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【シティポップの最重要人物】山下達郎を知るための 7つのエピソード

いまや日本のみならず欧米でも人気の「シティポップ」だが、その代表格として知られるのが山下達郎(1953〜)だ。一般的にシティポップに属されるアーティストは「再評価」的な扱いをうける人が多いが、彼は現在まで常に一線級のヒットメーカーとして君臨し、チケットの取れない人気アーティストとして活躍し続けている。ここでは、時代を超えて愛され続ける音楽家・山下達郎の軌跡を足早に追っていく。

音楽と趣味に没頭した学生時代

山下達郎は、小学校の合奏クラブや中学のブラスバンド部で打楽器を担当したことから、音楽の道へ。中学時代には、当時の日本列島を震撼させたエレキブームの影響もありギターを独学で習得。アマチュアバンドを組むなど音楽にのめり込んでいったという。同時に、バンド活動のみならず、洋楽を中心とした熱心な音楽リスナーとなる。

その傾向は高校時代に加速。東大安田講堂事件(1969年)など、学生運動が盛んな混乱期だったこともあり、学校には行かず、音楽やアルバイト、学生サークル、ジャズ喫茶、名画座(映画館)など、「遊び」や「趣味」に一所懸命だったという。そのためドロップアウトのような状態になるが、どうにか高校を卒業し、一浪して大学に入学(3か月で中退)。

その後、中学時代から続くバンド仲間たちとアルバム『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』(1972年)を自主制作。ザ・ビーチ・ボーイズなどをカバーした同作は、のちに盟友となる大瀧詠一が耳にすることになり、人生のターニングポイントとなった。

自主制作盤『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』(1972年)。リリース当時の山下は19歳。本作をきっかけに、のちの「シュガーベイブ」につながる人脈も形成された。

大貫妙子らとシュガーベイブ結成

翌年1973年には、アルバム『SUNSHOWER』(1977年)などで知られるシンガーの大貫妙子らと共に、「シュガーベイブ」というバンドを結成。彼らが奏でるサウンドは、シティポップの原点ともいる、軽快なメロディーと美しいハーモニー、コーラスワークを特徴としていた。

「あの頃、山下(達郎)君は起きてから寝るまで、ずっと音楽の話をしてました。誰かが新しいレコードを買って来たら、みんなで聴いて、いいね! かっこいい! って毎日話してた。とくにシュガーベイブを始める前くらいから『SUNSHOWER』の頃までは音楽漬け。お金がないって、こういうことなんだ…っていうくらいお金はなかったけど(笑)、毎日ワクワクしてた」

大貫妙子インタビューより抜粋

そんな感性と響き合ったのが、細野晴臣、松本隆らと共に「日本語ロック」という新たな地平を切り拓いた「はっぴいえんど」のメンバーであり、古今東西の音楽に精通した大瀧詠一。音楽オタクであるふたりの交流は深まり、「シュガーベイブ」は大瀧詠一が主宰するナイアガラ・レーベルの所属第一号アーティストとなる。

そして、シングル「DOWN TOWN」とアルバム『SONGS』を1975年に発売。1960〜1970年代のアメリカン・ポップスをベースにしつつも、洋楽の真似事では終わらない日本発のサウンドは、現在も色褪せることのない名盤だ。しかし、当時はまだアンダーグラウンドな存在であり、セールス的にはふるわず。翌年、シュガー・ベイブは解散となる。

シュガーベイブのアルバム『SONGS』(1975年)。

初ソロアルバムは23歳
アメリカでレコーディング

シュガーベイブ解散後、ソロ活動をスタートするにあたり、山下達郎は当時珍しかった海外でのレコーディングを切望。その夢が実現可能なRCA ⁄ RVCと契約し、東海岸のニューヨークと西海岸のロサンゼルスで、一流のプロデューサーたちと音楽制作を取り組むことに。そして、全曲アメリカ・レコーディングによるアルバム『CIRCUS TOWN』(1976年)を、弱冠23歳にして発表する。

自分が影響を受けた1960〜1970年代のアメリカン・ポップスに固執していた山下達郎だったが、本場のポップス制作を体験することで、貪欲に新しいものも取り入れながら、時代の気分を掴むという精神性も学んだと言われてれる。一方で、制作面においては自分のやり方が間違っていなかったことを確信。しかしながら、このファースト・ソロアルバムのセールスはふるわなかった。

初のソロアルバム『CIRCUS TOWN』(1976年)。

その翌年、アメリカ・レコーディングの経験を生かしながら、日本で各種実験をしたアルバム『SPACY』を発表。これも世間的な評判はふるわず、さらに翌年の1978年には“ソロ作はもう最後”の気持ちで『GO AHEAD!』をリリースする。

 

『Ride On Time』と『For You』大ヒット─80年代を象徴するヒットメーカーへ

1970年代には世間的なヒットに恵まれなかった山下達郎だが、1980年に入ると状況が一変する。それは、時代の気分が大きく変わったことも追い風となった。これまで、学生運動や公害問題など暗いニュースが多かった時代から、1980年という年を境に、音楽のみならずファッションやお笑い、ウォークマンのようなモノ文化に至るまで、新しいポップカルチャーが次々と誕生したのだ。

そのひとつに、雑誌『ポパイ』などが牽引した西海岸ブームがある。美しい浜辺を眺めながら、青空のなかをドライブするような軽快さ。「ネアカ」とも言われた、明るく元気な若者文化が時代の気分を変えていった。

そんな最中にリリースされたのが、CMソングにもなった「RIDE ON TIME」(1980年)。時代が求めていた爽快で都会的でおしゃれなサウンド。この曲で初めてオリコンチャートのベスト10入りを果たすことに。その後発売された同名アルバムは、チャート1位を獲得。

通算5作目のスタジオアルバム『RIDE ON TIME』(1980年)

同年末には、ドゥー・ワップをカバーしたア・カペラのアルバム『ON THE STREET CORNER』を発売するが、以前なら売れなかったであろうそのマニアックな切り口でさえ、「この良さがわからないほうがダサい」と思わせるくらい状況は好転していた。さらに翌年の『FOR YOU』(1982年)もオリコンチャート1位に輝き、竹内まりやとの結婚も発表するなど、順風満帆のなか、80年代のヒットメーカーとして駆け抜けていく。

「クリスマス・イブ」が国民の定番ソングに─ドラマ主題歌、CMソングも次々と…

現在よりも時代の気分が10年単位で大きく変わった時代。山下達郎の才能、チャレンジ精神、オタク気質が枯れることはなかったものの、世代の変わり目とともに、安定した往年のアーティストという認知になっていた。しかし、1989年にJR東海のクリスマス・キャンペーンCMソングとして、「クリスマス・イブ」(1983年アルバム『MELODIES』収録曲)が起用され、社会現象ともいえるほどの大ヒットに。

以降、クリスマスの定番ソングとなっただけでなく、これをきっかけに山下達郎を知る若い世代が急増。こうなると企業は放っておかず、90年代から現在に至るまで、リリースされる楽曲はほぼCMソングやテレビ番組のテーマ曲として起用され、誰もが年に1度は何かしら耳にするアーティストとなる。

ラジオ番組の選曲&トークも人気

山下達郎はこれまで楽曲提供も数多くおこなっている。とくにジャニーズ事務所との縁はよく知られており、近藤真彦「ハイティーン・ブギ」(1982)、少年隊「湾岸スキーヤー」(1998)、KinKi Kids「硝子の少年」(1997)、嵐「復活LOVE」(2016)などヒット曲も多数。

また、現在も人気放送中のラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』(1992〜)からもわかるように、ラジオは山下達郎の得意とするところだ。初めてのレギュラー番組は、22歳のときの「山下達郎のオールナイトニッポン」。以来、数年のブランクはあるものの、ほぼ途切れることなくラジオ番組のレギュラーを持っている。人気の秘密は、深い見識によって選ばれる上質なサウンドが豊富に流れる点と、軽快なトーク。そのトークセンスはライブでもお馴染みとなっている。

ライブも極上。チケットは入手困難

さて、これまでアルバムを中心に追ってきたが、ライブ人気の高さも山下達郎を語る上で欠かせない。レコーディングと同様、音質や音響にこだわるゆえに1000〜3000人程度のホールでしかおこなわないのが特徴だ。ゆえにチケット争奪戦となり、ファンクラブ会員でないと買えないという噂が出るほど。バンドメンバーもほぼ固定のため、完璧といえるほどの演奏と美しい歌声、一度体験した人はほぼリピーターになってしまうのもチケット入手が困難な理由のひとつ。

ちなみに、いまだストリーミング配信がごく限られた楽曲でしか解禁されていないのは、アルバム単位ではなく楽曲単位でしか聴かれないという懸念、音質面で納得がいかないなどが予想される。しかし、妻である竹内まりやのアルバムが配信され始めたことを鑑みると、タイミングを伺っているとも考えられる。

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