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1940年代から50年代のニューヨークの音楽シーンには、ドラッグ、とりわけヘロインが隅々まで蔓延していた。ジャズ・ミュージシャンの多くがヘロインにのめり込んでいったのは、たんに「そこにヘロインがあったから」だけではない。なぜ、彼らはヘロインを必要としたのだろうか。音楽とドラッグの結びつきの本質を、当時のニューヨークのジャズ・シーンに探る。
音楽シーンはヘロインだらけ
「パリから戻ってきてから、ハーレムをうろつきまわるようになった。音楽シーンの周りはクスリだらけで、たくさんのミュージシャンが、特にヘロインにどっぷり漬かっていた。ヘロインを打つのがヒップだと信じてるミュージシャンもたくさんいた」
1949年、23歳のマイルス・デイヴィスはパリで開催されたジャズ・フェスティバルに出演した。その初めての海外経験でマイルスは、黒人が演奏する音楽を何の偏見もなく受け入れてくれるオーディエンスの存在に初めて触れることになる。しかし、帰国したアメリカは、依然として白人と黒人の間に厳然たる壁のある差別社会であった。彼がヘロインのヘビーユーザーになるのに時間はかからなかった。
「ヘロインを打つと、バードみたいにすごい演奏ができると信じていた連中もいたが、オレは、そんな盲信にとらわれたことはない。ヘロインにつかまったのは、アメリカに帰ってきて感じた失望と、ジュリエットへの熱い思いからだった」
バードとは言うまでもなくチャーリー・パーカーの愛称、ジュリエットとは、フランスでマイルスと恋仲になり、結局結ばれることのなかったシャンソン歌手のジュリエット・グレコのことである。マイルスの言葉からはわかるのは3つのことだ。当時「ヘロインを打つのはヒップ」だと考えられていたこと。ヘロインを打てば「すごい演奏ができる」と信じられていたこと。そして、マイルスはそのどちらでもなく、失意をまぎらすためにヘロインにすがったということである。
ミュージシャンがドラッグを使う4つの動機
英国の音楽ジャーナリストであり、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンの評伝で知られるハリー・シャピロは、ミュージシャンがドラッグを使用する動機はおおむね4つに分類されると述べている。すなわち、「プラクティカル」「リクリエーショナル」「シンボリック」「エモーション」である(『ドラッグinロック』第三書館)
「リクリエーショナル」とは、「遊び感覚で手を出してみました」といったことなので、とくに考察に値しない。戦後日本のジャズとドラッグの結びつきにおいて、おそらく最も重要な視点は「シンボリック」である。ドラッグとは、音楽のシンボルであり、アウトローのシンボルであり、ヒップのシンボルであった。1968年にマリファナ使用で摘発されて逮捕されたクラプトンは、「おれはアメリカのブルースの伝統にしたがっただけさ」と語ったという。ドラッグを常用していた戦後日本のジャズ・ミュージシャンたちも同じことを言えただろう。「おれたちはアメリカのジャズのスタイルにしたがっただけさ」と。
ドラッグを使うのはヒップなことである──。この感覚には、じつは語源的な根拠があるとハリー・シャピロは述べている。「ヒップ」の語源は、アフリカの部族語の一つであるウォロフ語の「ヒッピ」で、「目を開いた人」を意味する。それがアメリカ南部の黒人奴隷のスラングに入り込み、「事情に明るい」ことを表すヒップに転じた。その後、ヒップという言葉はドラッグと結びつくようになったと彼は言う。
「ヒップはアヘンを吸う人間がアヘン窟で尻(ヒップ)を床につけて横たわる習慣を暗に指すようにもなった」(前掲書)
モカンボ・セッションの現場では、ミュージシャンたちはヒロポンをきめて床に座り込み、紫煙をくゆらせ、延々と続くセッションを眺め、ときに自らステージに立った。目撃者が伝えるその風景は、まさしくかつてのアヘン窟の風景そのものではなかったか。意図せずして彼らは、「ヒップ」のスタイルを忠実に、まさしくシンボリックに体現していたのである。
抑圧や不安をはねのけるために
さて、ジャズとドラッグの関係において最も本質的かつ深刻なのは、「プラクティカル」と「エモーション」の2要素である。「プラクティカル」とは、ドラッグに確かな薬効があるということで、例えば、アッパー系ドラッグであるコカインには気持ちを高揚させる作用があり、ダウナー系のヘロインには逆に気持ちを静める効果がある。ヘロイン経験者がしばしば「真綿で包まれたような感覚」と表現する効果である。スピードに強力な覚醒作用があることにはすでに触れたが、同じく食欲減退による痩身効果もあって、ジャズ・ボーカリストのダイナ・ワシントンの死は、肥満防止にスピードを常用していたことが原因であると言われている。マイルスがヘロインを使うようになったのは、まさしくこのプラクティカルな効果を求めたためだった。端的に言って、ヘロインを使えば確実に「憂さが晴れた」のである。
モカンボ・セッションに参加した唯一のアメリカ人であり、現場でのヘロイン使用によって駐留軍に連行され、そのまま強制帰国させられたピアニストのハンプトン・ホーズはこう語っている。
「抑圧や不安をはねのけるために、黒人はドラッグをやったんだよ。特にミュージシャンは、感情のおもむくままに演奏したかったら、くだらんことを全部忘れなくっちゃならないかならな」(『ドラッグinジャズ』第三書館)
このホーズの言葉には、もうひとつの要素である「エモーション」につながる見方も含まれている。ミュージシャンがエモーショナルな素晴らしい演奏をするためには、ドラッグが必要だったという見方が。しかし、それは果して真実なのだろうか。
音楽とドラッグにまつわる誤った三段論法
シャピロの見立てに従うならば、「ヘロインを打つと、バードみたいにすごい演奏ができる」というマイルスが言うところの「盲信」は、真実の陰画である。シャピロはそれを「誤った三段論法」だと言う。事実は「すごい演奏をするチャーリー・パーカーがたんにヘロイン中毒だった」ということに過ぎないのだと。
「われわれは悲しいことに、誤った三段論法から引き出される論理になじみすぎている。バードはジャズの天才だ。バードはヘロインなしでは生きていけない。ゆえに、ヘロインはジャズの天才になくてはならないものだという三段論法だ」(前掲書)
これは、音楽創造におけるドラッグ神話に対するかなり有効な批判となっている。ドラッグを使えばジャズの神が降りてくる? そうではない。チャーリー・パーカーはもともとビバップをほとんど単身で創造した神だったのだ。その神がたまたまジャンキーだっただけではないか──。
しかし、当時のニューヨークには誰もが「たまたまジャンキー」になる環境が整いすぎていた。チャーリー・パーカーが生涯愛好したドラッグはヘロインだったが、初めて体験したのはアンフェタミン、つまりスピードだった。その頃アメリカではアンフェタミンが「ベンゼドリン」という商品名で、四十近い症状に効く万能経口薬として販売されていた。それをコーヒーに溶かして飲んだのが彼の最初のドラッグ体験だった。
そこからヘロインに彼が移っていったのは、ヘロインが比較的安価で手に入るドラッグだったからだ。当時、0.1グラムのカプセルが1ドルから3ドル程度で入手できたという。安価で販売できるということは、供給網が整備されているということだ。ヘロインはとくに戦後になると、東南アジアやトルコから南仏マルセイユを経由してニューヨークに運ばれる、いわゆるフレンチ・コネクションのもとで安定的に供給されるようになった。アヘンをトルコなどでモルヒネに加工し、それをさらにマルセイユでヘロインに精製してアメリカに密輸するのである。実話をもとにしたジーン・ハックマン主演の名作『フレンチ・コネクション』では、その事情がつぶさに描かれている。
そうして、あるいは「抑圧や不安をはねのけるため」、あるいは「バードみたいにすごい演奏ができる」ようになるため、数多くのジャズ・ミュージシャンがヘロインの泥沼にはまり込んでいったのである。マイルスもその一人だった。
もし誰かが二秒で死なせてくれるなら
マイルスのヘロイン中毒は相当に重篤だったらしい。当初は吸引による使用だったが、「マイルス、吸うために金を使っていたら、きりがないぜ。いくらやっても、足りないんだろ。打てば、ずっと気分が良いぜ」という売人の勧めによって血管注射に切り替えてからの4年間は、まさしく地獄のような日々だった。彼はそれを「四年間に及ぶホラー・ショー」と表現している。
「クスリが生きる目的のすべてになって、仕事でさえも、それが手に入りやすいかどうかで決めていた」
ヘロインを買う金を稼ぐためにレコードからの楽譜おこしのアルバイトをする。ミュージシャンにとって命の次に大切な楽器を質屋に入れ、仕事があるたびにアート・ファーマーからトランペットを借りる。「クスリを抜くには運動だろう」とボクシング・ジムのドアを叩くも、「ヤク中なんかに、教えられない」と拒否される。性欲が減退しセックスができなくなる。演奏中に警察にステージから引きずり降ろされ、袖をまくり上げられ注射跡をチェックされる──。
「長くて暗くて冷たい、つるつるした道を、まっさかさまに滑り落ちていった」そんな彼に救いの手を差し伸べたのは父親だった。マイルスは幼少期を過ごした東セントルイスに戻って、父親が所有する農園にある客用の小さな家に閉じこもり、クスリ抜きを断行する。いわゆるコールド・ターキーである。
「ただ暗闇に横になって、めちゃくちゃに汗をかいていた。首も足も、身体中の節々がゴチゴチになって、本当に気分が悪かった。関節炎か、ひどいインフルエンザが、もっとひどくなったような感じだった。あの時の苦痛は、とても言葉じゃ言い表せない」
それは死よりも苦しいと思える体験だったとマイルスは言う。「もし誰かが二秒で死なせてくれると言えば、そっちを選んだだろう」と。
そうして、ある日、すべては終わった。
「終わった、本当に終わったんだ。良い気分だった。純粋な気分だった。おやじの家まで、清潔な甘い空気の中を歩いていって、親父も大きな笑みを浮かべて迎えてくれた。ただ、抱き合って、泣いた。ただ、そうしていた」
この後、彼はニューヨークに戻り、『ウォーキン』を録音する。彼が、私たちがよく知るマイルス・デイヴィスになっていくのはここからである。
多くのミュージシャンが、ヘロインこそが自分の音楽の力を増進させると信じている中にあって、マイルスはヘロインを自力で断つところから本当のキャリアをスタートさせた。このあとの長い音楽人生の中で、マイルスが常にクリーンであり続けたわけではない。しかし、少なくとも自分の音楽を地獄の業火にみすみす投じるような真似をすることは二度となかったのである。
※マイルスの言葉の引用はすべて『完本マイルス・デイビス自叙伝』マイルス・デイビス、クインシー・トループ著/中山康樹訳(宝島社)より
▶︎Vol.11:ドラッグを生きた男たちの証言─チャーリー・パーカーと石丸元章
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。