MENU
占領が終わって間もない時期に、横浜の雑居ビルの地下で行われた一大ジャム・セッション。一人の学生が手掛けたその日の録音は、日本のジャズ史における極めて貴重な歴史的資料となった。それはまた、ジャズが最もヒップだった時代の記録でもある。伝説の「モカンボ・セッション」の意味を改めて問う。(前編はコチラ)
あれは「歴史的録音」ではない
横浜・伊勢佐木町の『モカンボ』でセッションが続いていた10時間の間、岩味潔はテープレコーダーを操作し続けていた、しかし、録音自体がずっと続いていたわけではない。
「テープは5時間ぶんくらいしかなかったので、司会のハナちゃんの話は省いて、演奏だけを録りました。でも曲が終わった直後にすぐ次の曲が始まったりして、もたもたしているうちに録り損ねたり、失敗して途中で止めてしまったりすることが何度もありました」
結果、一部途中で途切れているものも含めて20曲のセッションの録音が残され、現在ではそのすべてをCD『幻の“モカンボ”・セッション‘54完全版』で聴くことができる。しかし、実はそれが全録音ではないと岩味は明かす。
「ほかに2曲、〈ブルーバード〉と〈チュニジアの夜〉の録音が残っています。〈ブルーバード〉は演奏者がかなり酔っていたため、〈チュニジアの夜〉はテープが途中で一度切れて、間を置いてから録音がスタートする不完全なものになってしまったために『完全版』には収録しませんでした」
のちに岩味とともにロックウェルレコードを設立したジャズ評論家の油井正一は、『幻の“モカンボ”・セッション’54』を「日本のジャズがいつごろからチャーリー・パーカー、バド・パウエルによる黒人バップ革命にさらされたかを示すほとんど唯一の資料」であり、このセッションは「歴史を揺るがす価値を秘めていた」とライナーノーツに情熱的な文章を書いている。
しかし、その「ほとんど唯一の資料」の全貌が世に出るまでには長い時間がかかった。わずかに一曲のみがラジオ音源と合わせて『守安祥太郎メモリアル』として56年に7インチレコードでリリースされたが、それ以外の音源がLPの形で順次リリースされたのは74年から76年にかけてのことである。録音から発表までに20年もの時間がかかったのはなぜだったのだろうか。
「特別な理由はありません。あれが歴史的な録音であると考えたこともありません。もともとが、“録っておいてあとで聴いたら楽しいだろうな”というだけの理由でやったことでしたから、あえてレコードにしようという気持ちもなかったんですよ」
「伝説」に対する違和感の根拠
岩味は、あの一夜が「伝説」として語られることに対する違和感を隠そうとしない。最大の違和感は、あのセッションがまるで劇的に仕立てられたイベントのように伝えられ、語られていることに対してである。
「ビバップのジャム・セッションはあれが最初だったわけではないし、あれが唯一だったわけでもありません。『モカンボ』でもあれ以前に2回のセッションが行われていました。それ以降にも、あちこちでセッションが行われています。私自身も、1956年に行われた『日比谷inn』での夜通しのセッションをすべて録音しています」
これは「モカンボ・セッション」に実際に参加したミュージシャンにのちに語ってもらうことになるが、ビバップのジャム・セッションが最初に行われたのは、渋谷・道玄坂にあった外国人向けのクラブである『フォリナーズ・クラブ』だったようだ。「モカンボ・セッション」以降にも、東京では『日比谷inn』、横浜では同じく伊勢佐木町にあった『ワルツ』などでジャム・セッションが頻繁に行われた。
また、当日の『モカンボ』の店内も、「歴史的一夜」と呼ぶにはあまりにもラフな雰囲気だった。演奏をしないミュージシャンたちはフロアに座りこんで酒を飲んだり、食事をしたりするなどしていたという。
「店に来たミュージシャンをすべて合わせればかなりの数になると思いますが、最初からみんなが揃っていたわけではありません。話を聞きつけた人たちが三々五々集まってきて、疲れた人は途中で帰ってしまうという感じでした」
「モカンボ・セッション」の歴史的意義
伝説は、後代の者たちが考えるほどに伝説ではない。おそらくはそういうことなのだろう。もう一つ、岩味が違和感を示すのは、あのセッションによって横浜が「日本のビバップの聖地」と見なされていることに対してである。事実、セッションに参加したメンバーの多くは有楽町『コンボ』の常連であり、セッションが企画されたのもその店においてだった。そう考えれば、むしろ『コンボ』こそが日本のビバップの聖地であった──。その見方には理があると言うべきだろう。
だが、その「伝説化」の最大の立役者が岩味自身であることもまぎれもない事実だ。伊勢佐木町を含む関内地区は、敗戦後そのほとんどの地域が占領軍に接収された。『モカンボ』があったビルも、むろん接収の対象だった。接収が段階的に解除されたのは、対日講和条約が発効した52年からである。セッションが行われた54年時点で『モカンボ』のオーナーは日本人になっていたものの、関内地区の接収解除はまだ進行中だった。
当時の日本でいわば最もアメリカに近い場所で、占領が終わって間もない時期に、先鋭のミュージシャンたちが集まって繰り広げたビバップのセッション。それが大所から見た「モカンボ・セッション」の歴史的な意味である。それは日本のジャズの歴史に刻まれるべき重要な出来事であり、そのセッションを「音」という形で文字通り盤面に刻んだのが岩味であった。
あの頃の日本のジャズ・シーンで、ビバップのイディオムを理解していた人は多くはなかった。岩味自身、「おそらく、ビバップが多少なりとも演奏できるミュージシャンは全員、あの夜の『モカンボ』にいたと考えて間違いない」と語っている。その事実を私たちは、4枚のLP、のちに3枚組のCDとなった音源によって、自分の耳で確かに確認することができる。それを岩味の功績と言わずして何と言うべきか。
オーディエンス不在ゆえのリアルな「アート」
「伝説」に対する岩味のスタンスには、ジャズが本来持っていたヒップネスが多分に含まれていると感じられる。『モカンボ』に集ったミュージシャンたちは、酔客相手のダンス・ミュージックを演奏することに飽き、チャーリー・パーカーやバド・パウエルのレコードから必死に学んだ新しいジャズを演奏した。岩味はそれをただ「録っておいてあとで聴いたら楽しいだろう」というモチベーションのみで録音した。そこには日本におけるビバップの一大イベントに参加したいという気負いも、それを見届けてやろうという野次馬根性もなかった。演りたいように演り、聴きたいように聴き、録りたいように録る。それがモダン・ジャズの本質的なアティチュードであり、ある時期までジャズが最先端のヒップ・アートであったゆえんもおそらくはそこにあった。
自分たちがやりたいことを、自分たちがやりたいようにやる。そしてそれが結果として「歴史」となる──。それは極めてジャズ的な法則であり、そもそもアートの歴史はそうやって紡がれてきたのだとも言える。そのヒップネスはしかし、商業性との両立が極めて難しいことも確かだ。あの夜『モカンボ』のステージに立ったミュージシャンたちにはプロとしての職業意識はなかっただろうし、岩味ももとよりアマチュアの録音マニアだった。会場にはミュージシャン以外の客はほぼいなかったと伝えられる。その意味で「モカンボ・セッション」は、ミュージシャンのミュージシャンによるミュージシャンのためのイベントだった。横浜の雑居ビルの地下で生まれたあの演奏は、聴衆不在の文字通りのアンダーグラウンド・アートだったのである。
伝説は聴く者の存在の空白の上に描かれた。しかし、その事実が『幻の“モカンボ”・セッション’54』の価値をいよいよ高める。あの音源がなければ、伝説はついに真の伝説にとどまっていただろう。あの夜、あの場所にいた者だけが知る神話となっていただろう。「モカンボ・セッション」の録音は、日本ジャズ史における極めて貴重な「地下室の手記」なのであった。
(敬称略)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。