自分たちのやっている音楽が変わってきた実感はありましたか?
滅茶苦茶ありました。
——貞夫さんのバンドに入って、音楽の幅が広くなります。
音楽のジャンルが違うから、その上で音楽を作らないといけない。「どうやったらいいんだろう?」と、自分なりに「ああでもない、こうでもない」とやってました(笑)。
——そのころ聴いていたギタリストは?
ジム・ホールです。彼はピアノなしでホーンのバッキングをしているから、どういうサウンドでどういうタイミングでやっているか、それが参考になりました。
——その時代ですから、新しいタイプのギタリストも出てきました。ラリー・コリエルやジョン・マクラフリンなんかに興味はなかったんですか?
すごくありました。アメリカに住むようになったのが71年ですけど、その前の年にヤン・ハマー(key)とジーン・パーラ(b)がサラ・ヴォーン(vo)の伴奏で来日したんです。貞夫さんとジーン・パーラはバークリー(音楽院)の学友ですから、貞夫さんが「ピットイン」でやっているというんで遊びに来たんです。
ヤン・ハマーともそういうことでちょっと繋がりができて、彼が住んでいたロフトでセッションをやってたときかな? 「いますごく面白いバンドのリハーサルをやっていて、今度ビーコン・シアターで初めての演奏をやるから、おいでよ」。それがマハヴィシュヌ・オーケストラのデビュー・コンサート。滅茶苦茶にすごかったです。
マイルス(デイヴィス)(tp)がエレクトリックのバンドをやってたし、ほかのひとも始めてましたよね。チック・コリア(key)がリターン・トゥ・フォーエヴァーを作って、ハービー(ハンコック)(key)がヘッドハンターズ。みんなそっちの方向に行ってたでしょ。だけどぼくはギタリストだから、マクラフリンが結成したマハヴィシュヌ・オーケストラにいちばんぶっ飛ばされました。
自分でああいう演奏はしないけど、ギターではジミ・ヘンドリックスが好きでした。ジャズ・ギターとは違う大きなヴォリュームで弾くギター。楽器自体、質が変わるんです。ジャズ・ギターを自転車に乗っている感じとすれば、ロック・ギターのヴォリュームはオートバイ。パワーが違う。そういうことはギターでしかできないし、それが魅力です。
ニューヨークに移住
——貞夫さんのバンドに入って、一方では自分のグループでも演奏していました。
そっちはたいしたことないけど、ちょびっとはやってました。
——渋谷にあった「オスカー」で増尾さんの演奏を聴いたことがあります。先日インタヴューした川崎燎(g)さんによれば、「オスカーで別格にすごいのが増尾さんとチンさんがいた早稲田のバンドだった」とのことです。「オスカー」にはよく出ていたんですか?
あそこは学生時代に。いま考えてみると特別な場所でした。
——あちこちの大学のバンドが出ていて。
この間も思い出していたんですけど、ぼくたちが演奏していたときに白木秀雄(ds)さんが来て、2、3曲一緒に演奏してくれたことがあるんです。どうして学生のバンドをあんなにたくさん出してくれたんだろう?
——これは貞夫さんのバンドに入る前?
入るちょっと前じゃないですか?
——増尾さんは、川崎さんと直居隆雄さんとで「若手ギター三羽烏」と呼ばれていました。ふたりのことは意識していました?
もちろんですよ。燎は日大(日本大学)、直居君は青山(青山学院大学)、ぼくは早稲田。楽器が違っても学校が違っても、同級生で音楽をやっているのはみんな仲間でした。面白いのは、そのころの燎はケニー・バレル(g)にハマっていて、直居君はジム・ホール、ぼくはウエス・モンゴメリー。三者三様で、ライヴァルでした。
——3人でやったことは?
「オスカー」でもやったし、ほかのところでも何度かやりました。
——話は変わりますが、貞夫さんのグループで70年に「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」(注24)に出ます。そのときに、増尾さんはギターを買おうと持っていったお金やパスポートを火事でなくしてしまったとか。
ホテルが貞夫さんの泊まったことのあるタイムズ・スクエアのそばだったんで、近くのチャイニーズ・レストランで食事をしていたんです。たまたまぼくは、その日買ったショルダー・バッグにトラヴェラーズ・チェックからパスポートから、ガールフレンドにもらった日記とか、大切なものをぜんぶ入れて。
(注24)54年にプロモーターのジョージ・ウェインがロードアイランド州ニューポートでスタート。58年の模様は、映画『真夏の夜のジャズ』でドキュメント化されている。72年からはニューヨークで開催。現在は世界各地で「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」の名を冠したコンサートが開かれている。
それで食べている最中に煙が出て、「火事だ。みんな出てくれ」。でも緊急な感じじゃないから、水でも飲んで、ぼくなんかスペアリブをひとつ持って(笑)、「じゃ、行きますか」。外に出て見ていたら、あっという間にどんどん燃えて。消防車も来てワーワーやり始めて、「アーア、燃えちゃった」みたいなときに、バッグを忘れてきたことに気がついたんです。あのときは貞夫さんにも迷惑をかけたと思います。
——それが増尾さんにとって初めてのアメリカ?
そうです。
——ニューヨークに移るのは翌年。
そのままぼくたちは日本に帰って、翌年の1月にバンドが解散することになったんです。貞夫さんのバンドも同じメンバーで3年ぐらいやって、煮詰まってきたとかいろいろあって、「ここで解散するか」と。
さし当たってぼくには「なにをやろう」というのがなかったんで、ニューヨークならレコードでしか聴けなかったミュージシャンがやっているし、「そこに半年ぐらい行こう」と。そう決めて、チンさんと直居君との3人で行くことにしたんです。そのあといろいろ音楽の仕事をしてお金を作り、6月に行きました。その時点で、チンさんは「しばらく行くのはやめるわ」となってドロップアウトしたので、直居君とふたりです。
ニューヨークで知っているのは中村照夫(b)さんだけだったので、ラガーディア空港まで迎えに来てもらい、アパートが見つかるまで、ぼくはクイーンズにあった照夫さんのうち、直居君は照夫さんの友だちのベーシストが借りていたマンハッタンのアパートに居候して。そのあと一週間くらいでマンハッタンにアパートを見つけて、ふたりで引っ越しました。
——半年で戻ってくるつもりだったけれど、居ついてしまった。
クリスマスのころに直居君は帰りましたが、ぼくは帰る気持ちじゃなかった。だからもうちょっといようと決めて、そのまま居残ったんです。
——そのころは、あちこちでジャズを聴いていただけですか?
できるときは飛び入りしたり、ジャム・セッションをやっていればそこに行ったりとか。いろんなミュージシャンと会うのはそれしかないですから。最初は照夫さんにずいぶんヘルプしてもらいました。彼がやっている仕事、マンハッタンの中じゃなくて、ブルックリンとかクイーンズとか、そういうところにも音楽のできるところがあるんです。街角のバーで演奏するとかね。そういうレヴェルのものもあれば、彼がロイ・ヘインズ(ds)のバンドでやるようになったので、そこでも演奏しました。
友だちに「マンハッタンでリハーサルをやってるから来い」といわれて行ったら、リー・コニッツ(as)がいて、彼のバンドでもやるようになったとか。そういう感じで少しずつ広がっていきました。
ソニー・ロリンズのグループに抜擢
——最初に有名なミュージシャンとやった仕事がエルヴィン・ジョーンズ(ds)のレコーディング(注25)ですか?
前の年に東京で知り合ったジーン・パーラに呼ばれて。それが名のあるひととやった最初ですね。
(注25)『メリー・ゴー・ラウンド』(ブルーノート)のこと。メンバー=エルヴィン・ジョーンズ(ds) スティーヴ・グロスマン(ts ss) デイヴ・リーブマン(ts ss) ジョー・ファレル(te ss fl piccolo) ペッパー・アダムス(bs) チック・コリア(p elp) ヤン・ハマー(p elp) 増尾好秋(g) ジーン・パーラ(b elb) ドン・アライアス(per) 1971年12月16日 ニュージャージーで録音
——行って、どのくらいの時点で?
6月に行って、12月ごろ(16日)。メンバーがすごいですよ。チック・コリアとヤン・ハマーの2キーボードでしょ。サックスがスティーヴ・グロスマンとデイヴ・リーブマンとジョー・ファレルとペッパー・アダムスだし、ドン・アライアス(per)も入っていたし。
——そのときは「こんな感じで弾け」とか、いわれたんですか?
そんなものないですよ。リハーサルもないから(笑)、自分で考えてやるしかない。
——エルヴィンとはレコーディングだけで、このあとがリー・コニッツのバンド。
リーと最初にやったのが、以前「ハーフ・ノート」だった店の仕事で、休憩時間に外に出たら、看板に「ハーフ・ノート」と書いてあるんです。内装も同じだから、バーが真ん中にあって、その上で演奏しました。メンバーは、バークリーを卒業したばかりのハーヴィー・シュワルツ(b)とジミー・マディソン(ds)。
——ツアーにも出たんですか?
アップステートのほうでやったりとか、ちょっとしたツアーには行きました。リーとは半年以上やったんじゃないかなあ? ずいぶん仕事をしています。
——まだグリーンカードは持っていませんよね。まずくはなかった?
英会話の学校にお金だけ払って、そこにはほとんど行ってないけど(笑)、学生ヴィザをもらっていました。
——ソニー・ロリンズのバンドに入るまでには少し間があるんですか?
そのあとすぐでした。「ハーフ・ノート」だったさっきの店で知り会った、ぼくと同年代のミュージシャン、ボブ・ムーヴァー(as)の奥さんが日系ブラジル人だったんです。そんなことや、アパートも近くだったので一緒に練習や仕事もするようになりました。
彼はあちこちに電話して、いろんな話をする社交的なヤツで(笑)。ソニー・ロリンズに電話をしたら、「誰かギタリストいないか?」。それでぼくを紹介してくれたんです。「今度ソニーから電話があるかも」「冗談でしょ」なんていってたら、本当にかかってきた。「19丁目のリハーサル・スタジオで練習するから」といわれて、行きました。
その1週間くらい前にも、同じスタジオでチック・コリアとリハーサルをやっているんです。そのときはスタンリー・クラーク(b)とスティーヴ・ガッド(ds)でした。
——チックからも誘われたんですか?
すぐに「やらないか」といってくれたのがソニーだったので決めてしまいました。そうしたら、チックからも電話があって「やらないか?」。そのころはどちらかといえばロック系のギターに興味を持っていたけど、先に約束したんで。でもソニーのバンドはやっぱり気持ちがよかったというか、魅力がありました。
——それでチックのバンドにビル・コナーズ(g)が入ったんですね。それが第2期のリターン・トゥ・フォーエヴァー。
ぼくの前に入っていたのがアール・クルー(g)ですよ。
——タイプが合わないとなって、アール・クルーからビル・コナーズに交代したと聞いています。その間に、増尾さんともリハーサルしていたんだ。アメリカに行ってしばらく経っていましたが、コニッツに誘われ、チックに誘われ、ロリンズのバンドで活躍していたというのは自信になりません?
なんないですね(笑)。貞夫さんのバンドに入ったときも、駆け出しでなにもわかっていないうちにポピュラーになっちゃって。そのころは『スイングジャーナル』で1位になっていたけれど(注26)、ぜんぜん実感がなかった。アメリカに行ったのも自信をつけたい気持ちがあったからです。自分がちゃんとしていると思っていないのにチヤホヤされても、そんなに嬉しくない。ですから、そういうひとたちと共演できてラッキーでしたけど、ぼく自身は一生懸命でした。
(注26)70年、71年、73年、74年、75年の同誌「読者人気投票」〈ギター部門〉で第1位。
エルヴィン・ジョーンズ、ラリー・ヤング、アシュフォード&シンプソン
——ロリンズはどういう感じのひと?
ソニーは大きく歌うところは歌うというか、スケールが格段に大きかった。彼の音楽はハッピーで、みなさんにもそういうイメージがあると思うけど、ぼくにとってのソニーは繊細で、深く考えるひと。悩んでいる部分もきっとあるし、複雑なひとだと思います。
——教わることも多かった?
一緒に演奏して得たものが教わったことだと思います。無言の教えですね。そういう点で貞夫さんもそうだったし、ソニーも「ああやれ、こうやれ」というひとではなかった。一緒にやって、なにもいわなくてもできるヤツなら使うということじゃないですか?ぼくは貞夫さんのバンドでもソニーのバンドでもサイドマンですよ。サイドマンは、リーダーをバックアップする。それができるひととできないひとがいるんです。ぼくは、バックアップが自然とできる。
ソニーのバンドには73年から76年までいました。そのあと、81年からまた3年ほどやりますが、最初の参加が終わって、すぐに川崎燎のトラでエルヴィン・ジョーンズのツアーをやっているんです。ヨーロッパを廻る1か月以上のツアーで、それはそれですごく面白かった。
その直後、今度はラリー・ヤング(org)のバンドに入ったんです。これがとんでもないバンドでした。そのころ、彼はモスレムになったんで、ハリド・ヤシンという名前になって、ターバンと白衣姿で。
最初はジョー・チェンバース(ds)とウォーレン・スミス(per vib)のカルテットだったけど、それがすぐに変わって、ドラムスがふたり、コンガがふたり、ギターがふたりのバンドになりました。もうひとりのギターが(ジェームス)ブラッド・ウルマーですよ。シカゴから出てきたばかりで、自分のバンドをやる前です。
音楽はジャングル・ミュージックというか、ラリーがオルガンを弾き始めて延々といくんです。いってみるなら、砂漠があって、ラクダが歩いていて、太陽が出て、風がビューって吹いたりとか、そういうような……まあドラッグですね(笑)。それはそれでものすごく面白かった。ぼくはグラント・グリーンのレコードを聴いてましたから、彼とやっていたラリー・ヤングと一緒にできたことは本当に楽しかったですけど。
——YouTubeにアップされていますが、アシュフォード&シンプソンのバンドにも入っているんですね。
クイーンズのミュージシャンでドゥワイト・ギャサウェイという体のでかいヴァイブラフォンのひとがいたんです。彼が当時のR&Bのヒット曲をやるバンドを作っていて、そのバンドにも入っていました。そういう繋がりから、アシュフォード&シンプソンがギターを探しているというんで、紹介されて。
——ツアーにも出るんですね。
ちょっとですけどね。
——それでグリーンカードを取ったとか。
そのときはソーシャル・セキュリティ・ナンバーです。グリーンカードはもうちょっとあと。テレビに出ると、ソーシャル・セキュリティ・ナンバーがないとギャラがもらえない(笑)。それで申請しに行ったら、ヴィザも調べられないでパッとくれました。
——ミュージシャン・ユニオンには入ったんですか?
そのときは入ってなかったです。
——でも問題にはならなかった。
どうだったんだろう? あのころはいい加減だったんじゃないですか? あのふたりもすごく大切にしてくれて、いま考えてみると本当にいい体験でした。
——増尾さん的には違和感がなく。
ぼくはああいう音楽も好きだったから、楽しんでやってました。
——アメリカではスタジオ・ミュージシャンはやっていない?
ないです。
——日本にいたときは?
やりました(笑)。佐藤允彦さんがアレンジした曲や、シャープス&フラッツにトラで入ったとか。シャープス&フラッツではウエス・モンゴメリー風のものもありました。劇伴もあったんじゃないかなあ。ぜんぜんできないけど、カントリー&ウエスタンみたいなものを弾かされたり。
——そういうときはスタジオに行って、譜面を渡されて、すぐレコーディングですか?
そうでしたね。譜面なんて強くないから必死ですよ(笑)。
ニューヨークでのレコーディング、そして活動を中断
——ラリー・ヤングに話を戻すと……。
彼はそのあとすぐに亡くなっちゃったんです。そのころにぼくは初めて自分のバンドがやりたいと思って、自分で仕事を取ってバンドを始めたんです。
最初はジャズ・ミュージシャンを集めてやってたけど、どうも違う。そんなときに出会ったのがベースのT・M・スティーヴンス。若いドラムスもいたし、まったく違うジャンルのひとたちと音楽をやるようになったんです。同じころに、日本の若いひとたちから「アルバムを作りませんか?」というアプローチがあったんです。そのときにいろいろありまして、「スタッフのメンバーを使わないか?」とかね。
——レコーディングの話が出たので、順にお聞きしますが、ニューヨークに行って最初に作ったアルバムが75年録音の『111 サリヴァン・ストリート』(注27)。
日本でイースト・ウィンドというレコード会社ができましたよね。それで「アルバムを作らないか」となって。ソニー・ロリンズとやっている最中の録音ですから、ロリンズのリズム・セクション、ボブ・クランショウ(b)とデヴィッド・リー(ds)に、チンさんと、ソニーを紹介してくれたボブ・ムーヴァーとジミー・ラヴレス(ds)。ジミーはウエス・モンゴメリーとやっていたひとで、サンフランシスコから来て、そのままニューヨークに住んでいたドラマーです。このふたつのバンドでレコーディングしました。
(注27)渡米後の初リーダー作。ソロ、アルト・サックスとのデュオ、ギター・トリオ、カルテット編成でスタンダードからオリジナルまでを演奏。メンバー=増尾好秋(g) ボブ・ム—ヴァー(as) ボブ・クランショウ(b) 鈴木良雄(b) デヴィッド・リー(ds) ジミー・ラヴレス(ds) 1975年9月27日、28日 ニューヨークで録音
——その次が、先ほど話に出たレコーディングで、これが『セイリング・ワンダー』(キング/エレクトリック・バード)(注28)。
そうです。だけど、最初はレコード会社もなにも決まっていませんでした。彼らがそれをキング・レコードに持っていって、それならキング・レコードは新しいレーベルを作ろうということで、エレクトリック・バードというレーベルを作ったそうです。キング・レコードではぜんぶで6枚(注29)吹き込みました。それが自分のバンドを作っていった過程でのレコーディングです。あの6枚は、だから自分としては充実しています。
(注28)スタッフの主力メンバーやデイヴ・グルーシンとセッションしたエレクトリック・バード第1弾作品。メンバー=増尾好秋(g syn per) エリック・ゲイル(g) リチャード・ティー(p org) デイヴ・グルーシン(syn) マイク・ノック(syn) ゴードン・エドワーズ(elb) T・M・スティーヴンス(elb) スティーヴ・ガッド(ds) ハワード・キング(ds) アル・マック(ds) バッシーニ(conga) ウォーレン・スミス(per) 1977年6月25日、11月15日 ニューヨークで録音
(注29)『セイリング・ワンダー』(77年録音)、『サンシャイン・アヴェニュー』(同79年)、『グッド・モーニング』(同79年)、『マスオ・ライヴ』(同80年)、『ソング・イズ・ユー・アンド・ミー』(同80年)、『フィンガー・ダンシング』(同80年)
最初の『セイリング・ワンダー』はスタッフのメンバーとレコーディングしましたが、2枚目の『サンシャイン・アヴェニュー』(注30)と3枚目の『グッド・モーニング』(注31)は、ぼくが出会ったミュージシャン、T・M・スティーヴンスと若いドラマーが入って、完全に自分のバンドでのレコーディングです。
(注30)強力なリズム・セクションを得て結成した増尾グループによる1作目。メンバー=増尾好秋(g solina per) ヴィクター・ブルース・ガッジ—(p elp clavinet vo) ホルヘ・ダルト(p) T・M・スティーヴンス(elb piccolo-b) ロビー・ゴンザレス(ds) カールス・タレラント(per) パポ・コンガ・プエルト(conga) シャーリー・マスオ(per) マイケル・チャイムズ(hca) 1979年1月27日~2月12日 ニューヨークで録音
(注31)当時のワーキング・バンド+増尾元章他で吹き込んだ2作目。メンバー=増尾好秋(g syn vo) 増尾元章(g syn) ヴィクター・ブルース・ガッジ—(p elp) デリー(org) T・M・スティーヴンス(elb piccolo-b) ロビー・ゴンザレス(ds conga) マーガレット・ロス(harp) ジョザン(vo)シャーリー・マスオ(per) 1979年9月 ニューヨークで録音
そのあと、自分のバンド(アニマル・ハウス・バンド)で日本のツアーをして録音した『マスオ・ライヴ』(注32)があります。5枚目の『ソング・イズ・ユー・アンド・ミー』(注33)ではまたスタジオ・ミュージシャンが入って。最後にヤン・ハマーとツアーして吹き込んだのが『フィンガー・ダンシング』(注34)。
(注32)レギュラーのアニマル・ハウス・バンドに弟の元章を加えたライヴ盤。メンバー=増尾好秋(g syn per vo) 増尾元章(g) ヴィクター・ブルース・ガッジ—(elp org) T・M・スティーヴンス(elb) ロビー・ゴンザレス(ds conga) シャーリー・マスオ(per syn) 1980年2月9日 東京・新宿「厚生年金会館大ホール」でライヴ録音
(注33)ブラス・セクションやストリングスも加えてレコーディング。作編曲は増尾と横倉裕。メンバー=増尾好秋(g p per vo) 横倉裕(elp) ホルヘ・ダルト(elp) ヤン・ハマー(elp syn) マイケル・ブレッカー(ts) デヴィッド・トファニ(as fl) ランディ・ブレッカー(tp fgh) アラン・ルービン(tp fgh) T・M・スティーヴンス(elb) ラッセル・ブレイク(elb) ロビー・ゴンザレス(ds) ペッカー(per) ストリングスほか 1980年9月9日~10月17日 ニューヨークと東京で録音
(注34)前作で共演したヤン・ハマーとの日本ツアーを実況録音。メンバー=増尾好秋(g) ヤン・ハマー(key) ラッセル・ブレイク(elb) トニー・シントン・ジュニア(ds) 1980年10月15日、16日 東京・芝「郵便貯金ホール」でライヴ録音、10月19日、21日 東京で録音
——弟の元章さんとも『グッド・モーニング』と『マスオ・ライヴ』で共演しています。元章さんは増尾さんの影響でギターを弾くようになったんですか?
それもあるんじゃないでしょうか? でも、彼は始めた時点でビートルズとかエリック・クラプトンでしたから、ぼくとはジャンルが違います。ギターも弾くけど、ベースも弾くし、作曲家としても才能がある。
——70年代後半、『セイリング・ワンダー』を作ったころから自分のバンドで活動をするようになりました。
ニューヨークでいうなら「ミケールズ」とか「セヴンス・アヴェニュー・サウス」とかのクラブで演奏していました。それまでずっとサイドマンだったでしょ。自分がリーダーになってみると、サイドマンのメンタリティじゃ成り立たない。そこで「自分はこうだ」と、初めて主張するようになりました。
自分がリーダーになると、メンバーにいうことはちゃんといってフォローしないとダメなんです。日本の場合は「いわなくてもわかるだろう」みたいなところがあるけど、こっちではいわなきゃわからない。いままでだと、そういうところでいうすべを知らないから、みんながいうことをきかなくても、「なんでわからないんだろう?」とか、自分の中でイライラして、怒ってた。でもそれはダメだってことがわかったんで、怒らずにちゃんと伝える(笑)。
そのころはフュージョン・ブームとかいわれて、それで音楽界は成り立っていたんです。ぼくの中ではフュージョンもなにもなかった。ただ自分で思った曲を作って、このメンバーでやってみるということで。ですから、目標になる音楽がぜんぜんなかった。
スタッフとかが流行っていたでしょ。ぼくはマハヴィシュヌ・オーケストラにノックアウトされていたから、スタッフなんかジジイのバンドでエネルギーがないし、「どうでもいいや」と思っていました。だけどスティーヴ・ガッドも素晴らしかったし、リチャード・ティー(key)もエリック・ゲイル(g)も素晴らしかった。『セイリング・ワンダー』を一緒に作れたのはよかったと思います。
でも、目指している音楽はそういうものではなかった。このベースがいたから、このキーボードがいたから、このドラムスがいたからということで、そのときはほかに例のない音楽を作ったと思っていました。ジャンルにハマる音楽じゃなかった。だから、いま聴いてもぜんぜん古くなっていない。すごくピュアで、誇りを持って自分たちのサウンドが作れたと自負しています。
——ロリンズとかのグループを辞めたところで、タイミングもよかったんでしょうね。
辞めて、ジャズのギターの音じゃないものでやろうと。その10年前からそういうことはやりたかったんですよ。でもロリンズで一回ジャズに戻って、考える時間もできたし。
——エレクトリック・バードでスタジオ録音4作とライヴを2作、82年にポリスターから『メロー・フォーカス』(注35)を出したあとは、89年の『MASUO』(EPICソニー/ア・タッチ)(注36)までレコーディングが途絶えます。
スタジオで何枚かアルバムを作って、バンドは解散する時期に来たと思います。解散して、「これからなにをやろうか?」という時点で、一回立ち止まっちゃったんです。そのころが、MIDIとかシークエンサーとかヤマハのDX7とか、ああいうものが出てきた時代ですよ。それをいじっていたら面白くて、それにハマって。
(注35)増尾グループのメンバーを中心に吹き込んだ最後の作品。メンバー=増尾好秋(g b key) ジェフリー・カワレック(syn) ヤン・ハマー(syn) ケニー・カークランド(key) ビル・オコネル(p) ウィル・リー(elb) T・M・スティーヴンス(elb) ボブ・クランショウ(b) トミー・キャンベル(ds) バディ・ウィリアムス(ds) トニー・スミス(ds) ロビー・ゴンザレス(conga) シャーリー(per) 1981年12月~1982年1月 ニューヨークで録音
(注36)89年に発表した初のソロ・アルバム。メンバー=増尾好秋(g) 1986~89年 ニューヨークで録音
そのころ友だちの作ったスタジオをテイクオーヴァーすることになって、今度はレコーディングに興味を抱き始めたんです。ギタリストはアンプで音を作るでしょ。レコーディングも同じです。それが面白くて、「ひとりでアルバムを作ろう」となって、なんだかんだ5年くらいやってたんです。それでライヴから遠ざかってしまいました。
——それがソーホーにあった「The Studio」という増尾さんのスタジオで、完成したアルバムが『MASUO』。この時代以降も面白い話がたくさんあると思いますが、今日はここまでということで、最後にプロで50年やってきて思うことを聞かせてください。
ぼくは、父がミュージシャンだったけれど、「ダンモ研」でチンさんと出会った、それから貞夫さんと出会い、アメリカに行ってソニー・ロリンズと出会った。これら4つで人生が決まってしまった。ひとつでもなければ違う人生だったと思います。ぜんぶがまったくの偶然で。いま考えてみると、どうして繋がったのか、本当に不思議ですね。
——いいお言葉をありがとうございました。
こちらこそ。
取材・文/小川隆夫
2017-10-21 Interview with 増尾好秋 @ 新宿「珈琲西武」