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「ロックンロール」という言葉は、かなり率直に性行為を表現したものであると言われている。「ロック」して「ロール」するというそのニュアンスを理解しない人はいないだろう。「ジャズ」もまた、その始まりは性に深く結びついていた。ジャズという音楽はどんな場所から育っていったのか。ニューオリンズと横浜における「ジャズとセックス」の歴史を紐解く。
セックスと深く結びついたジャズの語源
「Jazz」という言葉の由来には諸説あって定説はない。由来とされる語源の多くには性的な意味合いがあって、性行為の隠語である「jass」、精液や射精を意味する「jism」、尻の意の「ass」などがそれである。1970年代中期のマイルス・デイヴィス・バンドのギタリストであったピート・コージーは、ジャズという言葉はニューオリンズの娼館に発しているのだと、ドキュメント作品『ワイト島のマイルス1970』の中で話している。彼によれば、規定の時間をオーバーした客に娼館の女主人が「Jazz it up!」と怒鳴ったのが「ジャズ」の由来だという。日本語にすれば「さっさと終わらせな!」といった意味になるようだ。
メキシコ湾を望むアメリカ屈指の貿易港であったニューオリンズに、船員や乗客、港湾労働者などを客とする売春街が形成されたのは19世紀のことだった。林立していた売春宿を集めて新しい管理売春街区がつくられたのは1897年で、その政策を進めた市の助役、シドニー・ストーリーの名にちなんで、その街区は「ストーリーヴィル」と名づけられた。ジャズはそこで生まれたわけではないが、初期のジャズはこの売春街で育ち、この売春街の解体によってアメリカ全土に広がっていった。
1917年に米連邦政府がストーリーヴィルの閉鎖を強行したのは、第一次大戦下にあって、売春宿の上顧客だった陸海軍兵士の間に性病が蔓延することを恐れたためだった。その閉鎖直前のストーリーヴィルを描いた映画が、ルイ・アームストロングとビリー・ホリデイが出演している『ニューオリンズ』(1947年)、そしてヌーヴェルヴァーグの代表的映像作家の一人であるルイ・マルが監督した『プリティ・ベイビー』(1978年)である。
少女売春を寿ぐ音楽
『ニューオリンズ』を観ると、当時のジャズがどういう音楽であったかがよくわかる。ストーリーヴィルの一般的な娼館は、一階がバー、賭博場、ダンスホール、待合スペースなどになっていた。広いダンスホールがある場合はジャズのビッグ・バンドが演奏し、客は好みの女性を見つけてダンスに興じたのち、価格交渉をして二階の個室に上がるのである。
『ニューオリンズ』では、本人役で出演しているルイ・アームストロングがビッグ・バンドを率いてダンスホールで演奏し、さらに、店の名を大書したトラックの荷台で演奏しながら街を練り歩いて客引きをしている。つまり、ジャズとは売春のBGMであり、わが国におけるチンドンと同じ役割をもった宣伝音楽だったということだ。ミュージシャンはすべて黒人で、彼らにとって娼館は格好の稼ぎ場であった。
ブルック・シールズが12歳の売春婦、ヴァイオレットを演じて話題を集めた『プリティ・ベイビー』の舞台となっている娼館では、専属バンドではなく、黒人ピアニストがアップライトのピアノでラグタイムを奏でている。高級娼館らしく、ピアノの調律を念入りに行うシーンが印象的だ。
映画『プリティ・ベイビー』のタイトルは、ストーリーヴィルの娼館の雇われピアニストだったジェリー・ロール・モートン(1890─1941)の曲のタイトルからとられていて、映画自体もモートンに捧げられている。劇中に登場するピアニストのモデルはモートンだ。ちなみに「ジェリー・ロール」という愛称は、語感からわかるように、女性性器もしくは性行為の隠語である。
娼館の中では客との間に生まれた子どもが何人も一緒に生活していて、ヴァイオレットもその一人である。ある日、彼女の「処女のオークション」が行われ、中年の白人男が400ドルでそれを落札する。落札が決まった瞬間に、その日だけ特別に呼ばれていたジャズ・バンドが演奏を始め、彼女の「船出」を高らかに祝福する。少女売春を寿ぐ音楽。そんなところからジャズは出発したのである。
いずれの映画でも、ストーリーヴィルの解体後にミュージシャンたちは当時「マネー・タウン」と呼ばれていたシカゴに向かう。まもなく米全土に禁酒法が施行されることになり、彼らはギャングが経営するもぐり酒場を主な仕事場にすることになるだろう。売春街という闇社会から、もう一つの闇社会へ。世のダークサイドを渡り歩く中で広まっていったのがジャズという音楽なのだった。
横浜独自の娼館「チャブ屋」
横浜がニューオリンズに通じるのは、第一に国内有数の貿易港であったという点である。内外の人々が往来する港において性が商業化するのは普遍的法則で、横浜でそれは「チャブ屋」という独特の形態をとった。
横浜が開港したのは、幕末の1858年に締結された日米修好通商条約に基づくもので、この条約を別に「安政五ヶ国条約」と呼ぶのは、米国以外に、英、仏、露、蘭の計5か国との通商条約も同時期に結ばれたからである。5か国の外国人が居留するようになった横浜で、幕府は外国人の行動を制限することを実質的な目的として、総延長9キロの外国人専用の遊歩道をつくり、沿道の民家13軒を外国人相手の休憩所に指定した。これがチャブ屋の発祥である。
休憩所はほどなくして飲食店となり、日本人女性が接待する酒場となった。そのサービスが売春に発展し、休憩所が私娼宿となるのにもそう時間はかからなかった。風営法などの規制がある時代ではない。より儲かる商売を求めた結果が娼館化であった。もっとも、売買春に特化した場所であった遊郭とは異なり、チャブ屋はカフェ、バー、食堂、ダンスホールといった複数の業態を融合させたような店で、女性との会話やダンスだけを楽しむ客も少なくなかったようだ。
チャブ屋の語源にもいくつかあって、最も有力とされているのが「Chop House」が転訛したという説である。Chopとは動物の肉片のことで、Chop Houseとなると小規模な食堂といった意味になる。ほかにも「卓袱(ちゃぶ)台」、あるいはアメリカで広まった広東料理「チャプスイ」を語源とするとの説もある。
本牧、北方町から始まったチャブ屋は、やがて、石川町、元町、寿町、扇町などにも広がっていった。大正期に入り、警察当局の方針によって集約化が行われ、チャブ屋街区が形成された点はニューオリンズと共通する。新たなチャブ屋街となったのは小港と大丸谷で、それぞれ26軒、16軒のチャブ屋が並び、小港では200人ほど、大丸谷では100人ほどの女性が働いていたという。大丸谷という地名はすでに消失しているが、石川町に現存する「大丸谷坂」という坂にその名をとどめている。最盛期で40軒以上を数えたチャブ屋。その店で交わる女たちと男たちの背後で流れていた音楽も、またジャズであった。
現在の大丸谷坂。チャブ屋が並んでいた往時の面影はまったくない(グーグルマップストリートビューより)。
チャブ屋に連泊してジャズ浸りに
谷崎潤一郎が小田原から本牧の海岸に居を移したのは1921年のことで、2軒を隔てた隣には、当時最もよく知られていたチャブ屋「キヨ・ハウス」があった。「横浜の港へ出入りする外国の船員であったら、知らない者は恐らくなかったであろう」と谷崎は書く。
「私の二階の書斎からは、恰もその家のダンス・ホールが真向かいに見え、夜が更けるまで踊り狂う乱舞の人影につれて、夥しい足踏みの音や、きゃッきゃッと云う女たちの叫びや、ピアノの響きが毎晩のように聞こえるのだった。ピアノは潮風に曝されて錆びているのか、餘韻のない、半ば壊れたような騒々しい音を立てて、いつでも多分同じ客が弾くのであろう、フォックス・トロットのホイスパリングを鳴らしていることが多かった」(「港の人々」)
「フォックス・トロット」とは、当時アメリカで流行していた社交ダンス、もしくはそのための音楽の名称で、音楽のスタイルとしてはラグタイムに近い。「ホイスパリング」とは、これも当時アメリカで人気だったポール・ホワイトマンの「Whispering」という曲のことである。ホワイトマンは、ジョージ・ガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」を初演したことで知られるビッグ・バンド・リーダーで、クラシックの編成でジャズを演奏するいわゆるシンフォニック・ジャズのオリジネーターの一人である。グラミー・ノミネーターである挾間美帆が今日取り組んでいる音楽スタイルの元祖と言えばわかりやすいだろうか。
ポール・ホワイトマン(1890─1967)の「ウィスパリング」。発表は1920年で、谷崎が本牧で聴いた頃は新曲だったことになる。ホワイトマンは、この曲と「ラプソディ・イン・ブルー」「オール・マン・リヴァー」の録音が評価され、死後にグラミーの殿堂入りを果たしている。
その「Whispering」をチャブ屋の錆びたピアノで客が弾いているのを、谷崎は耳にしたというのである。大規模なチャブ屋ではジャズ・バンドに演奏させたこともあったようだが、多くの場合は、一階にピアノが一台あるほかは、蓄音機でジャズのSPレコードを流していた。40代の後半になってジャズ評論を始めた評論家の植草甚一が、若き日にジャズに本格的に触れたのはチャブ屋だったという。昭和10年代にチャブ屋に10連泊してジャズ浸りになったという武勇伝が伝わる。その頃、チャブ屋は外国人だけでなく、日本人の客の出入りも可能になっていた。しかし、当時のチャブ屋の泊り料金は20円である。公務員の初任給が75円だった時代に、若かった彼が200円もの大金を果たして払うことができたか。武勇伝は眉に唾をつけて聞くにしても、チャブ屋がジャズが流れ続ける場所であったことは事実だった。ひと夜の快楽を求めてドアを叩いた結果、ジャズという未知の音楽に初めて触れた。そんな日本人も少なくなかったのではないだろうか。
ジャズは本当にセックスから脱却したのか
第二次大戦期に入ってチャブ屋は営業停止を余儀なくされ、さらに1945年5月の横浜大空襲によってその多くは焼失した。戦後、チャブ屋街は進駐軍兵士用の慰安施設街となり、占領が終了したのちもホテル街としての命脈を保ったが、1957年4月の売春防止法の施行をもってその最後の灯は消えた。ジャズは、米軍兵士向けのダンスホールで演奏されることで戦前以上の活況を呈し、54年のモカンボ・セッションを経てビバップという新しい音楽スタイルへと移行していった。日本においてジャズがアンダーグラウンド・シーンから本格的に脱するのは60年代のファンキー・ジャズ・ブームを待たなければならないが、それ以前に「セックスのBGM」としての音楽からの脱却があったことは記憶しておくべきだろう。
しかし、ジャズは本当にセックスから脱却したのだろうか。ジャンルの勃興期においてセックスと深く結びついていたジャズが、セックスとの関係を断ち切ることは可能なのだろうか。あえてセックスと言わなくてもいい。エロス、官能、恍惚──。そういった要素と無縁のジャズはありうるのか。ジャズとエロスの関係とは、現在の私たちが考えるよりももっと根源的なものではないのか。
ジャズという音楽とセックスの内在的な結びつき。その探求をさらに進めていきたいと思う。
〈参考文献〉 『ジャズの歴史』相倉久人(新潮新書) 『横浜「チャブ屋」物語』重森昭夫編著(センチュリー) 『潤一郎ラビリンスⅩV 横浜ストーリー』谷崎潤一郎(中公文庫)
▶︎Vol.13:秘められた「フランス的なもの」──菊地成孔が語るジャズのエロスの起源
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。