投稿日 : 2019.12.05 更新日 : 2021.09.03

【証言で綴る日本のジャズ】清水万紀夫|父親は『上海バンスキング』のモデル

取材・文/小川隆夫 撮影/平野 明

清水万紀夫 インタビュー

高校編入後にプロ活動を開始

——そうはいっても、音楽学校ですから生半可のことでは入れてもらえないのでは?

音楽についていうなら、素養がなにもないんで、前の学校に行っているころから大橋先生やほかの先生からピアノや歌などのレッスンを受けていました。

——萩原さんではなくて?

しばらく前から大橋先生のお弟子さんになったんです。そのあとは国立音大にそのまま進みました。試験を受けても藝大なんかには入れっこないし、ピアノも弾けない。国立のほうが居心地がいいし。

——国立の後輩に鈴木孝二(cl. as)さんがいらっしゃいますよね。鈴木さんにお話を聞いたときに(『証言で綴る日本のジャズ 2』に収録)、清水さんのことも話題になりました。あのひとも大橋先生の門下生でしょ? それで、大橋先生のところに習いに行ったら、「ジャズなんかダメだ」といわれたとか。

あの時代はダメだったんです。藤家虹二(注17)さんも高校のころから大橋先生の門下生ですよ。藤家虹二さんが藝大生のころ、新聞社かなにかのコンクールで1位になったことがあるんです。そのころ、学校に関係なく、大橋門下生ということで、藤家さんと〈クラリネット三重奏〉とか、いろいろやらせていただいて。

(注17)藤家虹二(cl 1933~2011年)東京藝術大学音楽学部器楽科に首席で入学し、首席で卒業。在学中「毎日音楽コンクール管楽器部門」で第1位に。在学中からジャズに身を投じ、平岡精二(vib)クインテット、池田操(vib)リズム・キングを経て、59年南部三郎(vib)クインテットに参加。南部の脱退で、同年藤家虹二クインテットとして再出発。以後、この世を去るまでリーダーを続けた。

——それで、国立音楽大学に入られる。アルバイトでクラブに出るようになったのは、いつごろから?

高校三年で編入したときからやってました。10年ほど前に亡くなりましたけど、同級生の佐野正明が「帝国ホテル」でザ・スウィング・オルフェアンズって、ブルーコーツの前身のオーケストラ、そこに毎日じゃないですけど、アルバイトで行ってたんです。それに刺激を受けて、ぼくも付属の高校に入ったころからアルバイトを始めました。

当時のアルバイトでいうなら、米軍キャンプでたくさんのジャズ演奏家が必要になり、フリーのミュージシャンを集めるため、東京駅の北口広場に米軍キャンプからトラックが来ていました。楽器を持っていれば誰でも仕事ができた時代です。高校で同級生だった荒木省二さんと何度も参加しました。ちなみに、そのころの労働者の賃金は240円(そこから〈ニコヨン〉という呼称が生まれた)くらいで、キャンプに行くと1日で1200円くらいもらえました。

荒木さんは肺結核のため教育科に移り、のちに荒木音楽事務所を設立します。亡くなったあとは弟さんの浩三氏が引き継ぎ、「フェイス」という名で現在も活動しています。父親は荒木陽さんで、中川三郎さんと同じころにタップ・ダンスを広めたひとです。

——ジャズは萩原さんのところで教わった?

萩原さんはデューク・オクテットでいろいろなところに出ていたんです。それを中学のときから観に行ってました。ナイトクラブには入れないけれど、銀座の「テネシー」みたいな、ああいうジャズ喫茶には入れるんです。「入れる」といったら変だけど。

——そういうところを覗きにいって、教わって、ジャズを身につけて。

ぼくは、クラシックよりジャズのほうが好きだったんです。

——サレジオではクラシックですよね。

宣教師が教えているから、いわゆるシューベルトの曲とか、誰かのセレナーデとか、それをクラリネットで教えてもらったりね。そういうのはあったんですけど。そのころからベニー・グッドマンやペギー・リーの歌を聴いていたから、それでジャズが好きになりました。

——高校からプロみたいになって。覚えている中で、最初にお金をもらったのはどんなバンドだったんですか?

最初ではないですが、きちんとしたところに出たのは、萩原さんの紹介で、自分でグループを作って。そのころ、銀座では交詢社(注18)がいくつかのナイトクラブを経営していて、そのうちのひとつが「日動シロー」。そこに出ていたのが、萩原さんのいたバンドで、リーダーがピアノの桜井センリ(注19)さん。このバンドは9人編成で、ほかには萩原さんの藝大時代の同級生で早川さんというトランペットもいて。そのチェンジ・バンドとしての仕事をもらったんです。

(注18)1880年(明治13年)に福澤諭吉の提唱で結成された日本最初の実業家社交クラブ。銀座の交詢ビル(6丁目)地下の「交詢社シロー」が1号店。その後、「日動シロー」(5丁目)、「クラブ・シロー」(8丁目)、「バー・シロー」(同)、「カジノ・シロー」(6丁目)がオープン。

(注19)桜井センリ(p 俳優 1926~2012年)ロンドン生まれ。大学時代から活動し、ゲイスターズ、フランキー堺(ds)シティ・スリッカーズ、三木鶏郎「冗談工房」を経て、60年ハナ肇とクレージーキャッツ参加。

——どういう編成で?

ぼくのクラリネットとリズム・セクションのカルテット。メンバーは思い出せません。入ってすぐに大学受験があったので、これは解散しました。そのあとは、銀座二丁目の並木通りにあった酒屋の二階の横山音楽事務所に所属する米元宏とリズム・スクールというバンドに入りました。

——メンバーは覚えていますか?

リーダーがベースの米元宏、ピアノが大野三平(大野肇の名でも活躍)、ギターが西さんというひと、ヴァイブが八田実、ドラムスが久崎功、それとぼくの6人編成です。そのころは米軍キャンプの仕事が中心でした。

——一緒にやっていたひとはみなさん年上?

いえ、だいたいみんな同じくらい。そのメンバーとのつき合いがいちばん古いし、最後までつき合ってました。そのバンドはとっても好きなバンドでね。いろんなところにテストで行ったり、楽しいんです。ただ、三平がビバップ志向で、クラリネットが大っ嫌い(笑)。でも、あのころはクラリネットが入ってないとテストに受からない。そういう時代だったんです。

——クラリネットが人気だったから。

それで米軍のクラブに行くとビバップばっかりやってニコニコしてるんですけど、銀座のクラブやなんかのテストに行くとサックスはいっさいダメで、クラリネットでベニー・グッドマンの真似みたいなことをして。だからいろいろいいバンドはいたけど、だいたいぼくらが受かっちゃう。

リズム・スクールは関西から来たバンドが元になっていて、それを米元さんが受け継いだんです。関西から出てきたころのバンド名は知りません。のちにウエストライナーズに入るサックスの鈴木重男とかがいたバンドが東京に出て、そこにぼくが入ったんです。

というのも、鈴木重男が「クラリネットばっかりじゃつまらない」といって関西に帰っちゃったから。そのころ、前田憲男(p)さんなんかも関西から出てきて、その連中とよくやっていました。前田さんもふたつぐらいしか年上じゃなかったし。「あの時代のバンドはあまりよくなかった」(笑)とか、前田さんはいってたけど。

——メンバーは一定していたんですか?

一定してて、ぼくが辞めたあとは、高知出身の相撲取り(学生相撲)で、シャープス&フラッツに入ってジョン・コルトレーン(ts)みたいなことをやって、アメリカにずっといて、向こうで亡くなったヤツ。名前がちょっと出てこないけど(西村昭夫)(注20)、そのひとが入って。そのバンドは、ときどきメンバーを替えながら最近まで続いてました。

(注20)西村昭夫(ts 1936~92年)早稲田大学在学中は相撲部に所属し、全国学生選手権で2位。59年に発売された水原弘の〈黒い花びら〉(「第1回日本レコード大賞」受賞)にテナー・サックスで参加。当時は原信夫率いるシャープス&フラッツに所属。80年代にアメリカに移住し、92年にニューヨークで死去。

——清水さんは、辞めて、どうしたんですか?

そのバンドで米軍キャンプ回りをしたあとは、渋谷にあった中川三郎さんの店にテストを受けて入りました。このときのメンバーは、ピアノが菅野邦彦、ベースが鈴木勲、ドラムスが久崎功で、ぼくのカルテットです。しばらく安定していましたが、アメリカからクラリネットのトニー・スコットが来日し、コンサート・ツアーのために菅野邦彦と鈴木勲が引き抜かれて解散です。あの時代は学校と仕事を両立させるため、たくさんバンドを変えました。

さまざまなバンドで活躍した高校〜大学時代

——そのバンドをやりながら、清水さんはいろんなバンドで仕事をするようになった。

そうです。横山音楽事務所では、夕方までに必ずユニフォームを着て、楽器を持って事務所にいなきゃいけない。夕方の五時ぐらいになると、「どこのキャンプに行け」とかいわれる。それで、楽器を持って、場所だけ教えてもらって、厚木とか立川とか、電車で行くんです。

——学校はどうしていたんですか?

学校にも行ってましたけど、ぼくは国立音楽大学を卒業するのに八年かかったんです(笑)。ギリギリです。8年目に「出ていけ」といわれて(笑)、卒業させてもらいました。卒業するときに、大橋先生から、「ジャズに溺れすぎているから、モーツァルトはいっさい吹いちゃいけない」といわれました。モーツァルトの曲はレッスンも受けさせてくれなかったんです。

高校生だった鈴木孝二なんか、ぼくが受けているレッスンを聴きに来ると、いつもいじめられているんで、居たたまれなくなって、そのうち来なくなっちゃった。だから孝二は、音楽大学に行こうか違う大学に行こうか、ちょっと躊躇して、一年ぐらい遅れているんです。ぼくが大学の四年のときに、孝二も四年生になって、同級生になっちゃった(笑)。彼は、いろんなグループでやっていたんで、そのあと大学を辞めたみたいだけど。

——そのころになると、さまざまなバンドで清水さんは活躍するようになっていましたが、当時はどんなことを考えていたんですか?

清水のキンさん(清水閏)(じゅん)(ds)とか、ああいうとってもいいひとに、「お前ねえ、クラリネットばかりやってて、クラリネットぼけでスウィング・ジャズのノリしかできないようになったらみっともないぞ。サクソフォンもできるようにしたほうがいい」といわれたのが大きいです。

学生時代、ぼくは楽譜を見ると間違えちゃうんで、いつもコンチェルトは暗譜してやってたんです。そういうのが受けて、卒業演奏会にも出してもらえました。そのころはギャルドーというフランスのとてもいいブラス・バンドに憧れていて、大橋先生に「卒業したら専攻科に入りたい」と話したら、「8年もいて、真面目にクラシックばかり勉強してきたヤツに悪いだろ」。そのときはほんとうに悩みました。でもあれは先生の親心で、そういってもらえたおかげで、揺れていた気持ちが固まりました。

ぼくは、先生や先輩とか、いいミュージシャンに恵まれたと思います。束縛されないと練習をなかなかしないほうだから、「サクソフォンを練習しろ」といわれて、スタジオ仕事でお金に余裕があったので、テナーとかバリトン・サックスまで買いました。

——高校からプロで始めて、大学に入られて。最初に入った有名なバンドは、奥田宗宏さんのブルースカイ・オーケストラ?

高校のころに入りました。さっき話した横山音楽事務所って、ほんと、映画に出てくるような事務所で。下が酒屋で上がやくざのたまり場。そこで博打をやったり。ぼくら、あのころは1万5000円くらいの月給でした。それでも足りなくて、毎日1000円ぐらい借りて、それをおいちょかぶかなにかですぐに取られちゃう(笑)。いつもバンス(前借り)ばっかり。

そのころ、ブルースカイ・オーケストラは新宿にあった「不夜城」ってキャバレーに出演してて。あとは、NHKオールスターズとして歌謡曲の伴奏もやって、けっこう羽振りがよかったんです。それで奥田さんが、「お前、今日はキャンプの仕事がないから、おれのところに来て、サクソフォンを勉強しろ」。人数が足りなくなると、アルト・サックスで呼ばれるの(笑)。

——ブルースカイも横山音楽事務所の専属?

奥田さんがそこのオーナーだったんです。それでバンスばかりしていたんで、「うちに来て働け」って。

——音楽的には勉強になったんですか?

楽器を覚えた程度で、ならなかったですね。そこでも休憩時間にポーカーをやったりして、巻き上げられちゃう(笑)。

——結局、稼ぎはもっていかれちゃうんだ(笑)。ブルースカイではあまりジャズっぽい演奏はしなかった?

歌謡曲ばかりですね。そのころは、ほかにもいろんなバンドに行ったり来たりしてました。有名じゃないけど、高柳昌行(g)さんとか清水のキンさんとかがやってた、銀座周辺のナイトクラブの仕事にちょくちょく入ったりとか。

——そっちはバリバリのジャズ?

ナイトクラブだからダンス・ミュージックが中心。高柳さんのバンドに入れたのも、「サクソフォンはダメだから、クラリネットを入れろ」と店にいわれて、なんです。ただ、高柳さんたちは、渡辺辰郎(as)さんとかとリー・コニッツ(as)みたいなクール・ジャズをやっていたんです。それをクラリネットで吹けるひとがいない。

そういうことで、リー・コニッツみたいにクールなアルト・サックスをクラリネットで吹けたものだから、バンドに誘われて。〈鈴懸の径〉やラテンのフルートもぼくは吹けるので、それもあって、そういうひとたちと共演させてもらえたんでしょう。

——こういうのはレギュラーの仕事ではなかった。

レギュラーの仕事でいうなら、「ホテルオークラ」がオープンのとき(59年)、八城一夫(p)さんのバンドのチェンジで、シャンペン・ミュージック(ダンス・ミュージック)を演奏するバンドにちょっと入ったことがあります。萩原哲晶さんとその弟さんで、沢田駿吾(g)さんのところにいたピアノの萩原秀樹さんがバンドを組んだんです。兄弟ふたりでアレンジをして、クラリネットとサクソフォンの三管で、演奏するのはシャンペン・ミュージック。

そのころ、そこは石井好子音楽事務所が仕切っていたんです。銀座の「日航ホテル」(現在は閉館)の地下にシャンソンの店があって、そこも石井好子音楽事務所のブッキング。その繋がりで、そこでもシャンソンの伴奏をやらされたり。そのときのタイコが清水のキンさんだったんです。

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