ジャズ系ミュージシャンによるポップス・バンドCRCK/LCKS(クラック・ラックス)。小西遼はこのバンドのリーダーとして、また様々なアーティストのサポート役としても八面六臂の活躍を見せている。2020年はいよいよソロ・アーティストとしても始動するという小西。現代の音楽に、彼はどのような可能性を感じているのか。
音楽的にカオスな時期を過ごして
──音楽に興味をもったのは、小学校高学年だったとお聞きしました。
小学校6年生の時、たまたま隣のクラスの担任が平原綾香さんのお母様だったんです。その縁もあって平原さんのお父様(サックス奏者の平原誠)が体育館で演奏会をしてくださって、それがすばらしかったので中学から吹奏楽部に入りました。
──ジャズに触れたきっかけは?
最初はクラシックを学んでいましたが、吹奏楽でポップス曲を吹くようになってポピュラー音楽の楽しさもわかってきたんです。中学2年くらいからチャーリー・パーカー(as)を聴き始め、キース・ジャレット(p)の『ケルン・コンサート』とビル・エヴァンス(p)の『ワルツ・フォー・デビイ』でハマりました。
──どちらも「きれいめ」な音ですね。
そうなんです。いまでもロマンティックな音楽は大好き。
──その頃から、ジャズにどっぷり傾倒していった?
うーん……ところが、ここから自分の中で音楽的に乖離していていくんです。ジャズはもちろん、エアロスミスとかエミネム、ロンドン系のヒップホップやアブリル・ラビーンなんかも同時期に聴いていました。加えてクラシックやアニメの楽曲も好きでしたから、いま思えば音楽的にかなりカオスな状態でしたね。
──小西さん自身、当時はどのようなプレイヤーだったのでしょう?
コンテンポラリー・ジャズが好きでした。渡米する頃まではバップの良さってあまりわかっていなかった気がします。
──高校卒業後は洗足学園音楽大学のジャズ科へ進学されます。
本来なら高校を卒業してすぐバークリー音楽大学へ行きたかったんです。「アメリカへ行ってホンモノになるんだ!」みたいな(笑) けれど、それが叶わず。バイトでもしようかなーと思っていたのですが、母親に勧められて洗足の扉を叩きました。
──入ってみていかがでしたか?
音楽の専門教育を受けるということが新鮮で貴重な経験でしたね。正しい奏法を学び、「オリジナリティとはなんなのか」ということについて深く考えさせられた4年間でもあります。また、東京とひと口にいっても、タイプの異なる上手い人がたくさんいることを実感しました。それでもやはり、バップには食指が動かなくて。一方で、当時洗足の講師を務められていた松本治(tb)さんや水谷浩章(b)さんに影響を受け、60年代以降の日本のフリー系の流れにも興味が湧き、印象派の音楽も追うようになります。
──その後やはり国内にはとどまらず、海外を目指されました。バークリーに求めていたことはなんでしたか?
英語が好きだったので、渡米そのものも小さな頃からのひとつの目的でした。いざ入学してみるとカリキュラムがしっかりしていて、相当鍛えられたと思います。また教育的な側面はもちろん、世界中から同年代のプレイヤーが集まり、会話を交わせたのが大きかった。みんな他国との関係に興味があって、意見の相違はあれど個人的なディスリスペクト(不敬)はない。前提としてお互いにリスペクトがあって、そう思う/思わないという意見が出てくる。家に帰ると親同士が戦争しているという奴らもいました。それでも音楽を通して話し合うことのできる同世代の仲間を一番大切に思える友人ばかりでした。
──それを媒介したのは、音楽ですか? それとも言語?
確かにミュージシャンは音楽を共通言語としてコミュニケートしています。けれど……あそこでは言語が果たす役割も大きかったかな。日本では人が集まる場所では野球、政治、宗教の話はしない方がいいっていうけど、アメリカにそういう風潮はありませんでした。もちろん意見の不一致や激しい議論になることはあったけど、みんな言いたいことは言う。英語という言語の持つ「ラフさ」と、音楽のもつ自由な表現が合わさり、自分と相手の言い分が均質化されてディベートができていたように思います。
予期せず動き始めたCRCK/LCKS
──バークリーを卒業してから一年半ほどニューヨークに滞在されます。
ニューヨークにいた時期は、完全なモラトリアム期でした。好きな本や漫画を読んで、映画を観て。いろいろなインプットが積もって、それを音楽としてアウトプットしたくてたまらなくなって作品を作り続けていました。だから日本に帰ってきてからその作品群を一気に3〜4本の音楽劇にして、象眠舎(ぞうみんしゃ)というラージ・アンサンブルで再現しました。
──帰国を決意されたきっかけは?
ニューヨークはいろいろな物事の流れが早い分、すべてが流動的なんです。インプットには適しているけれど、自分のアウトプットには向いていないんじゃないかと感じて。もちろんメリットも多いし、挾間(美帆)のようにニューヨークに腰を据えて活動をする日本人プレイヤーも多いけれど、僕には向いていないと帰国を決めたんです。そのタイミングで、CRCK/LCKSという予期していなかったバンドが始動しました。
──結成の経緯をお聞かせください。
2014年の年末、レーベルの方に小田朋美さんを紹介していただいたんです。互いに面識はあったけど、あまり話したこともなくて。でも、いざ渋谷の大衆居酒屋で飲んだら意気投合。小田いわく「小西は夢に出てきたから、一度合わなきゃいけないと思ってた」って(笑) その時、菊地(成孔)さんのイベント(注1)で出演者を探してるという話を聞いて、その場でメンバーを決めて駿(石若)、銘(井上)、角田(注2)に声をかけた。みんな忙しくなり始めていた時期だけど、イベントが夜中だったからなんとかピンポイントでブックできた。いま思えば奇跡ですね。
注1:菊地成孔が新宿ピットインで開催するイベント「モダンジャズディスコティーク新宿」。2015年5月の回でCRCK/LCKSが前座を務めた。
注2:2017年、越智俊介に交代
──当初からしっかりとしたコンセプトがあったのでしょうか?
いえ、決まっていたことは「小田がいるんだから歌モノをやろう」という程度。ジャズ・ミュージシャンを集めて、ガチで歌モノをやってみたらおもしろいんじゃないかという……この浅はかな考えに後々後悔することになるのですが(笑)。
──ジャズに軸足を置きながら、あえてそこから離れるような楽曲やアートワークが印象的です。
小田や駿のまわりにはWONKの江﨑(文武)や、King Gnuの常田(大希)など東京藝術大学出身の面白いプレイヤーが多くいて。彼らとつるむようになると、これまで仕事をしたことのないタイプのデザイナーや映像クリエイターとも仲良くなりました。その影響が出ているのかもしれませんね。
──小西さんはサックス奏者でありながら、帰国されてからはオーケストラを牽引。CRCK/LCKSではボコーダーも、シンセも使う。表現者としてはどの位置でご自身を捉えていますか?
サックス奏者を片足に、ここ1〜2年は「プロデューサー」と呼ばれる役割に近い動き方をしていたかもしれません。あまりその自覚もなかったのですが、周りに言われるうちに自分でもそう思うようになりました。CRCK/LCKSの場合はデザイナー、映像監督のチョイスから、ロゴやアートワークなど細部まで口を出しています。大勢の人々とひとつのプロダクトを作りあげるという仕事が僕は好きなんです。でもその「プロデューサー的」であることが楽しい一方、演奏家から離れたくはない。
──音楽に対する主体性と客観性の二軸が、常に同居している。
そうですね。CRCK/LCKSをはじめ自分がプロデュースする作品は特に細部までこだわり作り込んでいく一方、他のミュージシャンのサポートをする時は、みんなで良い音楽ができるように調和のとれる演奏をすることに専念しています。
澤野洋土を監督に、女優のハラサオリをキャストに迎えた「Goodbye Girl」のMVは、現在18万再生を突破している。
多様性を受容できるプレイヤーたち
──CRCK/LCKSのみならず、世代の特徴としてジャズというジャンルにとらわれることを嫌い、外側へ進み続けている印象を受けます。
音楽家って、人と違うことをしたいという欲求を潜在的に持っていると思うんです。世代として僕らの特徴があるとすれば、インターネットの存在かな。音楽そのものの捉え方を変えてしまうような人種が突然生まれてきたのではなく、いろいろな情報へのアクセスが自由になったことで、多様性を受容できる人が増えたのではないでしょうか。
──東京偏重ではなく地方からも面白いプレイヤーが出てきているのも、様々な情報に平等にアクセスできるようになったからと考えれば納得できます。
もちろん僕らより上の世代でも、ジャズの外側へ出ようとしていた方は多くいます。彼らはいろいろな音楽を咀嚼して自分の言語として表現することに長けていた。一方、僕らの世代は自分の言語を他人の言語と混ぜてそのまま出すことに長けている。どちらが良い悪いということではなく、そういうことが起きやすい時代に、起きやすい環境にいた最初の方の世代なのかもしれません
──ネットの普及は、様々な環境においてアドバンテージが多いと思います。しかし、それによって音楽家の商材である「音楽」が無料になるケースも散見されます。
正直、CD買ってほしいですよ(笑)。でもね、時代の流れを変えることはできない。ラジオからレコード、CDと、これまでもメディアが変遷する過渡期には必ず変化が起こってきましたよね。なので、今回も僕はとてもポジティブに捉えています。「異質なものが存在することを認知できる状態」というのは音楽に限らず良いことですから。
2019年10月にリリースされたCRCK/LCKSの1stアルバム『テンポラリー』と、12月リリースの『テンポラリー Vol.2』。異例の連続発売が話題となった。
──新たなメディア、サブスクリプションがここ数年で日本でも定着しました。
サブスクリプションの普及でいまは音楽が氾濫している状態だけど、受け取る側のリテラシーが上がればそれをうまく扱うことができるようになるんじゃないかな。良質なキュレーターが職業としておもしろい時代になるのか、日本人の国民性が変容していくのか。しばらくの間、観察してみないと答えは出ないでしょう。
──そのような時代において、CRCK/LCKSの進む方向についてアイディアはありますか?
小田が持っている「詞」を通した希求を、僕ら4人がサポートして面白い音楽にしていくという流れは変わらないでしょう。その上で、これまでの日本では聴けなかった、日本でしか聴けない音楽をやっていきたい。そもそも文脈が他のバンドとは異なるのだから、日本国内の面白いポップス・バンドになるのではなく、世界で通じる日本語のバンド、というところまで持っていきたいと思っています。
──外見はポップなんだけど、聴くほどにリズム、コード、歌詞など、いたるところに「毒」のような仕掛けを感じます。
それも狙いです。80年代から脈々と続くJポップの系譜が、5人のDNAにも染み付いています。それをどうしたら「現代的」になるかを考えるのがこのバンド。実験的であるけれど、出てくる音は独りよがりなものではなく、いろいろな人々に聴かれるものでありたいですね。
──CRCK/LCKSの音楽は、ポップスだと思いますか?
言葉の力を持って広く音楽を届けるという意味でいえば、十分にポップスでしょう。小田が歌を背負い始めてからは特に。変わってきたし、変えてきた。変化というより、進化かな。
小西遼の率いるラージ・アンサンブル“象眠舎”。演劇、文学、アートなどを音楽で繋ぎ合わせていく。
──小西さん自身は、次になにをやりたいですか?
ちょうどいまソロの音源を制作しているところです。先にも挙げた「象眠舎」という自分のソロ名義で、2020年にリリースを考えています。僕は自分のことをまだ「音楽家」だと思い切れていなくて。サックスではなくペンを持っていれば作家になっていたかもしれないし、演劇を続けていたかもしれない。見たことがないけど見たい景色、空想の原風景、光、匂いのようなものが絶えず頭の中に流れている。それをなんらかの手段で表出させたいんです。
──それはCRCK/LCKSでは表現できないものですか?
いえ、すでにいろいろな場面で表現しています。けれど、帰国してからこの5年間で自分の中に積もってきたものがあるので、それを自分の作品として出してみたくなりました。いま、これまでにないくらいCRCK/LCKSのことが好き。だからこそ、自分の作品もやりたくなった。音楽的に充足していることの証だと思います。
1988年生まれ。作編曲家、サックス奏者。洗足音楽大学在籍時より国内外のジャズフェスティバルに参加、2011年にバークリー音楽院へ奨学金を得て留学し、首席で卒業する。ニューヨーク滞在の後、2015年に帰国。ポップス・バンド”CRCK/LCKS”を結成したほか、挾間美帆(cond)とのユニット”Com⇔Positions”を立ち上げる。あっこゴリラ、TENDRE、中村佳穂、永原真夏、Charaなど多数のミュージシャンのサポートとしても活躍している。