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ビル・エヴァンス(1929-1980)はアメリカのピアニスト。1950年代から70年代にかけて活躍し、ジャズの歴史上きわめて重要なプレイヤーとして知られています。
生い立ちとキャリア
1929年、アメリカ東岸にあるニュージャージー州で生まれたビル・エヴァンス(注1)。5歳でピアノ、7歳でバイオリンやフルートのレッスンを始めます。10代になるとジャズに興味を持ち、13歳でプロのバンドにエキストラ参加。これを機に、ダンス会場や結婚式のバンドメンバーとして、演奏経験を積んでいきました。
注1:1929年8月16日、ニュージャージー州プレインフィールド生まれ。出生名はウィリアム・ジョン・エヴァンス(William John Evans)。
高校を卒業すると、サウスイースタン・ルイジアナ大学とマンヌ音楽学校で、作曲とクラシックピアノを学びます。その一方で、ジャズバンドも結成。1955年にニューヨークへ移り住み、本格的にジャズ奏者としての活動を開始します。ちなみに、50年代当時のジャズ・ミュージシャンは、ほとんどがアフリカ系アメリカ人。そんなコミュニティのなかで、人種的に圧倒的な少数派であったエヴァンス(父はウェールズ系、母はスラブ系アメリカ人)は、ある種の疎外感を抱いていたとも言われています。
マイルスの『カインド・オブ・ブルー』に参加
ピアニストとして大きな転機が訪れたのは1958年。彼が29歳のときでした。当時、ジャズ界のトップ・プレイヤーとして活躍中のマイルス・デイビスに認められ、マイルス・デイビス・セクステット(6人編成のバンド)のメンバーとして抜擢されます。
さらにその翌年(1959年)、マイルス・デイビスのアルバム『Kind of Blue(カインド・オブ・ブルー)』のレコーディングに参加。このアルバムは好評を博し、ピアニストとして参加したビル・エヴァンスの名声も高めました。
なお本作は、現在でも多くの識者が「ジャズ史上最高のアルバム」に挙げるほどの傑作。米議会図書館が保存する「ナショナル・レコーディング・レジストリ(アメリカの録音遺産登録)」にも選出され、アメリカの文化・芸術史上、きわめて重要な録音物とされています。
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ジャズ史に残るピアノトリオ結成
ビル・エヴァンスのキャリアを語る上で、この項目がもっとも重要かもしれません。前出のマイルス・デイビスのバンドを脱退した彼は、自分がバンドリーダーとなって新たなユニットを結成し、『Portrait in Jazz(ポートレイト・イン・ジャズ)』(1960年)や、『Waltz for Debby(ワルツ・フォー・デビイ)』(1961年)といったアルバムを制作します。
これらの作品はいずれも、ピアノとベースとドラムによる3人編成(注2)で録音されていることが大きな特徴です。ジャズの分野では「ピアノトリオ」と呼ばれるこの三重奏(注3)によって、エヴァンスは多くの名演を生み出します。
注2:ビル・エヴァンス(ピアノ)と、スコット・ラファロ(ベース)、ポール・モチアン(ドラム)によって構成され、このメンバーによる最初のアルバム『ポートレート・イン・ジャズ』を1960年に発表。
注3:一般的に「ピアノトリオ」とは、室内管弦楽における「ピアノ三重奏」のことで、通常はピアノとバイオリンとチェロで構成。ジャズにおけるピアノトリオは、ピアノ、ギター、ベースによるトリオ編成など、楽器の構成はさまざま。
エヴァンス・トリオが愛される理由
ビル・エヴァンスのトリオは、半世紀を経た現在でも多くの人に支持されています。特に日本での人気は絶大。2015年にユニバーサルミュージックが「ジャズの100枚。」と銘打って、過去の名作(100作品)を再販した際には、ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビイ』が圧倒的な数で売り上げ1位を記録。エヴァンスの作品がこれほどまでに支持されるのは、いくつかの要因があるようです。
ビル・エヴァンスの演奏は「優雅で上品」あるいは「叙情的」や「耽美的」といった言葉がよく使われます。漠然とした形容ですが、的を射た表現だと思います。これは、クラシック音楽の素養を持った彼ならではの個性かもしれません。
また、「インタープレイ(Interplay)」という語句も、ビル・エヴァンス語る上でよく使われます。これは「相互作用」とか「交錯」を意味する言葉ですが、ジャズの界隈では、演奏者同士の “かけ合い” を指します。
たとえばピアノトリオで演奏するとき。バンドリーダー(=エヴァンスのピアノ)を主体にして技巧を追求するのではなく、ピアノ、ベース、ドラムの三者が対等に、しかも互いの演奏に即時に反応しながら、対話的な合奏(=インタープレイ)が展開されます。ピアノと同等に、ベースもドラムも雄弁。しかも表情豊かに多彩なフレーズを繰り出します。これはエヴァンス・トリオの大きな特徴で、のちの「ジャズピアノのあり方」に強く影響しました。
加えて、「わかりやすさ」もビル・エヴァンス人気の理由かもしれません。彼の活動期間はおおよそ30年ほどですが、どの時代のものを聞いても、いわゆる「モダンジャズの型」から大きく逸脱しません。70年代に入ると、多くのジャズミュージシャンが、ロックやソウルを習合させた “フュージョン” と呼ばれるスタイルを採用しますが、エヴァンスは伝統的かつアコースティックなジャズ演奏に固執します。こうした、万人がイメージする “ジャズらしさ” を体現している点も、人気の理由かもしれません。
ちなみに、1970年以降の作品(『フロム・レフト・トゥ・ライト』など)の作品ではエレクトリック・ピアノを使用していますが、演奏スタイルは古典的なジャズやクラシック音楽に立脚しているので、“ビル・エヴァンスの電化” に対しては、守旧的なファンもおおむね好意的に受け止めているようです。
ビル・エヴァンスの重要アルバム
彼のオリジナルアルバムは1956年から1980年の間におよそ80作が録音され、前出のトリオ編成や、デュオ(二人編成)、ソロ(独奏)など、さまざまなスタイルで作品を残しています。
なかでも突出した人気と知名度を誇るのが、先に紹介した『ポートレイト・イン・ジャズ』と『ワルツ・フォー・デビイ』です。これと同時期、同じメンバーで録音された『Explorations(エクスプロレイションズ)』(1961年)、『Sunday at the Village Vanguard(サンディ・アット・ザ・ビレッジ・バンガード)』(1961年)なども、人気のピアノトリオ作品。
また、ソロ演奏を収めた『Alone(アローン)』(68年)や、ギタリストとのデュオ『アンダーカレント』(62年)、5人編成で録音された『Interplay(インタープレイ)』(63年)など、トリオ以外の演奏でも、名作を残しています。
死後のビル・エヴァンス現象
薬物中毒と死
ビル・エヴァンスが亡くなったのは1980年9月15日。52歳の誕生日を迎える1か月前でした。
死因は消化性潰瘍と気管支肺炎、肝硬変、肝炎などの併発とされていますが、現役中は絶えずヘロインやコカインを常用。重度の依存症に苦しんでいたようです。エヴァンスと付き合いの深かった音楽評論家 ジーン・リーズは「彼の人生はまるで “ゆっくりと時間をかけた自殺” だった」といった旨の言葉を残しています。
ドキュメンタリー映画『タイム・リメンバード』
そんなビル・エヴァンスの人生を描いたドキュメンタリー映画が2015年に制作されています。作中では、親族や同業の仲間たちによる貴重な証言も多数(詳しくはこちら)。エヴァンスがどんな人物だったのか、どんな音楽を標榜していたのかが丹念に綴られています。
また、近年公開された映画『ラ・ラ・ランド』にもビル・エヴァンスの影響が。同作でコスチューム・デザイナーを務めたメアリー・ゾフレスは(ライアン・ゴズリング演じるジャズピアニスト、セバスチャンの)ファッションやキャラクターの造形には「ビル・エヴァンスからヒントを得た」とインタビューで語っています。
ビル・エヴァンスのメガネ
ビル・エヴァンスのトレードマークといえばメガネ(詳しくはこちら)。最近でも「ビルエヴァンスのメガネ」をイメージした製品が復刻販売され、好評を博しています(詳しくはこちら)。
★ビル・エヴァンスの「メガネ遍歴」がわかる画像集
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【連載/ジャズマンのファッション】
驚きの発掘音源が続々と
ビル・エヴァンスの死去から40年以上を経た現在も、続々と未発表音源が正規リリースされています。なかには、これまで存在すら知られていなかった「発掘」音源も。