中井知恵美はアメリカ在住のピアニストだ。1998年に渡米後、ニューヨーク市立クイーンズ大学ジャズ・パフォーマンス科大学院に入学。その一方で、同地のラティーノ・コミュニティに単身乗り込み、活動の足場を築いた。以来、20年以上にわたってラテンジャズ・ピアニストとして活躍している。
彼女を育んだのは、ニューヨークのスパニッシュ・ハーレム(注1)と呼ばれる地区。ここには中南米やカリブ海諸国の出身者が多く暮らし、古くからマンボやブーガルー、サルサといったラテン音楽を世界に発信し続けてきた。いわば、NYラテン音楽シーンの中枢だ。
注1:米ニューヨーク・マンハッタン区のイースト・ハーレムに属する地域。プエルトリコやキューバ、ドミニカなどのカリブ海地域や、中南米のおもにスペイン語圏の出身者が多く暮らす。ニューヨーク最大のラティーノ(ヒスパニック)コミュニティとして知られる。
そんなラティーノ・コミュニティは、現在の彼女にとってホームグラウンド。しかし、地元ミュージシャンたちに認められ、ここを活動の拠点とするまでには大変な苦労があった。
NYサルサの衝撃
──中井さんがラテン音楽に興味を持ったのは、1990年代のはじめ頃だったとか。
大阪で活動していた頃でした。同じバンドのメンバーにキューバ音楽が好きな人がいて、そこからラテン音楽に興味を持つようになりました。
ちょうどその頃、オルケスタ・デ・ラ・ルス(注2)が海外でも活動するようになって、日本でもサルサ系の音楽が流行りはじめていました。同時期に、村上龍(注3)さんもキューバ音楽に熱心で、エネへ・ラ・バンダっていうキューバの凄腕バンドを日本に呼んだり。私も東京までコンサートを見に行きました。
注2:1984年に結成された日本のサルサ・バンド。1990年に発表したデビューアルバム『デ・ラ・ルス』(米国盤タイトルは『Salsa caliente del Japón』)が米ビルボード誌ラテン・チャート1位を獲得。世界で成功した数少ない日本人グループのひとつとなった。1997年に活動を停止するが、2002年に再始動して現在も活動中。
注3:小説家。1976年に発表した『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞受賞。その後も『コインロッカー・ベイビーズ』『愛と幻想のファシズム』など数多くの作品を発表。キューバ音楽作品のプロデュースやミュージシャンの招聘なども手がけ、著書には『新世界のビート 快楽のキューバ音楽ガイド』(1993年)などの音楽ガイドも。
その後、1997年に初めてキューバに行きました。2週間ほどですけど、現地のバンドを生で見て衝撃を受けました。そのときはニューヨークにも3か月間ほど行って、サルサのライブを見たんですけど、そっちもすごいパワーで驚きましたね。
──日本で聴くラテン音楽とは違っていた?
当時すでに大阪のミュージシャンの方々とサルサのバンドもやっていたんですけど、ソネオ(注4)というインプロビゼーション(即興演奏)の部分がなかなか盛り上がらないんですね。それで、本場でやってみたいという思いが強くなっていきました。
注4:サルサの演奏途中、ボーカルがコーラスと掛け合いながら即興で歌い続けるセクションのこと。
──そんな思いで、サルサの本拠地であるニューヨークに移住。アメリカ生活でいちばん辛かったことは?
まず言葉がたいへんで。語学学校で一から英語を勉強しました。クイーンズ・カレッジ(ニューヨーク市立大学クイーンズ校)の大学院で、ジャズのアレンジメントも勉強したかったので、必死で英語を身につけました。
──大学でジャズを学んで、ラテン音楽は現場で学んだ、という感じでしょうか。
その頃、ニューヨークのイースト・ハーレムにボーイズ・ハーバーっていうラテン音楽の学校があったんです。そこはサルサビッグバンドのクリニックのような感じで、セッションみたいなレッスン。順番に並んで、自分の番になったら弾いて、というようなスタイルでした。
受講料も安かったので、毎週のように通って、サルサの譜面の読み方とか、モントゥーノ(注5)の弾き方とか、キューの出し方を学びました。実地訓練みたいな感じで勉強できたし、サルサのミュージシャンたちとも出会うことができたので、当時の私にとってはすごく良い環境でした。
注5:ソンやサルサなどの音楽で、終盤部分の最も盛り上がる「サビ」に相当する部分。
ヒスパニック社会の音楽事情
──ニューヨークのラテン音楽コミュニティに、日本人女性が入り込むのは珍しいことなのでは?
ピアノで、日本人で、女性で、というのは珍しかったと思いますよ。当時、日本人の女性は、私以外にコンガ奏者の木村やすよさんという方がいました。彼女は現在も、旦那さんのパーカッショニスト、ビクター・レンドン氏と一緒にサルサビッグバンドを結成して演奏されています。
──当時のスパニッシュ・ハーレムは、治安が悪いことでも有名でしたが。
幸いなことに、私は危険な目に遭ったことはなかったですね。プエルトリコ人のベーシストの友人がいたんですけど、彼の奥さんが日本人で。プエルトリコのミュージシャンたちの中にも自然にすんなり入っていけましたね。
そのおかげで仕事も入るようになって。1999年にはツアーでヨーロッパに行ったり、ジミー・ボッシュ(注6)のバンドで演奏したり、デイヴ・ヴァレンティン(注7)と共演する機会も得て。
注6:トロンボーン奏者。1959年、米ニュージャージ州生まれ。バンドリーダー/作曲家としても活躍。
注7:フルート奏者。1952年、米ニューヨーク州生まれ。ファニア・オールスターズなどのラテン音楽グループで活動する一方、スティービー・ワンダーやテンプテーションズなどとも共演。ジャズ/フュージョン作品も多数発表している。
──すごい! そこから演奏活動も順調に?
いや、じつはその頃、クラシックなサルサが下火になりはじめたんです。クラブミュージック的なメレンゲや、レゲトンのような新しいラテン音楽の人気が高まって。サルサを大人数で演奏するようなクラブもどんどん減っていったんです。
──なるほど。ラテン音楽シーンも常に変化しているんですね。
さらに2000年頃、『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』(注8)が注目されて、3〜4人の少数編成でダンサブルな音楽を演奏するスタイルが主流になっていきました。
そこにはジャズの要素もあって演奏の需要も多かったので、私自身もどんどんそっちの方に移っていきました。お店やクライアントから依頼を受けると、機材をバンド・メンバーの車やタクシーで運んで演奏するという、コンパクトなスタイルで。
注8:1997年、米ギタリスト/プロデューサーのライ・クーダーがキューバのベテラン・ミュージシャンと制作したアルバム。1999年にヴィム・ヴェンダース監督により同名のドキュメンタリー映画が制作され、世界的なブームを巻き起こした。
――ひとくちに「ラテン音楽」といっても、国によってスタイルやフィーリングも違いますよね。
そうですね。プエルトリコの人は、クラーヴェ(注9)がきっちりしていないと気持ち悪いみたいですね。でもキューバ系のミュージシャンは、クラーヴェはあまり気にしない感じです。キューバの人は、ソン(注10)とか『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』の中の曲のような、メロディアスな音楽も好きですね。
注9:ラテン音楽のリズムの基本となるフレーズ。2拍子2小節のパターンからなる。
注10:キューバ発祥の音楽。サルサ、マンボ、チャチャチャの原型ともいわれる。
自分を上昇させるアルバム
――最新アルバム『Ascendant』を聴きました。ストレートなラテン音楽というよりも、ラテンの風味がほどよくジャズにブレンドされた雰囲気。
そうですね、1枚目のアルバム『bridges』(2008年)はけっこうパーカッションを多用していたんですけど、今回はパーカッションは控えめにして、ジャズであるけれどアレンジはラテン。そんなイメージで作りました。
――ジャズならではの即興演奏と、ラテン音楽特有のアンサンブルが、すごくいいバランスで融合していますね。
ジャズって一発録りの生の音楽ですけど、今回はけっこう作り込んでいる部分もあります。効果音を入れたりもしているし。
――アルバムタイトル『Ascendant』は「上昇する」という意味ですが、その意図は?
この10年間で、両親が相次いで亡くなったり、飼っていたペットを亡くしたこともあって、ダウン気味だったんですね。さらに経済的な事情もあって、なかなかアルバムも出せなかった。そんな状況の中で、自分を鼓舞して上昇したいという思いを込めました。
2013年に『Transformation』という2枚目のアルバムを出したんですけど、それはミニ・アルバムみたいな感じなので、フル・アルバムとしては約10年ぶりです。
――今回のアルバム収録曲は、オリジナル作品が中心ですね。
オリジナル曲は、ここ4〜5年で作曲したものですね。
――日本語のボーカル曲もあります。
「Volver」で歌っているのは、古賀マリさんという日本人ボーカリストです。彼女は大阪時代に一緒に演奏していた仲間で、もう25年以上のお付き合い。私の音楽的パートナーのような人で、一緒にバンドも組んでいた時期もありました。
あと、「Noche Especial」も日本人ミュージシャンにちなんだ曲。2015年に赤木りえ(注10)さんをニューヨークに招いてライブをやったんですけど、そのときに作った曲です。タイトルは「特別な夜」という意味。
注10:フルート奏者。ジャズとラテン音楽の両分野で活躍。世界各地でライブ活動を展開し、2005年にはプエルトリコのユネスコから表彰。NHK『歴史秘話ヒストリア』『花子とアン』などのフルート演奏でも知られている。
――ニューヨークで活動する日本人のジャズ・ミュージシャンは大勢いますが、中井さんのようにラテン・コミュニティと接点を持つプレイヤーはどれくらいいるのでしょうか?
ジャズのフィールドには日本人がいっぱいいますけど、ラテン音楽の世界ではほとんど見かけないですね。けど最近、奈須田一鉄くんというピアニストが頑張っていらっしゃいます。私が毎週演奏していたVictor’s Cafeというキューバンレストランの老舗があるんですけど、最近は彼もその店でよく弾いていますし、いろんなキューバ系のバンドでも演奏されているようですね。
* * *
そう語った中井は、今回のアルバム発表にちなんだジャパンツアー(全国5か所)を終え、再びニューヨークへ。さらなる “上昇” へ向けて、新たな作品づくりと演奏の日々がはじまる。
【中井知恵美 オフィシャルHP】
http://www.chieminakainy.com/
鳥取県出身。幼少の頃からビアノを始め、大阪でジャズ・ピアニストとして活動。ラテン音楽に目覚め、1998年にニューヨーク移住。 2002年にニューヨーク市立クイーンズ大学のジャズ・パフォーマンス科大学院を卒業。その後ジミー・ボッシュなど、ラテン・ジャズのビッグ・アーティストたちとも共演する。2002年に自己のグループを結成し、ジャズクラブ等で演奏活動を続けている。2008年にアルバム『bridges』をリリースし、Latin Jazz Corner誌のベスト・ラテン・ジャズ・アワードで、次世代アーティストとベスト・ピアニストに選ばれる。2013年に『Transformation』をリリースし、2019年には3作目となる『Ascendant』をリリース。
島田 奈央子/しまだ なおこ(インタビュアー/写真左)
音楽ライター / プロデューサー。音楽情報誌や日本経済新聞電子版など、ジャズを中心にコラムやインタビュー記事、レビューなどを執筆するほか、CDの解説を数多く手掛ける。自らプロデュースするジャズ・イベント「Something Jazzy」を開催しながら、新しいジャズの聴き方や楽しみ方を提案。2010年の 著書「Something Jazzy女子のための新しいジャズ・ガイド」により、“女子ジャズ”ブームの火付け役となる。その他、イベントの企画やCDの選曲・監修、プロデュース、TV、ラジオ出演など活動は多岐に渡る。