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戦後のある時期までダンスミュージックだった日本のジャズをほとんど単身で「モダン化」したひとりのピアニストがいた。共演したミュージシャンの誰もがまごうかたなき天才と語るその男の演奏が今日聴けるのは、モカンボ・セッションの録音のみである。わずか8年の活動期間に日本のジャズシーンに鮮烈な印象を刻んで去っていった伝説のヒップスター。その功績を関係者の証言から辿る。
本物のジャズをやっていたのは守安だけ
日本に来ていろいろなミュージシャンを聴いたが、あらゆる楽器を通じての第一人者は守安祥太郎だ。俺にはあの男が怖ろしい──。
のちにさまざまな文献に引用されることになるこの言葉をハンプトン・ホーズから聞いたのは、ジャズ評論家の久保田二郎だったようだ。駐留軍兵士でありジャズ・ピアニストであったホーズは、1954年7月のモカンボ・セッションに参加した唯一の外国人で、あの伝説のセッションは彼がピアノを弾く「テンダリー」から始まったのだった。彼がその一曲を最後に現場から姿を消したのは、演奏のあとに楽屋でヘロインを打っているところを進駐軍の関係者に見つかって連行されたからだ。
ということは、モカンボの現場でホーズは守安の演奏を聴いていないことになる。先の言葉を久保田がいつ聞いたのかは不明だが、ホーズはそれまで何度も守安のピアノを聴いたことがあったのだろう。横浜のジャズクラブに頻繁に出入りしていたホーズの耳に、守安の噂は早い時期から届いていたはずだ。
「当時、本物のジャズをやっていたのは守安さんただ一人だった」。やはりモカンボ・セッションに参加したテナー・サックス奏者の宮沢昭はそう後年語っている。
「今のピアニストとは比べものになりません。夢中になって何コーラスもビャーってやるわけですよ。わたしの想像ですけど、グランドピアノのピアノ線があるでしょ、あれが全部ニクロム線に見えて、燃えて真っ赤になるんです。そこでサンマでも乗せれば焼けちゃいそうな(笑)、そのくらいのイメージがあったんですよ」
ジャズジャーナリスト・小川隆夫のインタビューにそう答えているのは、守安が最後に参加したバンド、ダブル・ビーツのメンバーだったアルト・サックス奏者の五十嵐明要である(『証言で綴る日本のジャズ 2』駒草出版)。五十嵐の表現が決して大げさではないことは、残されたモカンボ・セッションの録音を聴けば誰もが納得するだろう。『完全版』に収録されている20曲中10曲で、まさに火の出るような守安のプレイを聴くことができる。
「モカンボ・セッションに参加したミュージシャンで存命中の人の話はすべて聞きましたが、守安祥太郎に対する印象はみんな共通しています。けた外れにすごかった──。全員が口を揃えてそう言います。圧倒的と言っていいでしょうね」と小川は話す。
次々に出てくるビバップのフレーズ
現在も現役で活動する五十嵐明要が守安に最初に会ったのは、久保田二郎を通じてのことだったという。
「あの頃、あたしは久保田さんにかわいがってもらっていて、よく飲みにつれていってもらっていたんです。そこに彼が親友だった守安さんを呼んで初めて会いました。演奏を聴いたのはそのあとでしたが、まったく格が違いましたね。あたしの周りにいたどんなピアニストとも比べものになりませんでした。当時は新しかったビバップのフレーズが頭の中にたんまりと入っていて、それが次々に出てくるんですよ」
以来、五十嵐は守安の「生徒」となった。一緒に演奏するようになってからは、「休憩時間や帰りの電車のなかで、子犬が母犬にくっつくように守安に引っ付き、質問責めにした」と『そして、風が走りぬけて行った』(植田紗加栄著/講談社)には書かれている。
1997年に出版された『そして~』は、著者が守安の関係者200人近くに会って彼の人生の詳細に迫った500ページを超える大著で、ジャズに関する初歩的な記述ミスが散見されはするものの、今なお第一級の資料であるのは、これが守安に関するただひとつの評伝だからだ。この本とモカンボ・セッションの録音。現在の私たちが守安を知ることができる資料はほぼその2つしかない。先に引いた宮沢昭の言葉もこの本からの引用である。
『そして~』によれば、守安がピアノでショパンのエチュードを練習し始めたのは中学時代のことだった。ジャズを始めたのは戦後になってからで、進駐軍放送から流れてくるジャズに惹かれてコピーを始めたという。その頃彼はすでに21歳になっていた。 その後、会社勤めをしながら夜は銀座のキャバレーでピアノを弾く生活をしばらく続け、作曲家の團伊玖磨に和声楽を学んだ。プロとしてデビューしたのは1947年。南隆とファイブ・ライトのメンバーとしてだった。
誰もが彼の譜面をコピーした
守安が短時間でジャズを自家薬籠中のものとできたのは、天才的な耳があったからだ。ラジオだけでなく、南隆の家にあったテディ・ウィルソンやファッツ・ウォーラーのレコードを聴いて、メロディやハーモニーを採譜していった。シンプルなメロディであれば、2回ほど聴けば譜面にできたという。ジャズの「師匠」はまもなくデューク・エリントンやカウント・ベイシーになり、さらに進駐軍放送でビバップ最初のレコーディングと言われるチャーリー・クリスチャンの演奏に触れて、そのプレイがそれまでのジャズとは大きく異なるものであることを即座に感じ取った。ここから「日本最初のビバッパー」としての守安の才能が本格的に開花することになる。
「チャーリー・パーカーのレコードなんかはほとんどコピーしていて、その譜面をあたしにも見せてくれるんですよ。“写したら、ほかの人にも回してやりな”って。当時のあたしのアルト仲間は、山屋清、渡辺明、渡辺辰郎でしたが、みんなで必死に写しましたね。おいしいフレーズがたくさんあって、ずいぶん勉強になりました。でも、みんな同じ譜面で勉強しているから、アドリブで吹くフレーズが一緒になっちゃうんですよ」
五十嵐はそう言って笑う。五十嵐よりひとつ年下の渡辺貞夫もまた、守安を師と慕った一人だった。彼は自伝にこう書いている。
「とにかく彼は非のうちどころのないジャズマンだった。変ないい方かもしれないが、舶来の音がしていた。ものすごく自由奔放で、すばらしくスイングしていた。音楽的にもしっかりしていたし、ぼくがパーカーの演奏をなんとか譜面にとろうと苦労していたときなんか、守安さんにずいぶん助けてもらったりもしたものだ」(『渡辺貞夫 僕自身のためのジャズ』日本図書センター)
ファイブ・ライトから始まり、ジュビリー・ファイブ、ブルー・コーツ、レッド・ハット・ボーイズ、ゲイ・プレイボーイズ、フォー・サウンズと数々のバンドに参加し、当代随一のピアニストいう評価を仲間うちで不動のものにしていたにもかかわらず、当時のジャズ雑誌に守安祥太郎の名前がほとんど見当たらないのは、守安が本名を名乗るのを嫌がって「矢野敏」というステージネームで活動していたからだ。ピアノの業界用語である「ヤノピ」をもじった名前だった。
分厚い眼鏡をかけて銀行員か大学教授のようと言われたその風貌も含め、守安祥太郎の存在は当時のジャズ界にあって異彩を放っていた。演奏は天才的。人柄はジェントル。泉鏡花や太宰治を愛読するインテリ。本名を名乗りたがらないほどの照れ屋──。しかし、「異彩」と表現して済ますことのできない変化がある時期から守安に訪れていた。それが破滅の予兆であったことを周囲の人たちが知ったときには、すでに何もかもが手遅れだった。
天才と狂人の紙一重の精神状態
それは数々の「奇行」として現れた。ピアノの下に潜り込んで、手だけを鍵盤に伸ばして弾く。ピアノに背中を向け、右手と左手を逆にして弾く。突然グランドピアノの上で逆立ちをする。ステージを降りてからも、別のバンドがラテンの曲を演奏し始めると激しく踊り出し、観客のテーブルのサンドイッチを食べてしまう。移動中の電車の中では、見知らぬ人の前でいきなり両手を広げ、吊革にぶら下がって懸垂をし、網棚に上って横たわる──。
天才の乱心に周囲は大いに戸惑ったが、それが何を原因とするのかは誰にもわからなかった。バンドのクオリティを維持することに苦しんでいたと考えた人もいるし、家庭問題に悩んでいたと言う人もいる。当時のジャズマンのご多分に漏れず彼もドラッグを使っていて、その影響があったと見る向きもある。しかし五十嵐によれば、モカンボ・セッションの頃には守安は完全にドラッグをやめていたという。
「彼は天才と狂人の紙一重の精神状態にあった。嬉しい時は極端にハシャイだし、憂鬱に襲われると気の毒なほど沈みきっていた。1955年の春ごろからよく『姿を消すよ』と云い出した。自殺の意味であることは自殺の方法を相談したりするのですぐわかった。この年9月26日のこと。『いよいよ俺は姿を消すよ』とうちしおれて僕の自宅に現われた。止めようとしても止めるすべがなかった」
久保田二郎は、のちにロックウェルレコードから出された守安の唯一の単独名義作品であるEP『守安祥太郎メモリアル』にそんな文章を寄せている。守安が目黒駅で山手線の列車に飛び込んだのは、その2日後の1955年9月28日だった。遺体は身元不明のまま荼毘に付され、残された骨が守安のものと特定されるまでに一週間を要した。
2人のヒップ・スターの死
『そして、風が走りぬけて行った』では、戦時中に彼の心にある闇が生じたことが示唆されている。1945年1月に陸軍経理学校に入った守安は、東京東部を壊滅させた同年3月10日の東京大空襲の死体処理を命じられた。彼は班の仲間とともに、学校があった小平から隅田川を目指した。「隅田川は地獄との境界線だった」と『そして~』の著者は書く。
「硬直した死体をトラックに積み重ねていかなければならない。だが、焼死体の頭と足を二人一組になってそれぞれ抱え、反動をつけてトラックの荷台に放りあげると、完全に炭化しているため、空中でバラバラとこぼれ落ち、その黒い埃が顔にかかってくる。ひどいときは、首がとれ、手が抜けた」
想像を絶するこの経験が彼の奇行と自殺にどうつながっているのか、今となっては知る術はない。やはり空襲で八丁堀の生家を焼かれた五十嵐明要は、守安と最後に会った仲間の一人だった。
「渋谷に『デュエット』というジャズ喫茶があって、バンドのメンバーのたまり場になっていました。亡くなる前日には守安さんもそこに来ていました。そのときに顔を見たのが最後です。失恋が原因だという見方もあるようですが、本当のところはどうだったのか。彼の恋の相手のこともよく知っていましたよ。きれいな子でした」
若い頃は講釈師を目指したこともあって話し上手で知られる五十嵐は、守安の死を語るときだけは言葉を濁す。最も近くにいたからこそ、簡単には語れないことがある。きっとそういうことなのだろう。
日本ジャズ史における最初のビバッパーは、そうして31歳で自らの生涯に終止符を打った。今は残された音源で彼が残した功績の大きさを知るほかはない。守安が自殺したのはチャーリー・パーカーの死からおよそ半年後のことである。戦争終結から10年が経った1955年。この年は、日米のジャズ界が最大のヒップ・スターをともに失った年として記憶されるべきだろう。
(敬称略)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。