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1954年、あの夜の『モカンボ』の真実【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.5

戦後、占領の中心となった横浜は「アメリカに最も近い街」だった。1948年、その街に伝説のジャズ喫茶が復活した。それは、横浜が日本の戦後のジャズの中心地となる始まりでもあった──。そんな、日本のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする!

アメリカにおけるモダン・ジャズ=ビバップの最初の記録は、ニューヨークのミントンズ・プレイハウスでのライブ『The Harlem Jazz Scene──1941』であるとされている。『ミントンハウスのチャーリー・クリスチャン』としてよく知られている作品だ。では、わが国においてモダン・ジャズはいつ頃から始まったのだろうか。戦後日本におけるモダン・ジャズ黎明期の「真実」を探る。

夜を徹して続いた一大ジャム・セッション

JR関内駅から歩いて10分ほど。伊勢佐木町通り、現在は「イセザキ・モール」という名で呼ばれる街路に面したビルの地下にその店はあった。4階建ての雑居ビルと地下に続く入口は今も残っているが、店ははるか以前に閉店し、現在はフィリピン・レストランとなっている。商店街を行き交うたくさんの通行者の中に、ここが日本のビバップの「聖地」であったことを知る人はいないだろう。また、それを知ったとしても、その意味合いを解することはないだろう。半世紀以上前にここでジャズの歴史的セッションが行われたことを示すのは、当時の資料と音源、そして関係者の証言のみである。

伊勢佐木町のナイト・クラブ『モカンボ』で、当時の先鋭ジャズ・ミュージシャンが一堂に会する一大ジャム・セッションが行われたのは、1954年の7月27日の深夜から翌朝にかけてのことだった。会場には総計100人近いミュージシャンが集まり、入れ代わり立ち代わりステージに立って演奏を繰り広げたと伝えられている。

モカンボ・セッションの貴重な写真。ギターは澤田駿吾。アルト・サックスを吹いているのは「コロナベ」の愛称で呼ばれていた渡辺明(左)と、現在も現役で活躍する五十嵐明要

会場にいたことがわかっている名前を楽器別に挙げてみれば、ピアノが守安祥太郎、秋吉敏子、荻原秀樹、大西修、ハンプトン・ホーズ。アルト・サックスが渡辺貞夫、渡辺明、五十嵐明要、海老原啓一郎、山屋清。テナー・サックスが宮沢昭、与田輝雄、秋本薫。ベースが鈴木寿夫、滝本達郎、上田剛、金井英人。ドラムスが清水閏、五十嵐武要、原田寛治、川口潤。ギターが高柳昌行、ヴィブラフォンが杉浦良三などとなる。錚々たる面子というほかはない。

このセッションが「伝説」とされているのは、夜を徹して演奏されたのが当時の日本ではまだ新しいジャズであったビバップだったからであり、その演奏が奇跡的に良質な音源として残されたからである。女性とのダンスと酒を目当てにやってくる客を相手にした演奏の時間が終わり、店の営業時間が終了したのちのいわゆるアフター・アワーズに、ミュージシャンたちが火花を散らして最先端のジャズに打ち込んだ記録。それが、現在私たちがCDもしくはLPで聴くことができる『幻の“モカンボ”・セッション’54』である。その録音を行ったのは、当時まだ19歳の学生だった岩味潔であった。

『幻の“モカンボ”・セッション’54』。1974年から76年にかけてVol.1からVol.4までの4枚のLPがリリースされた。天才ピアニストと呼ばれた守安祥太郎の演奏を聴くことができるのはこの録音だけである。その後、全20曲収録の「完全版」としてCD化された。いずれも現在は中古市場でしか入手できない。海外での評価も高く、海の向こうではCDにはおよそ8万円の値がつくことも

セッションの仕掛け人はハナ肇

54年7月27日の夜、岩味は手製の録音機材を携えて、有楽町のジャズ喫茶『コンボ』に向っていた。現在、東京交通会館が立つJR有楽町駅前の一帯は、かつて「寿司屋横丁」と呼ばれた飲食店街だった。その一角にあった『コンボ』は、わずか10畳ほどの小さな店だったが、ジャズ・ミュージシャンのたまり場としてよく知られていた。銀座や築地で仕事をするミュージシャンが仕事前や仕事後に立ち寄って、情報を交換し、最新のレコードを聴き、ときに採譜をする。『コンボ』はそんな場所だった。

「輸入盤の新しいアルバムをいい音で聴き、最新情報を仕入れるメリットも大きかったが、毎日のように顔を出すミュージシャンや常連たちとの日常的な接触を通じて生まれる人脈のほうが、ぼくには興味があったし、また宝にもなった」

『コンボ』の常連であったジャズ評論家の相倉久人はそう書いている(『至高の日本ジャズ全史』)。その相倉に連れられて高校生の頃に店に出入りするようになったのが岩味だった。「モカンボ・セッション」の仕掛け人は、『コンボ』のマスター、ショーティ川桐こと川桐徹と、やはり店の常客だったドラマーの野々山定夫だったらしい。岩味が野々山のことを振り返って「ハナちゃん」と今も呼ぶのは、彼のステージ名が「ハナ肇」だったからだ。言うまでもなく、のちにクレージーキャッツのリーダーとなったあのハナ肇である。

「ハナちゃんにはとても人望がありましてね、彼が声をかけるとミュージシャンがすぐに集まるんですよ。私も、“横浜でみんなでセッションをやるから、テープレコーダーをもって一緒に行かないか”と誘われたわけです」

岩味は60数年前のことをそう振り返る。彼はジャズ・ファンであるばかりでなく、マニアと呼んでいいほどのオーディオ・録音機器の愛好家だった。中学生のときに旋盤の免許をとり、レコードに音を直接刻み込むダイレクト・カッティングの機材を自らつくったというのは、彼の数ある武勇伝の一つである。その技術をもって、天才ピアニストと呼ばれていた守安祥太郎のために片面に同じ曲を何回も刻んだレコードをつくったこともあったという。ピアノの練習と採譜用にである。そのレコードを何度も繰り返し再生しながら、守安はビバップの技術を身につけた。その歴史的な意味については、稿を改めて書く折があるかと思う。

岩味潔さん自作のカッティングマシーン

機材運びを手伝ったトシコとナベサダ

岩味が『モカンボ』に持っていったのは、自分でつくった手製のテープレコーダーだった。まだテープに録音することが一般的ではない時代で、セロファンやプラスチック製のテープも開発されていなかった。ヘッドやモーターを組み合わせてレコーダーをつくることができても、媒体がなければ録音はできない。岩味はそれをどこで手に入れたのだろうか。「今だから言えますが──」と、彼は語る。

「当時、日比谷に三信ビルという建物があって、その1階にバルコムトレーディングの店があったんです。日本人は立ち入り禁止でしたが、私は店の親父さんと仲良くなって、こっそり店に入れてもらっていました。そこで、アメリカの3Mが開発した最新の紙製テープを入手したわけです。10インチのリールでしたね」

バルコムトレーディングはのちにBMWの輸入販売を手掛けることになる商社で、占領時には進駐軍向けの物資販売を手がけていた。岩味がそこからテープを入手していなければ、「モカンボ・セッション」の音が今に残ることはなかっただろう。

「録音機材はすごく重くて、『コンボ』までは何とか運べたのですが、横浜まで一人で持っていくのは無理でした。そこで、マイクを秋吉さんに、ケーブルをサダナベさんに託し、私はレコーダーをかついでショーティと一緒にタクシーに乗って、『モカンボ』に向かいました。ほかにも同乗者がいたはずですが、名前は思い出せません」

「秋吉さん」は秋吉敏子、「サダナベさん」とは渡辺貞夫のことだ。岩味は渡辺を現在の一般的な愛称である「ナベサダ」ではなく「サダナベ」と呼ぶ。当時、渡辺は21歳、秋吉は24歳。二人は秋吉のグループ、コージー・カルテットのリーダーとメンバーの間柄で、ともに『コンボ』の常連だった。二人は機材をもって一緒に電車に乗り、伊勢佐木町を目指したという。現在の二人のジャズ界における地位を考えれば、ほとんど信じがたい話である。

1954年7月27〜28日のモカンボセッションを録音した岩味潔さん。現在はRockwellレコードおよびRockwellスタジオを経営

10時間の長丁場を支えた「動力」

セッションは7月27日の夜中の12時前からスタートし、翌28日の10時頃まで、およそ10時間にわたって続いた。レコーディングの記録が「1954年7月27~28日」となっているのはそのためである。岩味が『モカンボ』に到着して、一本しかないマイクを天井から吊るし、録音機材のセッティングをしていたとき、『モカンボ』の店員が電源を落とそうとした。

「もう営業時間は終わっていますから、さっさと帰りたかったのでしょうね。あるいは、ちょっとした嫌がらせの気持ちもあったのかもしれません。電源を落とされたら録音ができない、と困っていたところに助け舟を出してくれたのが、『ちぐさ』の吉田さんでした。“これから演奏をするというのに、電源を切るとは何ごとか!”と彼が一括してくれたおかげで、事なきを得ました」

セッションの世話人には、ハナのほか、ベーシストの井出忠、『モカンボ』のレギュラー・バンドであったダブル・ビーツのリーダーでギタリストの澤田駿吾、そして、やはり『モカンボ』に自身のトリオで出演していた植木等の計4人が名を連ねていた。当日は、参加ミュージシャン全員から参加料として500円を徴収したというが、その徴収係をのちにハナとともにクレージーキャッツを結成することになる植木が担当したのは、彼が下戸で、酔って仕事をさぼったり、計算を間違えたりする危険がないからだった。

当時のモカンボ(横浜・伊勢佐木町)。写真所蔵:ジャズ喫茶ちぐさ

それにしても、交代で演奏するとはいえ、深夜をまたぐ10時間もの間、ミュージシャンたちの気力と体力が続いたことは驚愕に値する。多くのミュージシャンがまだ20代の若者だったことと、参加者全員がビバップという新しい芸術に挑戦しようとする熱意に溢れていたことがそれを可能にしたと思われるが、ほかにも「動力」はあったようだ。

「売店をつくり、水割り一杯80円、すし100円。俺はヒロポンを仕入れて2階に置き、打ちたいやつには打たせてたなぁ」

『幻の“モカンボ”・セッション’54』のライナーノーツにハナ肇はそんなコメントを寄せている。ヒロポン、すなわちドラッグとジャズの関係についても、この連載のどこかで改めて考察することになるだろう。

10時間という時間は、録音する立場の岩味にとっても相当な長丁場だったはずだ。19歳のアマチュア録音マニアだった彼は、その10時間にどう挑んだのだろうか。あの一夜をめぐる出来事をさらに掘り下げていきたい。(後編はコチラ

(敬称略)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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