ベン・E・キングや、レイ・チャールズ、ロバータ・フラックら数多くのミュージシャンの作品に参加。同じくジャズ・ギタリストで歌手の息子ジョン・ピザレリと共演することも多く、ポール・マッカートニーがスタンダード曲を集めたアルバム『キス・オン・ザ・ボトム(Kisses On The Bottom)』では親子でギターを弾いた。
労働者の生活や兵役時代の経験などを歌った作品は、ジョニー・キャッシュやボブ・ディランなどに賞賛され、米国のルーツ・ミュージックを示す「アメリカーナ」の代表的アーティストとして活躍。代表曲「エンジェル・フロム・モンゴメリー(Angel From Montgomery)」は、ボニー・レイットなど多くのミュージシャンがカバー。2018年に13年ぶりとなるアルバム『The Tree of Forgiveness』を発表し、今年のグラミー賞では生涯功労賞を贈られた。
1927年、シカゴ生まれ。11歳の時に、ベニー・グッドマンに夢中となり、両親にクラリネットを買ってもらい、その後サックスを手にした。40年代にピアニストで作曲家のレニー・トリスターノの下で数年間演奏法を学び、ニューヨークに移住。マイルス・デイビスと出会い、名盤『クールの誕生(Birth Of Cool)』となった9重奏団にジェリー・マリガンらと参加した。
1938年、フィラデルフィア生まれ。13歳でピアノを始め、数年後にプロデビューし、ベニー・ゴルゾン、アート・ファーマーのグループに参加。ジョン・コルトレーンのグループに参加し、歴史的名盤として挙げられることが多いアルバム『マイ・フェイバリット・シングス(My Favorite Things)』『至上の愛(A Love Supreme)』『バラード(Ballads)』『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード(Live! At the Village Vanguard)』などで演奏。アート・ブレイキーやジョー・ヘンダーソン、ウェイン・ショーターらとも共演したほか、「ザ・リアル・マッコイ(The Real McCoy)」などのリーダー・アルバムも手がけた。
ビル・ウィザース
Bill Withers/米シンガー・ソングライター
米メディアによると、3月30日、心疾患の合併症のため米ロサンゼルスで死去、81歳だった。
1938年、ウエストバージニア州生まれ。高校卒業後に海軍入隊。その後、カリフォルニア州で牛乳工場、飛行機の部品工場で勤務。「ブラック・ゴッドファーザー」と呼ばれる有力者クラレンス・アヴァントのサセックス・レコーズからレコード・デビュー。「消えゆく太陽 (Ain’t No Sunshine)」「ユーズ・ミー(Use Me)」などのヒットを出した。75年にサセックス・レコーズの破産で、コロンビア・レコーズに移籍。
「ラブリー・デイ(Lovely Day)」「ジャスト・ザ・トゥー・オブ・アス(Just the Two Of Us)」がヒットしたが、85年のアルバム『ウォッチング・ユー、ウォッチング・ミー(Watching You Watching Me)』を最後に音楽活動を休止。新型コロナの感染拡大で、代表曲「リーン・オン・ミー(Lean on Me)」が、各国で希望や団結を示すアンセムとなり、再び注目が集まる中で突然の訃報だった。
ジミー・メリット
Jymie Merritt/米ジャズ・ベーシスト
米メデイアによると、4月10日、肝臓がんのため死去、93歳だった。
1926年、フィラデルフィア生まれ。BBキングのツアーに参加するなど音楽活動後、ニューヨークでアートブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズに加入。名盤『モーニン(Moanin’)』『チュニジアの夜(A Night In Tunisia)』などを発表、バンドの黄金時代を支えた。ジョン・コルトレーン、ソニー・ロリンズ、チェット・ベイカー、ディジー・ガレスピー、マックス・ローチなどと共演。
72年にリー・モーガンが殺害された際には、その場に居合わせた。事件を描いたドキュメンタリー映画「私が殺したリー・モーガン(I Called Him Mogan)」(Netflixで視聴可能)にも出演し、当時の様子を証言している。
AP 通信などによると、5月9日、骨髄腫のため米テネシー州で死去、87歳だった。亡くなった場所は公表されていない。
1932年、ジョージア州生まれ。10代から音楽活動を始め、50年代に「トゥッティ・フルッティ(Tutti Frutti)」「のっぽのサリー(Long Tall Sally)「リップ・イット・アップ(Rip It Up)」「ルシール(Lucille)」「グッド・ゴーリー・ミス・モーリー(Good Golly MIss Molly)」などが立て続けにヒット。チャック・ベリーやファッツ・ドミノらと共に、ロックンロール音楽を確立、ビートルズのポール・マッカートニーやジョン・レノン、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、エルトン・ジョン、プリンスなど後続のミュージシャンらに多大な影響を与えた。
1929年、首都ワシントン生まれ。学生時代にドラムを始め、50年代後半にマイルス・デイビスのバンドに参加、アルバム『ポーギー&ベス(Porgy And Bess)』『スケッチ・オブ・スペイン(Sketches Of Spain)』『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(Someday My Prince Will Come)』などで演奏。なかでも59年発表の『カインド・オブ・ブルー(Kind Of Blue)』は「歴代最も売れたジャズ・アルバム」として知られる。当時レコーディングに参加したデイビスや、キャノンボール・アダレイ、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンス、ウィンストン・ケリーはいずれも亡くなっており、参加ミュージシャンの「唯一の生き残り」だった。80代後半まで演奏活動を続けていたほか、若手の指導・育成にも尽力した。