投稿日 : 2020.01.01 更新日 : 2021.05.27
【安藤康平(MELRAW)インタビュー】ギターヒーローの気分でサックス吹いてます ─苦闘の連続で勝ち取った演奏流儀
撮影/平野 明
安藤康平は1989年(平成元年)生まれのミュージシャンだ。彼の名が初めて “マスメディア” に出たのは2011年。大学生のときだった。『山野 ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト(注1)』で「最優秀ソリスト賞」を獲得し、一般紙もこれを報じたのである。
注1:山野楽器(東京都中央区)が主催する音楽コンクール。国内の大学生ビッグ・バンドを対象にした大会としては最大規模。2019年に50回目を迎えた。
じつはこのとき安藤は、人生の大きな岐路に立っていた。その経緯は後述するが、現在の彼は「サックス奏者・安藤康平」として大活躍中。そしてもうひとつ、自身のソロプロジェクト「MELRAW(メルロウ)」としての活動も注目されている。MELRAWの彼はサックスも吹くしギターも弾く。他にもフルート、トランペット、シンセサイザー、MPCまで駆使したマルチ・マルチプレイヤーぶりを発揮。作風も自由奔放だ。
メルロウとは何か?
彼がMELRAWを始動したのは2016年。26歳のときだった。
「昔から仲のいいWONK(注2)が自分たちのレーベルを作るというので、ふざけて『じゃ、俺のソロ作やってよ』って言ったんですよ」
注2:WONK (ウォンク)。2013年に結成されたバンド。メンバーは長塚健斗 (ボーカル)、江﨑文武(キーボード/ピアノ/シンセサイザー)、井上幹(ベース/シンセサイザー)、荒田洸(ドラムス)。
ムシのいいこと言ってんじゃねーよ。そんな突っ込みを想定した軽い冗談だったが、意外にも、彼らの反応は「やりましょうよ!」と乗り気。もちろん、安藤の肚にはやりたい気持ちもアイディアもたっぷりあった。しかし何にも増して大きかったのは、危機感だったという。
「その頃の僕は、サポートやレコーディングの仕事もそこそこ貰えるようになっていました。なかでも僕が有名だったのは、ド深夜のジャムとか、アングラなセッション・シーン。そこはすごく刺激的な環境だし、評価されるのも嬉しい。けど、このままミュージシャンズ・ミュージシャンの道を深く進んでいくことに、危機感もありました」
ガチで強い “地下格闘技の名ファイター” みたいな境遇。ものすごくカッコいいことでもあるが、音楽を生業にする上で、思うところもあった。
そんな時期にレーベル・ディールの話が挙がり、およそ1年で完成させたのが、最初のアルバム『Pilgrim』(2017年)である。ここから「MELRAW(メルロウ)」が始まったわけだが、それにしてもなぜ、初のオリジナルアルバムを「安藤康平」名義にしなかったのか。
「サックスを持ってキラーン…みたいな、ジャズのアルバムにありがちなビジュアルが嫌だったんです。いや、それを宮川純(注3)みたいな男前がやればカッコいいですよ。でも俺がやってもなぁ…と。そもそも俺が前に出て、人気が出るわけがない」
注3:宮川純(宮川純)。1987年生まれ。愛知県出身のピアノ/キーボード奏者。
なんて卑屈な天才…。そんな彼は一計を案じる。架空のキャラクター「MELRAW」をでっち上げ、フロントマン兼プロデューサーに据えたのだ。
「MELRAWというプロデューサーがいて、彼の作品のレコーディングメンバーとして安藤がいる、みたいな感じです。実際、最初のアルバムのクレジットはそうなってます。まあ、その設定も面倒になってきて今に至るんですけどね(笑)」
自分が前に出なくて済む、という消極的な理由だけではない。この設定のおかげで「SFやアメコミが好き」という自身の嗜好を盛り込む楽しさも得た。
「この設定なら、ビジュアル的な自由度も高い。俺がサックス持って表参道をスローモーションで歩いている、みたいなMVとか絶対無理だけど(笑)、MELRAWというキャラクターを使えば、大好きなSF設定のアニメーションとか、いろんなことができる」
俺は天才気質の芸術家ではない
話は変わるが、銀河系の外縁部にケッセル(Kessel)という天体があることをご存じだろうか。
この惑星ケッセルと、惑星オバ・ダイアを結ぶ区間のことを、通称「ケッセル・ラン(Kessel Run)」という。最短でも20パーセクといわれるこの交易ルートを、密輸業者のハン・ソロはなんと12パーセクで飛び抜け、伝説になった。もちろん、映画『スターウォーズ』の話だが、カルトなファンにとってこれは「銀河の事実」だ。
安藤もそんな類の人間である。つい先日に発表された新曲に、彼は「ケッセル・ラン(Kessel Run)」と名付けた。タイトルどおり、無鉄砲でスリリングな星間飛行を想起させる佳曲だ。多くのジャズファンにとって「Kessel」はバーニー・ケッセル(注4)だが、安藤にとっては惑星ケッセルなのである。
注4:米オクラホマ州出身のギタリスト(1923-2004)。
この「Kessel Run」には、イエス・モリーナ(コロンビア出身の鍵盤奏者)をフィーチャーし、石若駿や宮川純といった同世代の偉才たちも多数参加。ドラムンベース的なビートを根基に、各々が華麗に躍動するという雄編である。
「この曲は、クリス・デイブに象徴されるような “ヨレたビート” じゃなくて、ルイス・コール的なタイト方向。MELRAWは “こういうの面白いな” と感じたものを超自然体でやってます」
ナチュラルにこんな世界を構築できるのだから、明敏なクリエイターである。その一方で匠人的「サックス奏者」としての安藤もいる。
いまさら言うまでもないが、ジャズ・サックス奏者としての安藤康平は、類まれな表現力とスキルを備えた傑物だ。しかし彼は、そのことを鼻にかける様子もないし、演奏家としての “アーティスト性” にも拘らない。
「サックスを使って、何か崇高なものを表現したい、みたいな気持ちは今はさほど大きくないんです。僕はミュージシャンやエンターテイナーではあるかもしれないけど、天才気質の芸術家ではない。そんなにアーティスティックな人間じゃないと、自分では思ってるんですよ」
そう謙遜した上で、こうも続ける。
「むしろ、ロックギター・ヒーローみたいなノリでサックス吹いてます。そういう意味では、派手に“カブく”ことはできるんです。お客さんやステージを盛り上げるために “役割を全うする” みたいな感覚でね」
そう語る安藤は、実際に “ロックギター・ヒーロー” を夢見ていた頃もあった。
ギター小僧の誤算
「父親が音楽好きで。よちよち歩きの頃から親父に抱かれて、いろんなライブを観ていました。なかでも強烈だったのが、マーク・ファーナー(注5)。小学生ながら『俺もギタリストになる!』って思いましたね」
注5:1948年、米ミシガン州生まれ。ギタリスト/歌手/ソングライター。ロックバンド「グランド・ファンク・レイルロード」のメンバーとしても活躍。
こうして、小学校の高学年になる頃には、エリック・クラプトンのプレーを耳コピで弾くほどの手練れに成長。そのまま中学で軽音楽部に入り、ギターを弾き続ける気も満々だった。が、思い通りにはいかなかった。
「僕が入学した年、軽音楽部は廃部になっていた。それでもギターを弾きたくて吹奏楽部に入りました。その部はフルの吹奏楽団を組める人数がいなかったから、ジャズをやってたんですよ。で、先生に『ギターやりたいです』って言ったんですけど『お前はトランペットやってくれ』と」
安藤が入学したのは中高一貫の男子校。吹奏楽部に所属する中学生は、彼を含めて3人だけ。あとは全員が高校生だった。そこで、触ったこともないトランペットを担当することになる。
「当時の僕は身長141センチくらいで(笑)、高校生のお兄さんたちと比べると完全に子供。そんな周囲の中で、パワフルにトランペットを吹くのは大変で。口が切れるまで練習しました。でも1年半で挫折して、サックスに転向しました」
これがハマった。昼食の時間も惜しんで演奏に打ち込み、夏休みもひたすら練習。バンド自体もコンテストで好成績をおさめていたので、部内の団結力や士気も高かった。まるで体育系の部を圧倒するほどの“熱血”吹奏楽部。これも安藤の気質に合っていた。高校へ内部進学すると、さらに拍車がかかる。
「とにかく部活だけの生活。そのうち、授業も蔑ろになって(笑)。このまま音楽の道をつき進むために、まるで自分から退路を断ってた。そんな感じもありましたね」
かくして、彼は地元・名古屋の音大に進学。東京の音楽大学や海外留学も選択肢にあったが、大好きな地元の仲間たちや、生まれ育った地への愛着を優先した。しかし彼を待ち受けるのは、またもや「挫折と模索」であった。
人生を変えた不思議体験
「中高のビッグバンドで伸びてた鼻を、大学でへし折られました。小手先で “ビバップっぽいこと” はできるけど、僕のプレーはどこか嘘っぽい気がして」
彼はその解決策を、学外に捜し始める。そして、地元・名古屋の懐の深さを知る。
「愛知県にはトヨタ自動車とかあるから外国人も多くて。彼らが集う教会ではゴスペルやってたり、ファンクとかR&Bをやってる人たちもいるんですね。そういう人たちとセッションをやり始めました。その流れで、関西のとある有名なジャムセッションに参加するようになるんです」
そこで彼は、人生を左右する大事件に遭遇する。
「ある日、そのジャムセッションに、エズラ・ブラウンっていうゴスペル系のサックス奏者が参加する、という情報が入ったんです」
血気さかんな若者は、もちろん勝つ気で乗り込んだ。
「完全にやられました。ガタイも僕の3倍くらいあるし、プレイの熱量も想像の3倍だった。しかもゴスペルの人だから “神にささげる” みたいなマインドもあって、すごいんです」
驚きも大きかったが、得たものはもっと大きい。
「彼は、横で吹いてる僕に対して『もっと行け!もっとだ!』って鼓舞してくる。そのときに不思議な気分を味わったんです。うまく言えないけど “普通では到達できないところに連れて行ってもらった” みたいな感覚。同時に、やっぱこういう人たちと演らなきゃダメだわ…って、強く思いました」
ほろ苦いNYデビュー
神の導きがあったのか、こうして留学を決意した彼はニューヨークへ。知人のつてでブルックリンに居住しながら、邁進の日々が始まった。が、またもや出鼻を挫かれる。それは、初めてジャムセッションに乗り込んだ日のことだった。
「スモールズ(注6)に行ったんですけど、僕は楽器を抱えたまま何もできなかったんです。周囲の連中は、互いを牽制しながら我先にとステージに上がっていく。しかも、ものすごくうまい。その様子に圧倒されてしまって、結局、終了までの3時間、僕はただ呆然と眺めていただけでした」
注6:ニューヨークのジャズクラブ。1993年のオープン以来、ジャズマンたちの研鑽の場として、また一級の演奏を楽しめるクラブとして人気が高い。夜間の通常ステージに加え、深夜帯はジャムセッション(参加ミュージシャン同士が自由な掛け合いで創造性を発揮し合う演奏形態)が行われている。
この「呆然」には感動も含まれていた。こんなにうまい連中がゴロゴロいて、しかも皆ここで何かを掴もうとしている。なんて素晴らしい環境。ここにいれば絶対うまくなる…。そんな感動に包まれた安藤の様子を、じっと見ていた男がいた。
「近くに座ってたピアニストのおじさんが『おまえ、吹いてないだろ』と、声をかけてきたんです。僕はいまの心境を正直に伝えると、彼はこう言いました『おまえのニューヨーク・デビューを、俺がアシストしてやるよ』。それで、近くにある別の店に行って、彼のお膳立てで〈ステラ・バイ・スターライト〉を吹きました。それが僕のニューヨーク・デビュー(笑)です」
ほろ苦いデビュー戦。ここから、まるで修行のような日々が始まる。
「昼くらいに起きて、練習して、晩メシ食って、マンハッタン行って、いろんなジャムセッションを朝までハシゴ。で、また昼に起きて、昨日知らなかったスタンダードを勉強して、セッションに向かう。ひたすらその繰り返しです」
当時をふり返る安藤は「ニューヨークに住んでいながら、エンパイア・ステート・ビルも、自由の女神すらも見ていない」と苦笑する。ひたすら鍛錬の日々を送ったのだ。結果、何を得られたのかと問うと、彼はこう答える。
「俺は大丈夫だ、と思えた。そのことを確認できたのは大きかったです。ニューヨークで実践的にいろんな人と一緒にやってみて、すごく大きな差は感じなかったし、どこにいても、どんな現場でも“自分は自分”でいられる。そう思えるようになった。これは僕にとって大きな収穫でした」
東京行きの条件
帰国して、地元の音大に戻った安藤はすでに4年生。この先どうするのか。東京に居を移し、演奏家として活動すべきか。と思ってはみたものの、なかなか決心がつかない。そんな安藤を導いたのは、アメリカに渡った “同郷のヒーロー” の言葉。
「まずは自分が身を置いている場所で1番になる。で、また次のステージで1番になる。これを繰り返していくことで、高みに到達する。みたいなことを、イチローさんが言ってたんですけどね(笑)。それだなーっ! って感じで、自分の身に置き換えてみました」
つまり、プロになるために、まずは「同世代の大学生」の中で1番になる。そう考えた安藤は、近くに控えたコンテストを試金石とする。そして、こう心に決める。
「山野でソロ賞とれたら、東京行く」
そんな思いで臨んだのが2011年の『山野ビッグ・バンド・ジャズ・コンテスト』。結果は冒頭で触れたとおり「最優秀ソリスト賞」に輝いた。かくして、東京を拠点にプロ活動を開始した安藤。彼のもとには、志を同じくする同世代の演奏家たちが続々と集まった。その証左が、MELRAWに参加するメンバーたちであり、あの作風である
また安藤自身も、WONKをはじめ、millennium parade(常田大希のプロジェクト)や、Answer to Remember(石若駿のプロジェクト)など、多くのプロジェクトで要務を担っている。
年配ジャズマンも興味津々
安藤が関与するプロジェクトは多種多様だ。伝統的なジャズに則したものから、ポップにエンターテインされたもの、果ては、先鋭的でアバンギャルドなものまで。また、こうしたプロジェクトの多くに「ジャズの話法を知っている」若きプレイヤーたちが参加しているのも、興味ぶかい傾向である。
ともすると、ここに “ジャズの未来” を期待する者がいるかもしれない。あるいは、彼らに “ジャズの伝統” を背負わせようとする者や、“狭量で独善的なジャズ観” を押し付けてくるジャズマニアもいるだろう。
「自分は、ジャズも通ってきたけど、ジャズが根底にあるわけではない。僕の中でいちばん大きいのは、むしろブルースです。周囲の仲間もそうだと思いますよ。ジャズも通ってきたし、ロックもヒップホップもテクノも、何でも好きなんです。そこは、作る立場としても同じ」
周囲はなにかと「ジャズ」にカテゴライズしたがるが、彼の芯には太いブルースがある。そして、ブルースと兄弟関係にあるジャズやロックやヒップホップも、同じように愛している。だからこそ彼は、古典的なジャズをこう捉えている。
「場面次第では、古典的なジャズに寄った演奏もするし、それがちゃんと “自分のためになっている” ことも実感します。でも、その演奏でCD出したいとか、何かを伝えたいとか、そういう欲求はないんです。そこを仕事にしなくていい。ただし(古典的ジャズをプレイすることは)自分の治癒とかストレッチとか、そういう効能を与えてくれるものとして、僕にとっては尊い存在です。だから、その演奏を覗きに来て、楽しんでくれる人がいてもいいと思ってます。むしろ、どうぞ楽しんでくださいという気持ちですね」
このマインドは、新世代の “ジャズ系” プレイヤーに共通するところかもしれない。ところが安藤は、年配のジャズマンからこんなことを言われるという。
「50代の人たちと一緒にツアーとか行くと『おい安藤くん、キミはいまどき珍しい “昔気質のジャズマン” だなぁ』っていわれます。そんな自覚は全くないんですけどね。酒飲みだからですかね」
そこは「ジャズマンではなくブルースマンだから」というのが真因かもしれない。いずれにせよ、安藤が新旧両世代から一目置かれるのは、相当に魅力的な音楽家だから。同時に「安藤康平とMELRAW」がうまく機能している証拠、とも言えるのではないか。
MELRAW
http://www.epistroph.tokyo/melraw
取材協力:COFFEE BAR GALLAGE
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