今年のアカデミー賞で、思わぬ形で話題になった映画があった。イラン代表で選ばれた『セールスマン』の監督アスガー・ファルハディと主演女優のタラネ・アリドゥスティは、トランプ政権によるイスラム圏諸国への入国制限命令に抗議して授賞式をボイコット。現地では2人を支援する抗議集会が行われて、ジョディ・フォスターやマイケル・J・フォックスらが参加した。その様子が世界中に報道されるなかで、『セールスマン』は見事、アカデミー賞「外国語映画賞」を受賞したのだ。しかも、ファルハディ監督にとって外国映画賞は2度目の受賞だった。
そんないわくつきの『セールスマン』は、ある事件に翻弄される夫婦のサスペンスフルな物語だ。主人公はテヘランに住む国語教師のエマッドと妻のラナ。二人は小さな劇団に所属して役者としても活動している。そんなある日、二人が住むアパートが近所の工事の影響で倒壊する危険にさらされて、住人はアパートから避難しなくてはいけなくなる。二人は劇団の仲間に紹介してもらった新居に引っ越すが、そこには前の住人の荷物が残っていた。前の住人は“ふしだらな商売”をしていた女性らしいが、なかなか荷物をとりにこない。そんななか、家でひとりでシャワーを浴びていたラナが何者かに襲われる。エマッドは警察に届けて犯人を見つけ出したいが、ラナは襲われたことを表沙汰にしたくない。夫婦の気持ちはすれ違い、行き場のない怒りを抱えたエマッドは自力で犯人を探し始める。
事件に傷ついた夫婦をさらに追いつめていくのは、イスラム社会の社会通念だ。妻を汚されたことで男としての名誉を傷つけられたエマッドは、ラナへのいたわりよりも犯人に対する怒りで我を忘れていく。ラナは汚されたことを恥と感じて、警察はおろか友人にさえ事件のことを言えない。そんな二人のドラマと並行して、二人が所属する劇団が『セールスマンの死』を上演する様子が挟み込まれていく。『セールスマンの死』は1947年にアーサー・ミラーによって書かれた戯曲で、時代の変化に対応できなかったサラリーマンの悲劇を描いたもの。そこには、近年、急激に変化をとげるイラン社会のなかで、従来の社会通念にとらわれて苦しんでいるエマッドの姿が重なる。犯人に目星をつけたエマッドは、いまのイランの社会状況を象徴するような、都市開発のあおりで倒壊しかかったアパートに容疑者を呼び出すが、意外な真相が明らかになる。そして、そこでも名誉と恥の問題が重くのしかかってくるのだ。
犯罪を簡単に善悪で割り切らず、ちょっとしたきっかけで善人にも悪人にもなる人間の複雑さや脆さを、巧みなストーリーテリングで描き出すのはファルハディの得意とするところ。とりわけ、エマッドが犯人と向き合うクライマックスはさまざまな感情が渦巻いて、息を呑むような緊迫感に貫かれている。イランは検閲が厳しいことで知られているが、そんななかで『セールスマン』はイランの今を鋭く描きながら、普遍的な人間ドラマとしても見応えがある。母国だけではなく、アメリカの権力に対しても屈することなく映画を作り続けるファハルディの、映画に対する情熱と才能を感じさせる力強い作品だ。
■オフィシャルサイト
http://www.thesalesman.jp/
作品情報
作品名:セールスマン
監督・脚本:アスガー・ファルハディ
出演:シャハブ・ホセイニ/タラネ・アリドゥスティ劇場公開日:2017年6月10日(土)より、Bunkamura ル・シネマほか全国順次ロードショー
配給:スターサンズ/ドマ
2016/イラン・フランス/124分/ペルシャ語/ビスタ/原題:FORUSHANDE/字幕:齋藤敦子
©MEMENTOFILMS PRODUCTION–ASGHAR FARHADI PRODUCTION–ARTE FRANCE CINEMA 2016