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【特集】ローファイ・ヒップホップの正体lofihiphopNujabesShing02ジャジー・ヒップホップヌジャベスフリーソウルローファイ・ヒップホップ橋本徹竹内方和
投稿日 : 2020.05.08 更新日 : 2021.12.09
取材・文/大前 至 撮影/森屋洋祐(Nujabesの写真)
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1990年代後半、日本のヒップホップシーンに突如登場し、「ジャジー・ヒップホップ」のブームを生み出した伝説的なプロデューサー、Nujabes(ヌジャベス)。2010年2月26日に36歳という若さで亡くなった彼の音楽は、2010年代半ばより世界的なムーブメントとなった「ローファイ・ヒップホップ(Lo-Fi Hip Hop)」のルーツと言われており、世代や国籍を超えた幅広い層の音楽ファンに今も愛され続けている。
振り返ると、初期の Nujabes は12インチのレコードだけがショップに並び、国籍さえもよくわからない存在だった。その後、CDが飛ぶように売れることとなるが、生涯を通じて雑誌などのインタビューは僅かしか残っておらず、未だベールに包まれた存在である。
そこで今回は、生前のNujabesと近しい関係にあった方々に話を伺い、彼の人物像や音楽の原点、制作の過程などを追ってみることにした。また第2部では、新しい世代のアーティストの声も交えながら、Nujabesがいかに「ローファイ・ヒップホップ」へ影響を与えたかについても考察していきたいと思う。
まずはNujabesが学生の頃からの知り合いであったという選曲家/DJ、編集者でもある橋本徹(SUBURBIA)氏に話を訊いた。
「最初に知り合ったのは1994年頃、僕が渋谷の『DJ Bar Inkstick(DJバー・インクスティック)』(注1)で毎月やっていた『Free Soul Underground(フリーソウル・アンダーグラウンド)』(注2)に、彼がよく遊びに来ていたんです。最初の印象は ”話は不器用ながらも熱心な音楽好き” という感じで、DJ中に『この曲なんですか?』ってしょっちゅう聞きに来るようなファンのひとり。95年の終わりに『SUBURBIA SUITE(サバービア・スイート)』の新しい号を作ろうというときに、彼がライターとして参加したいと言ってきて。最後にまとめてクレジットを載せるんですけど、そこに本名の “Jun Yamada”(山田淳)でクレジットしたら、『これからは “瀬葉淳”という名前でやっていくんで』と校正を入れてきたんですよ。それが “瀬葉”と名乗るようになった最初期だったと思います」(橋本徹)
注1:渋谷公園通りにあったDJバー/クラブ。90年代カルチャーのトレンド発信基地でもあった。
注2:橋本徹氏が主催していたクラブイベント。70年代ソウル周辺のグルーヴィーな楽曲やメロウな楽曲がプレイされ、同イベントから派生したコンピレーションCD『Free Soul』シリーズは大ヒットした。
この “Seba Jun”のスペルを逆にして、“Nujabes”というアーティスト名が誕生したのはよく知られた話だろう。橋本氏と出会った頃、まだデザインを学ぶ学生であった彼は、志願して橋本氏のアーティスト写真の撮影をしたりもしたが、卒業と前後して、当時世界一のレコードショップ密集地であった渋谷・宇田川町に、自らオーナーを務めるレコード店『GUINNESS RECORDS(ギネス・レコード)』(注3)をオープンする。さらに1998年頃には本格的にトラック制作をスタートし、プロデューサー=Nubabesとしての活動を開始した。
注3:1995年に『ボンゴ・フューリー・レコード』としてオープン。その1〜2年後に『ギネス・レコード』と店名変更した。
「『Free Soul Underground』でプレイしていたなかで、彼がとくに反応していた曲に、のちにファンキーDLの〈Don’t Even Try It〉でサンプルする、フレンズ・オブ・ディスティンクション〈When A Little Love Began To Die〉や、自身の〈The Final View〉になるユセフ・ラティーフの〈Love Theme From Spartacus〉などがあります。この2曲からも分かるように、彼の中ではメロウなソウルミュージックとスピリチュアルなジャズというのが、大きなふたつの柱としてあったんだと思います」(橋本徹)
「さらに’90年代から渋谷で過ごしてきた人間として当然のようにヒップホップにも感化された。それらが合わさったことで制作が始まったんだと思います。一方で、ギネス・レコードやその後にオープンしたトライブが、彼にとってのサロンとしても機能していた。レコードを買いに来ていたお客さんや働いているスタッフも含めて、同世代のトラックメーカーたちが集まる場になっていたんでしょう。さらにインターネットの普及に伴って、気になった海外のラッパーやトラックメーカーには直接連絡を取るようになっていったんです」(橋本徹)
1999年には自らのレーベル、『Hydeout Productions』(注:当時の表記はHyde Out Productions)から12インチシングルのリリースを開始するわけだが、初期のHydeoutはあえて日本のレーベルであることを伏せていたので、Nujabesを海外のプロデューサーだと誤解するヒップホップファンも続出した。
「それが彼の戦略でもあったんだと思います。ある種、ミステリアスな存在として日本でも海外でも受け入れられていきましたし、実際その戦略はとても有効だった。アルバムを出すようになった以降も、雑誌とかの取材をほとんど受けなかったり。常に音だけで勝負して、最大の理解者はリスナーという意識はすごく強かったと思います」(橋本徹)
自らプロデュースする12インチシングルをHydeoutからハイペースにリリースし続けるなか、ひとつのヒット曲が生まれる。それが、すでにアンダーグラウンド・シーンで活躍していたラッパーのShing02をフィーチャーし、2001年にリリースした〈Luv(sic)〉であった。Shing02がNujabesとの出会いを振り返る。
「バークレーの北の街、エル・セリートに住んでいるときに、eメールで『12インチを一緒に作ろう』というオファーがあって。けど、最初はどこの国の人かもわからないし、変わった名前の人だなって。日本へ帰ったタイミングで初めて会ったときに、彼がビートテープを聴かせてくれて。僕も自分の曲を聴かせたんだけど、全然反応してくれない(笑)。ちょっとマイペースな人だなっていうのが第一印象でしたね」(Shing02)
このテープに入っていたビートのひとつから〈Luv(sic)〉が誕生するまでには、ちょっとした紆余曲折があるのだが、その話はまたの機会に。「音楽の女神に宛てて書いた手紙」というコンセプトの〈Luv(sic)〉はその後、ふたりの代名詞とも言える存在となりシリーズ化していく。しかし、Nujabesの初期の音楽制作現場は試行錯誤の連続であったという。
「正直な話、僕も彼も宅録に関しては手探りでやっている部分があって。〈Luv(sic)〉も最初のパート1~3あたりは編集もほとんどしていない。今であれば、録音した後に細かく波形を見てズレを修正したりするけど、当初はボーカルをHDレコーダーで録っていたので、細かく編集するすべもなくて。彼のトラックもヒップホップの王道な感じで、音階もまったく気にしないようなサンプルを使っていたり。お互いに結構、ラフにやっていました」(Shing02)
Nujabesが手がける初期のサウンドの特徴といえば、〈Luv(sic)〉にも代表されるような、メロディアスな上ネタを大胆にループさせたトラックで、当時のUSヒップホップシーンを代表するプロデューサーであったDJプレミアのように、サンプリングソースをチョップする(=細かく切り刻む)ようなトラックの作り方とは対照的であった。
「『最高の2小節を見つけたい』というのが彼の口癖で。ビートへのこだわりのなかでも、とくにループ感を重視していました。それが彼のヒップホップ観でもあった。結局はそれが『ジャジー・ヒップホップ』と呼ばれるようになるわけだけれど、本人としてはそういうレッテル貼りをされるのは抵抗があったろうし、内心は『単純にヒップホップ(という呼び名)で良いんじゃない?』と思っていたと思います」(橋本徹)
Hydeoutからのシングルリリースを経て、その後、Nujabesは『Metaphorical Music』と『Modal Soul』という2枚のアルバムを生前にリリースする。これらの作品にA&Rとして関わった竹内方和氏は、当時の制作過程をこう語る。
「1998〜99年頃に、僕が働いていた渋谷のクラブ『HARLEM』の2階でNujabesがDJイベントをやっていて。イベントへ行くたびに、彼からデモテープをもらいながら、『アルバムを出したい』という話を聞いていました。けれど、当時はみんなビートにこだわっていた時代。メロディはずば抜けたものがありましたが、ビートはちょっとまだ弱いなと感じていて……。でもあるとき、知り合いの結婚式へ一緒に車で行くことになって、その道中に聴かせてもらったビートがすごく良くなっていたんです。そこから『じゃあ、アルバムを出しましょうか』という話になりました」(竹内方和)
その後、HARLEMから派生したレーベル『Dimid Recordings』から、Nujabesのファーストアルバムをリリースすることが決定。A&Rであった竹内氏は、渋谷公園通りのマンションの一室にあったNujabesのプライベートスタジオ、『Park Avenue Studio』でのレコーディングにも立ち会っていた。
「ラッパーのPase Rock(Five Deez)とSubstantialが参加した、〈Blessing It〉という曲のレコーディングがすごく印象深くて。当時はすでに海外のラッパーとコラボする際は、データとかDATのやり取りで行なうのが主流でしたけど、Nujabesは身銭を削って彼らを日本に呼んで、自分のスタジオでレコーディングをしていました。レコーディング中もずっと横にいながら、『ここの韻の踏み方が甘い』とか『このフロウはこうして欲しい』とか、彼は英語が堪能ではないのに、アメリカ人を相手にラップのディレクションをしているんです。それを通訳無しでやるのは本当に凄かったですし、最終的には彼らを言い負かしてしまう。妥協は一切しない。彼は単なるトラックメーカーではなくて、本当の意味でのプロデューサーでしたね」(竹内方和)
彼の一切妥協しない姿勢は、アルバム制作のパートナーである竹内氏に対しても同様だった。アルバム用のデモが完成するたびに、ふたりはお台場をドライブしながら曲を聴くという作業がルーティンとなった。そのときは、まるで尋問のように曲の感想を聞いてきたという。
「僕が『この曲は○○ですね』と言うと、『その理由をもっと具体的に言ってください』と、めちゃくちゃ突っ込んでくるんですよ。『アーティストなんだから、自分が好きなようにやれば』と言っても、『僕はギネスのオーナーとしてヒップホップの新譜や昔のジャズ、ソウルはたくさん聴いている。でも、今のマーケットでウケている音楽は竹内さんのほうが知ってるから、ふたりの耳で100%OKという曲しかアルバムに入れたくない』といつも言っていて。僕にとっては、その作業がすごくストレスになったし、本当にトラウマでしたね(苦笑)。そんな風に、自分が良いと思ったものでも、ノリとかヴァイブスで進めるタイプではなくて、とことん詰めていく人でした。いろんなアーティストを見てきたなかで、特にヒップホップシーンでは、あそこまで自分を苦しめて曲を作る人はいなかった気がします」(竹内方和)
孤高のアーティストというイメージの強いNujabesだが、それほどまでA&Rの意見を信じ、判断を委ねていたという事実に驚く。それは普段、レコードショップおよびレーベルのオーナーという立場にいた彼にとって、竹内氏こそがストレートに意見を言ってくれる、数少ない信頼のおける人物であったからとも言えるだろう。また、竹内氏はアーティストとしてだけでなく、ビジネスマンとしてのNujabesも高く評価する。
「彼はものごとを俯瞰して見れる人で。アルバムを自身のHydeoutからではなくDimidからリリースしたのも、『アーティストとレコード会社を同時に自分でやるのは、絶対に上手くいかない』という考えだったから。また、当時のヒップホップシーンは、普段ヒップホップを聴かない人たちに働きかけるような動きがまだ少なくて、そこも変えようとしていました。クラブで聴くだけではなくて、家でBGMとしても聴けるような、首を振らないヒップホップがあっても良いんじゃないかって。だから、アルバムの営業に関しても『レコードショップへのプロモーションだけではなく、カフェとか美容院とかにもフライヤーやサンプルを持って回って欲しい』と言われて。当時は半信半疑でしたけど、実際に持っていくと、みんな即反応してくれた。それでも正直、シーンにハマるのかな? とも思っていて。だけど、本人は『絶対に売れる』と言い切っていました」(竹内方和)
「BGMになるヒップホップ」という、当時としては非常に斬新な発想には恐れ入るが、彼の目論見どおりに2003年8月にリリースされた1stアルバム『Metaphorical Music』は大ヒットし、Nujbabesの名前は音楽シーンに広く浸透することになる。
「発売したらビックリするくらい売れて。タワーレコードとかHMVからの追加オーダーが間に合わなくて、売り場の担当者から怒られたくらいです。あと、女性ファンからの反応も大きかった。当時、ヒップホップでああいう反響があったのは初めてでした。それからは毎日毎日大きな仕事が舞い込んでくるような状況になって、Nujabes自身もどんどんと変わっていくんですよね。2枚目のアルバム『Modal Soul』のときもまた、ふたりで車の中でデモを聴いてというやり方で進めていくのですが、相当揉めたし、ぶつかりました。僕はDimidから独立して、Libyus Musicを自分で立ち上げて。レーベルのオーナーとして守らないといけないものが出来てしまったというのもありましたし」(竹内方和)
ビジネスとして急激に大きくなり、アーティストとしても、大ヒットとなった前作を超えるものをつくらないといけないというプレッシャーが、Nujabes自身を襲ったことは容易に想像出来る。そして、音楽的な面に関しても『Metaphorical Music』から『Modal Soul』へは大きな変化が起きている。すでに『Metaphorical Music』にも参加していたミュージシャン/プロデューサーの Uyama Hiroto(宇山寛人)らの影響によって、生演奏の比重が徐々に増えていったのだ。
「『Modal Soul』はサンプリングから生演奏に変わる過渡期的なアルバムでした。その頃からNujabesも『サンプリングだけで作品をつくっていたら、近い将来、確実に著作権的な問題で大変なことになる』というのは言っていて。それもあって、サンプリングではなく、生演奏でメロディを表現するようになっていった。本人もピアノやフルートを練習していましたし、ミュージシャンにも自分から積極的に働きかけて、『自分のオーケストラを作る』とも言っていました」(竹内方和)
「宇山くんは天才的なミュージシャンで、生も弾けるし、当然のことながら音階も上手く綺麗にまとめることが出来る。レコードからのサンプリングに頼らなくても曲を作れる才能がすぐ横にいるわけだから、宇山くんが加わったことでNujabesのサウンドは180度変わりましたね」(Shing02)
『Modal Soul』には生演奏という要素に加えて、もうひとつ、ハウスなど四つ打ちのビートが導入されたことも変化の要因となった。
「Libyus Musicに所属していた Force of Natureのメンバーである KZAのことを、Nujubesは同じレコードコレクターとしてすごくリスペクトしていたんです。もちろん、Force of Natureについても気にしていて。当時、彼らは四つ打ちの全盛期だったので、その影響もあったと思います。また、『Metaphorical Music』のヒットによってパフォーマンスをする機会も増えて。いろいろなところでDJをやるなかで、四つ打ち曲のパワーを実感して、自分でもフロアのボムになるようなトラックを作りたいというところから始まったんじゃないかと」(竹内方和)
2005年11月にリリースされた2ndアルバム『Modal Soul』は、前作からのサウンド面の変化がありながら、結果的にはさらなる大ヒットを記録することになる。
「『Metaphorical Music』と比べたら、アルバムとして少し難しくなったように感じましたし、メロディの力という意味では前作のほうが強かった気がします。けれど、その頃には世の中が『Nujabesなら何を出してもOK』な状態になっていましたし、難しくなっているぐらいのほうが、みんな『進化している』ととらえたんだと思います。あと、当時 Nujabesは、『ヒップホップを本当の音楽に変えたい』という意識も強くて、音楽的な複雑さみたいなものを求めていました。もともとは、コードも分からない、単にレコードが大好きな人たちがつくって表現したのがヒップホップ。そのヒップホップという音楽を、『ジャズやソウル、ロック、ポップスと同レベルにしたい』みたいなことはよく言っていました」(竹内方和)
「ヒップホップを他の音楽と同レベルに」という彼の思いは、2005年の時点では突拍子のないものであったのかもしれない。しかし、いま現在の音楽シーンにおいては、それがすでに自明の理となっている。その動きと呼応するように、Nujabesの音楽は日本だけでなく世界中へと広がっていく。しかし、当時はまだ海外と日本では異なる反応であったという。
「Nujabesの12インチシングルはアメリカでもすごく売れて。アメリカやヨーロッパから、『アルバムをライセンスで出したい』といったオファーがたくさんメールで届いていました。その他、『Nujabesとコラボをしたい』という話や、『トラックを作って欲しい』という話も海外のレコード会社やレーベルから結構ありました。しかし、本人はほとんど断っていましたね。ちなみに Nujabesが日本人だと知らない人もたくさんいて、例えばアメリカ人から『会いに行きたいんだけど、(アメリカの)どの街に住んでいるんだ?』と聞かれることもありました」(竹内方和)
その後、長きに渡り制作を続けていた3rdアルバムの完成を見ないまま、2010年2月26日に他界したNujabes。ゆえに、リリースされたアルバムは『Modal Soul』(2005年)が最後となってしまった。しかし、彼が残した音楽は、日本のアニメ『サムライチャンプルー』と共に海を越え、次世代カルチャーへの種を蒔くこととなる。
第2部では、彼のサウンドが時を経て再評価されていくまでの流れを追いかけていきたい。
取材・文/大前 至 編集/富山英三郎
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