投稿日 : 2020.03.13 更新日 : 2021.06.28
「僕らとアシッド・ジャズの関係は…」英ジャズの新派をリードする怪腕バンド【エズラ・コレクティヴ|インタビュー】
取材・文/土佐有明 写真/平野 明
「南ロンドンの音楽シーンが面白い」──そんな噂は折に触れ筆者の耳に入ってきた。そして実際、キング・クルールやトム・ミッシュ、ロイル・カーナー、ジェイミー・アイザック、サンズ・オブ・ケメットなど、彼の地で活躍するミュージシャンの作品はいずれも刺激的に思えた。彼ら/彼女らは、ジャズ、ソウル、ヒップホップ、エレクトロニック・ミュージックといったジャンルを越境し、エクレクティックなサウンドを奏でている。
エズラ・コレクティヴはそうしたシーンの核を成すバンドのひとつ。サックス、トランペット、ベース、ドラム、キーボードという編成で、結成当初の音楽的コンセプトは「ジョン・コルトレーンやフェラ・クティ、ボブ・マーリーといった先人たちを模倣したゴチャ混ぜバンド」だったそう。確かに、2枚のEP、および昨年リリースされたファースト・フル・アルバム『You Can’t Steal My Joy』には、サン・ラやフェラ・クティのカバーも収録されており、雑多な食材が節操なく投げ込まれた鍋的な魅力を放っていた。
そんな彼らの東京公演は、新型コロナウイルスの影響により中止になったが、インタビューは行うことができた。話を訊いたのはベースのTJ・コレオソ。ドラマーのフェミ・コレオソの弟でもある。TJは胸襟を開いて様々な質問に丁寧に答えてくれた。
エズラはコンテスト用のバンドだった
──エズラ・コレクティヴ(以下:エズラ)のメンバーは、トゥモローズ・ウォリアーズ(注1/以下:ウォリアーズ)で知り合ったそうですね。この教育機関は無償でジャズを教えるNPOとして、南ロンドンでは重要な音楽的拠点になっていると聞いています。
注1:ベーシストのゲイリー・クロスビーらが1991年に設立した団体。ミュージシャンの育成や支援を目的としており、特に、女性やアフリカ系の人々に音楽教育の機会を増やすことを理念として掲げている。
そうだね。ユースクラブと言ってもいいと思う。若者がジャズを勉強したり演奏できる貴重な場所なんだよ。僕は14歳か15歳ぐらいの時に、(エズラのドラマーでもある)兄のフェミ・コレオソに連れられて行ったんだ。そこでエズラはジャズの大会に出演するために結成されて、結果的にその大会で優勝した。だったらその大会後もバンドを続けようっていうことで活動をしていて。2012年頃に本格的に自分たちで曲を作り始めたんだ。
──ウォリアーズで学んだことで大きかったのはどんなことですか?
自分はウォリアーズに参加する前に教会で音楽を演奏していたけど、そのときは自分のことをミュージシャンだと思っていなくて、楽譜の通りに演奏していた。だけど、ウォリアーズに参加して「ジャズとは何か?」「即興とは何か?」ということを学んで、それまで聴いたことのなかった音楽とたくさん出会った。
特にジャズはまったく知らなかったから新鮮だったよ。キング・オリヴァー、ルイ・アームストロング、カウント・ベイシー、そこからチャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、マイルス・デイビスって、どんどんのめりこんでいった。
──それまでは、どんな音楽を?
両親がナイジェリア出身だったこともあって、車に乗るときはフェラ・クティのアルバムがいつも流れていた。あと、カール・フランクリンのゴスペルやキング・サニー・アデのようなハイライフを母親が料理を作りながらかけてくれていたね。
10代になると家でかかっているものが物足りなくて、自分でいろいろ探しにいった。ロックからレゲエ、ファンク、グライム、ヒップホップ。いろいろなジャンルを聴くたびに、べースでそれを弾いてみて、別のジャンルに興味が行ったらまたそれを弾いてみたり。その蓄積が今の自分のプレイに繋がっていると思う。
エズラ・コレクティヴ/EZRA COLLECTIVE
2012年に英ロンドンで結成。アフロビートとジャズ、レゲエ、ヒップホップなどを混合したサウンドで人気を博し、イギリスで「Parliamentary Jazz Awards(議会ジャズ賞)」や「Jazz FM Award 」などの音楽賞を獲得。2019年2月にファーストアルバム『You Can’t Steal My Joy』を発表。メンバーのジョー・アーモン・ジョーンズはソロ活動も精力的で、イギリスの新世代ジャズ界を担うキーマンとして注目されている。バンドの現メンバーは写真左から、フェミ・コレオソ(ds)、ジョー・アーモン・ジョーンズ(key)、ジェームス・モリソン(sax)、TJ・コレオソ(b)、イフェ・オグンジョビ(tp)
──ウォリアーズでは、ジャズを教わっていた人が、のちに教える側にもまわる、という循環的な仕組みがあるそうですね。相互扶助といってもいいかもしれないですが。
集まった若者の中には、楽器がそこまで巧くない人もいるし、ものすごく巧い人もいる。重要なのはそういう人たちがお互いに何かを教えあうところ。楽器は巧くなくても、自分の知っている何かを他人に教えることはできる。そういう風習があって、演奏するにあたってプレッシャーがない。正しく弾かなきゃっていうストレスもなく、自由に音楽を愛することを楽しんだ。お互いをけなしあったり足を引っ張ることもなく、教えあうなかで共に成長していくという文化があったんだ。自分たちのバンドでもそのマインドを継承しようと思っている。
──結成した時に何らかの音楽的コンセプトはあったんですか?
初めはとにかく皆で集まって、いろんな人のカバーをやっていった。いま世の中の人は何を聴いているのか、あるいはメンバー同士がそれぞれ何を聴いているのかを知って、プレイリストを作った。それをみんなが持ち帰って聴いて、自分のパートを覚えてプレイする。それはもう、ありとあらゆるジャンルの曲をやったよ。
例えば、クリフォード・ブラウンの『スタディ・イン・ブラウン』について、フェミが「これはベースもキーボードもかっこいいからやろうぜ」って。ヒップホップだったら、ア・トライブ・コールド・クエストの『ロウ・エンド・セオリー』もやったね。自分があまり詳しくないジャンルでも、他のメンバーが覚えて身につけて、それに付き合っていって。個人の成長がバンドとしての成熟に繋がって、徐々に自分たちのサウンドが形成されていったんだ。
──ゲイリー・クロスビー(ウォリアーズの創設者)はジャマイカからの移民で、ジャズだけでなく、レゲエやスカを演奏していましたし、南ロンドンにはアフリカ系やカリブ系のコミュニティが多数ありますね。それがUKのジャズにアメリカのジャズと異なる特徴を与えているのでしょうか?
うん。正確には南ロンドンに限定されない。北ロンドンもそうだし、ロンドン全体がそうなんだ。ロンドンには世界中から移民がやってきているので、多国籍で多文化な土地だというのは間違いない。
僕が子供の頃の友達も、ガーナ人だったりジャマイカ出身だったり、トリニダード・トバコやナイジェリアから移民してきた人もいた。学校の半数は白人、半分は黒人。皆すごく仲のいい友達で、いろいろな音楽を聴いて育っていた。ジャマイカの文化に浸ってきた人と話すと、言葉もジャマイカのスラングがすごく多かったりするのが面白かったね。育った家庭環境がちょっとずつ異なっているんだよ。
DJとミュージシャンが支え合う環境
──UKのミュージシャンはグライム(注2)からの影響などもありますよね。
注2:2000年代の初頭にイギリスで生まれた音楽。ハウス系のクラブミュージックに、ヒップホップやレゲエ、ドラムンベースの要素を加味したエレクトリック・ミュージック。
そうそう。ロンドンはエレクトロニックな音楽も盛んで、ガラージやグライムのシーンもある。そういうものを聴いて吸収しているから、自分たちがジャズをやっても無意識にそういうものが入ってくると思う。アメリカの若いジャズ・ミュージシャンだったらヒップホップの要素がはいってくるのが、UKだったらグライムだったりする。その違いがあるんじゃないかな。
──かつてUKにはアシッド・ジャズというムーブメントがありましたが、自分たちの音楽がアシッド・ジャズと連続しているという意識はどの程度ありますか?
アシッド・ジャズは自分たちの年齢からすると昔のムーブメントだけど、やっていることは近いものがあると思う。自分たちやアシッド・ジャズを支えた人たちがやっていることは温故知新で、既存の音楽をこれまでと違う視点で捉え直すということだった。古いとされていた音楽に新たな解釈を施して、消化していったというかね。あと、アシッド・ジャズは「ジャズはこうあるべき」というのではなくて、自分たちがやりたいのはこれだよっていうことを示したと思う。
──アシッド・ジャズはDJ主導のムーブメントでしたが、今のロンドンのシーンはプレイヤー主導という風にも見えます。
確かにそうだね。ミュージシャン主導だと思う。だけど、さっき言ったようにその精神性やアプローチはすごく近いと思う。あと、DJとミュージシャンは手と手をとりあって、支えあっている。非常に仲がいいんだよ。ジャイルス・ピーターソンみたいな人がいて、自分たちの音楽をBBCラジオでかけてくれる。彼は自分たちの音楽に刺激を受けて曲をかけてくれて、一方で自分たちはDJが何をかけているのかに耳を傾けて、そこから刺激を受ける。
──ちなみに、結成してからフル・アルバムを出すまでに7年かかっていますが、これは何故でしょう?
貧乏だったからだよ(笑)。2012年に結成してから、とにかくひたらすらライブをこなしたんだけど、お金が全然足りなくてね。友達や家族にも頼み込んできてもらっていた。そうやって経験を重ねていくなかでライブ・バンドとして成長して、ライブをやることが自分たちの燃料になってきた。
ライブをやりながら曲も書いていたんだけど、お金がなかったからちゃんとしたスタジオでレコーディングすることができなかった。2015年にやっとお金が貯まってきたからアビー・ロード・スタジオに入ってEPを作ったんだけど、それも4時間だけ。しかも夜中だった。スタジオを使っていない間の4時間に一発録りしたんだ。2枚目のEPも1日で録音した。そこから少しお金ができたので、フル・アルバムを2日間スタジオに入ってレコーディングした。
──今回は東京公演が中止になって残念でしたが、次のライブやアルバムに関して構想はありますか?
昨年末から少しブレイクがあったもので、自分でも曲は書いていてアイディアがある。みんなと腰を据えて曲を作るのが楽しみだ。あと、いつも応援してくれていた日本のリスナーには感謝している。UK以外の場所で、自分たちの音楽に興味や関心を持ってくれた国だし、またすぐに来日したいと思っているよ。
取材・文/土佐有明