撮影:三浦博(写真左)
1950年代半ばの日本のジャズ・シーンで、ビバップを本当に理解していたピアニストは2人しかいなかったと言われる。守安祥太郎と秋吉敏子である。ともにモカンボ・セッションに参加した2人は、その後まったく対照的な人生を歩むことになる。日本ジャズ史上最高のピアニストと呼ばれる守安と、日本人として初めてグローバルなジャズ・ミュージシャンとなった秋吉。2人の真の関係とはどのようなものだったのだろうか──。
守安とモカンボを語らぬ秋吉
「どうしてあなたは私を残して死んじゃったの。これから誰を目標に歩んで行ったらいいの?」
守安祥太郎が突然の自死を遂げたあと、秋吉敏子はそう言って号泣したとジャズ評論家の相倉久人は伝えている(『至高の日本ジャズ全史』)。同様の証言はほかにもいくつかあるが、秋吉自身が守安について自ら語った記録はほとんどない。
原稿用紙1日10枚を目標に、毎日午前8時から午後3時まで書き続けて半年かかって完成させたという秋吉の自伝『ジャズと生きる』(1996年)では、守安への言及は皆無であり、モカンボ・セッションについてもまったく触れられていない。具体的な人名や演奏した店の名前がよくもここまでというほど具体的に書かれているにも関わらず、である。2017年には聞き書きでまとめられた『エンドレス・ジャーニー』が出版されたが、ここでも「お兄ちゃんっていうあだ名の眼鏡かけたピアノ守安祥太郎」という記述がわずかにあるばかりだ。
1950年代の日本のジャズ・シーンにあって、ビバップを完全に理解し、かつプレイできたピアニストは、守安と秋吉の2人のみだったと言われている。技術的には5歳年上の守安が圧倒的に抜きん出ていたというのがジャズ界における一般的な評価で、それゆえにモカンボ・セッションのLPは守安参加のセッションが先行して企画された。
しかし、レコーディングの機会を最初に得たのは秋吉だった。モカンボ・セッションに半年以上先立つ1953年11月、プロデューサーのノーマン・グランツ率いるJATP(ジャズ・アット・ザ・フィルハーモニック)の一員として来日していたオスカー・ピーターソンがライブ・ハウスで秋吉の演奏を聴き、レコード・レーベルの主宰もしていたグランツに彼女を推薦して実現したのがそのレコーディングである。当時のラジオ東京(現TBSラジオ)で録音された『トシコズ・ピアノ』は、アメリカで最初に発売された日本人ミュージシャンによるジャズ・レコードとなった。
守安さんのことはよく知りません
当時のジャズ界には、これは一種の運であったという見方が強くあったようだ。相倉久人は先の著書で「なぜピータースンは秋吉でなく、守安祥太郎をグランツに紹介しなかったのか」と書いている。「なんとも惜しいことをしたものだ」と。
実力からいえば明らかに守安の方が上なのに、秋吉敏子が先に世界に知られることになったのは、日本人のしかも女性がバド・パウエルそっくりのピアノを弾いていることをアメリカ人が面白がったから──。そんな陰口はおそらく秋吉自身の耳にも届いていたに違いない。だから、彼女はあえて守安について語ることを封印したのではないか。
「バンドにピアニストは一人だけだから、守安さんといっしょのバンドになったことはないわけです。だから守安さんのことはよく知りません。若かったからピアノ弾いているときは、余裕がなくて他のことが目に入りませんでしたから」
守安の評伝『そして、風が走り抜けて行った』には、ほとんど冷淡と言っていいそんな秋吉の言葉が紹介されている。秋吉が守安に関して具体的にコメントしたほぼ唯一の記録である。モカンボ・セッション以前にすでにアメリカのレーベルに録音を残していた自分が、あのセッションに歴史性を感じる必要はないし、守安と比較されるいわれもない──。守安ならびにモカンボに対する冷ややかなスタンスからは、彼女のそんな強い自意識が透けて見えるようにも感じられる。
若き秋吉敏子のオリジナリティ
もしオスカー・ピーターソンが、守安祥太郎と秋吉敏子の両方の演奏に触れる機会があったら、ピーターソンは守安をグランツに紹介していただろうか。いやそうではあるまいと、ジャズ・ジャーナリストの小川隆夫は言う。
「守安祥太郎は耳が抜群によくて、コピーが上手でした。テクニックも天才的だった。しかし、独自のハーモニーを考えたり、曲をつくったりしていたわけではありません。オリジナリティがあったのは、むしろ秋吉さんでした。仮に守安のピアノをオスカー・ピーターソンが聴いたとしても、秋吉さんの方を評価したと思います」
人生最初の録音に臨んで秋吉は8曲を用意したが、うち2曲は自作だった。それ以前に結成していた自身のグループ、コージー・カルテットのレパートリーにもオリジナル曲が入っていたという。渡米した後の彼女は、ピアニストしてもよりもむしろビッグ・バンドの作編曲家として高く評価されるようになった。
一方の守安は、原信夫とシャープス&フラッツのためにライオネル・ハンプトンやウディ・ハーマンのビッグ・バンド譜を400曲も採譜したが、自身で曲をつくることも、編曲することもなかった。生きていたとして、秋吉の「孤軍」や「すみ絵」や「ミナマタ」に匹敵する独創性を発揮していたかどうか。想像でものを語るのは控えるべきだが、少なくとも50年代のあの頃、守安が天才的「プレーヤー」であったとすれば、秋吉は「アーティスト」としての一歩を踏み出そうとしていた。そのコントラストを見抜いている点に小川のジャーナリストとしての慧眼がある。
「もっとも、秋吉さんが守安の影響を強く受けていたことは間違いありません。というより、守安がやっていたことを本当に理解できていたのは秋吉さんだけだったと思います。ほかの人は、影響を受けようにも理解すらできなかった。それが事実ではないでしょうか」
『そして、風が走り抜けて行った』の中で秋吉は、守安を「ライバル」とも「先生」とも思ったことはないと語っている。では、彼女にとって守安はどのような存在だったのか。年の少し離れた「同志」──。そんな表現が最もふさわしいように思う。守安が死んだときの秋吉の涙は、ビバップをともに志したかけがえのない同志を失った涙ではなかったか。それとも、秋吉はこの見方を「そんなことは考えたこともない」と一蹴するだろうか。
アメリカへの憧れと成長への希求
一つ明確に言えることがある。当時の日本のジャズ・ミュージシャンの中で、ジャズとアメリカに対する最も強い思いをもち、かつそれを行動に移したのが秋吉だったということだ。
1950年秋、日本に駐在する米軍兵士を慰問する一団が来日した。その中には、ジャズのビッグ・バンドも含まれていて、ルー・ゲーリック・スタジアム、現在の横浜スタジアムで演奏することになった。日本人立ち入り禁止のライブをどうしても見たかった秋吉は、塀を乗り越えて会場に入った。
「聞きたい一心から、衛兵のいるゲートよりかなり遠い所の塀を乗り越え、暗い夜を利用して、少しずつステージに近寄り、バンドの演奏を聞いた」(『ジャズと生きる』)
さらに彼女は、演奏終了後の楽屋に行って、メンバーに「私はピアニストだ」と片言の英語で自己紹介をした。自分がジャズに精通していることを示すために、チャーリー・パーカーの「アンソロポロジー」をスキャットした結果、みんなが秋吉をミュージシャンと信じた。その後、バンドのピアニストが彼女の家まで来てピアノを弾いてくれたという。
もう一つ、アメリカへの恋慕とも言っていい思いを伝えるくだりが自伝にある。ファースト・アルバムを録音した頃の秋吉は、横浜での仕事の際は必ずジャズ喫茶『ちぐさ』に立ち寄って、終電の時間までレコードを聴いていた。時には終電を逃してしまうこともあったと彼女は振り返っている。
「終電を逃した私は桜木町の駅前でタクシーと交渉し、メーターなし五〇〇円で、外人墓地の所を回りながら、『港の見える丘』まで上がり、そこで、暗いくすんだブルーの空がだんだん薄いブルーに変わっていく夜明けを見つめた。時々、灰色のアメリカの軍艦が何隻か入っていて、私は何となく、遠いアメリカのどこかのレコード店に置いてあるかもしれない私のレコードのことを思ったりした」
自伝中、最も美しく、また切ない描写である。日本のジャズ界で孤独感を募らせていた秋吉は、この後ほどなくバークリー音楽院に留学することになる。もちろん、日本人として初めてのバークリー入学だった。渡辺貞夫を始めとするジャズ・ミュージシャンがのちにバークリーを目指す道筋を単身拓いたのが秋吉だった。秋吉にあって、守安になかったもの。それはオリジナリティよりもむしろ、アメリカへの焦がれるような憧憬と、音楽家としての成長に対するあくなき希求であったかもしれない。
守安は秋吉の渡米を見届けることなく31歳で死んだ。秋吉はやがてグラミーに何度となくノミネートされるほどの世界的ミュージシャンとなり、90歳となった今も演奏を続けている。日本のモダン・ジャズの扉をほとんど力ずくでこじ開けた2人の先駆者の人生は、モカンボ・セッションを最後に二度と交わることはなかった。
(敬称略)
▶︎Vol.9:みんなクスリが好きだった─ 日本のジャズとドラッグ
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。