「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
モントルー・ジャズ・フェスティバルのライブ盤の中では、ビル・エヴァンスの『At the Montreux Jazz Festival』に次いでよく知られたジャケットではないだろうか。レイ・ブライアントがモントルーのステージに立ったのは1972年。そのソロ演奏を収めたアルバムである。しかし、このステージに当初立つことになっていたのはオスカー・ピーターソン・トリオであった。ブライアントはその代役をたったひとりで見事に果たしたのである。
ブルージーで、ファンキーで、クラシカル
アレサ・フランクリンが1961年に19歳でレコード・デビューしたとき、コロンビア・レコードが企図したのは彼女を第二のダイナ・ワシントンとして売り出すことだった。ダイナ同様幼少期からゴスペルに親しんでいたことと、アレサ自身がダイナを敬愛していたのがその理由である。「ゴスペル・ルーツのブルージーなジャズ・シンガー」という看板を支えるために招聘されたのが、ピアニストのレイ・ブライアントであった。
50年代半ばの『マイルス・デイヴィス・アンド・ミルト・ジャクソン』やソニー・ロリンズの『ワーク・タイム』での好サポートが評価され、ブライアントがカーメン・マクレエの伴奏者に起用されたのが1957年のこと。彼自身がジャケットに大写しに登場する『アフター・グロウ』は、カーメンの代表作の一枚に数えられている。
ブライアントの評価を不動のものにしたのが同年にレコーディングされた『レイ・ブライアント・トリオ』で、自作の「ゴールデン・イヤリングス」をはじめとするチャーミングな演奏を聴いて、詩的でロマンティックなピアノ・プレイこそがブライアントの持ち味であると多くの人は理解した。
しかし、それが彼の半面に過ぎなかったことが、翌年に発表された『アローン・ウィズ・ザ・ブルース』で明らかになる。タイトルどおり全編ソロによる演奏で、その大半をブルースが占めている。「ひとりで好きにプレイしていいよ」と言われて思わず地が出てしまったといった一枚であり、言及されることは少ないが、ソロ・ピアノの名盤と断言して差し支えないと思う。
サイドマンや伴奏者として確かな力をもち、ブルースやゴスペルの豊かなフィーリングを備えている点で、レイ・ブライアントはまさしくアレサの伴奏者に最適なプレイヤーであった。濃厚なブルース・フィーリングを備えたピアニストとしてすぐに思い浮かぶのは例えばホレス・パーランだが、アクが強すぎる彼にこの役割は務まらなかっただろう。ブライアントは、要するにたいへんに器用なピアニストなのである。のちにR&B界の頂点に立つ天才シンガーのデビュー作のタイトルには、かくして『アレサ・ウィズ・レイ・ブライアント・コンボ』と、彼の名前が加えられることになったのだった。
飛んで、1972年6月。レイ・ブライアントはモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージに立つ。出演をキャンセルしたオスカー・ピーターソン・トリオの代役としてであった。ブライアントに依頼があったのが本番のどのくらい前なのかは不明だが、バンドを用意する暇がなかったからか、あるいは再び「ひとりで好きにプレイしていいよ」と言われたからか、彼は単身モントルーの舞台にあらわれた。そのステージを記録したのが、のちにレイ・ブライアントの代表作の一枚に数えられるようになる『アローン・アット・モントルー』である。
タイトルから見ても『アローン・ウィズ・ザ・ブルース』の姉妹盤のようなアルバムであり、同作から3曲がチョイスされているが、最大の違いは、ほぼブルース一辺倒であった『アローン・ウィズ・ザ・ブルース』に比べて驚くほど表現の幅が広いことである。フォーク・ソングをゴスペル調のタッチで聴かせる1曲目と、『アローン・ウィズ・ザ・ブルース』収録のブルースから「柳よないておくれ」にスムーズに流れていく2曲目ですでにその芸の多彩さは明らかになり、さらに、自作のラテン曲「クバノ・チャント」、ファンキー・ジャズの「スロー・フレイト」、英国民謡の「グリーンスリーヴス」と、誰に気兼ねすることもなく好きなレパートリーを好きなようにプレイしている。
最初のアンコールの「別れのときまで」は、エルヴィス・プレスリーやロバータ・フラックの歌でよく知られたポップ・ソング。2回目のアンコールではブルースに続いて、ドイツ・ロマン派の作曲家でありピアニストであったフランツ・リストの有名な「愛の夢」から特によく知られた第3番をピックアップし、それをブギウギ・アレンジで聴かせる。題して「“愛の夢”ブギー」。何と自由で器用なピアニストか。
レイは、同作で好評を博した5年後(77年)に再びモントルーのステージにソロで登場。当時の模様は『モントルー’77』としてリリースされている。
これはレコード会社とプロデューサーのはからいと思われるが、観客の拍手と歓声が高レベルでミックスされているのもこのアルバムの特徴で、1000人の定員に対して1600人もの観客が押し寄せたという会場の雰囲気が臨場感をもって伝わってくる。当時、オスカー・ピーターソンはレイ・ブライアントよりも格上と見なされていたピアニストで、その代役をたったひとりで務めなければならなかったブライアントは明らかに分が悪かった。そんな彼をモントルーのオーディエンスは満場のもてなしで迎えたのだった。彼は決して「アローン」ではなかったのである。
『アローン・アット・モントルー』
レイ・ブライアント
■1.Gotta Travel On 2.Blues #3/Willow Weep For Me 3.Cubano Chant 4.Rockin’ Chair 5.After Hours 6.Slow Freight 7.Greensleeves 8.Little Susie 9.Until It’s Time For You To Go 10.Blues #2 11.Liebestraum Boogie
■Ray Bryant(p)
■第6回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1972年6月23日