フルート奏者、赤木りえの活動拠点は日本、そしてキューバやプエルトリコといったカリブ諸国である。現地のラテン音楽コミュニティで研鑽を積み、これまでに幾多のステージや録音物で “カリビアンなフルート”を披露してきた。そして2012年にはプエルトリコの音楽フェスティバル「カロリーナ・インターナショナル・ジャズフェスティバル」に出演。メインアクトを務め、場内1万人のラテン音楽フリークたちが喝采を贈っている。
そんな彼女が今度は、サルサ界の統領ともいえる重鎮 ラリー・ハーロウをプロデューサーに迎え、ニューヨークでレコーディングしたアルバム『魔法の国の魔法のフルート』をリリース。彼女はどのようにしてラテンのフィーリングを体得し、数々の快挙を実現してきたのか。
コルトレーンはよくわからない
──フルートを始めたきっかけは?
うちは父がコントラバス奏者で、祖父母と母は声楽家というクラシックの音楽家系で。4歳ぐらいからバイオリンとピアノを習っていました。でも譜面通りに弾くのが苦手で、即興で演奏をしては怒られるという(笑)幼少期でした。そんな頃、小学校でリコーダーを吹いたら笛に興味が湧いてきて。10歳からフルートを習い始めました。オーケストラのフルート奏者になりたくて、勉強して藝大(東京藝術大学)に入りました。
──そこから、どんな経緯でジャズを演奏することに?
父はピアノもけっこう得意で、ジャズバンドでも演奏していました。家でもそういう曲を弾いていたので、ジャズやポップスも私の中にあって。私自身もピアノの弾き語りのアルバイトをしていました。
それで大学2年のときに、ある大学の軽音楽クラブからスカウトされたんですけど「フルートをやってるのなら、ピアノじゃなくてフルートを吹いてみれば?」って言われて吹いてみたら、全然ダメだったんですね(笑)。それで藝大でジャズをやっている人に相談したら「アドリブをやるんだったら、チャーリー・パーカーとかジョン・コルトレーンを聴け」って言われたんですけど、私にはよくわからなかったです(笑)。
──結局、誰をお手本にしたのですか?
当時、私は横田年昭(注1)さんというフルート奏者のローディーをやっていたんです。彼は1960年代からジャズ・ロックの世界で活躍していて、活動内容も多彩でした。たとえば、時代劇の音楽で使われる尺八みたいな音は、ほぼその横田さんが吹いているんですけど、あまりにすごすぎて、フルート的には参考になりませんでした(笑)。
ところが、横田先生の仕事の現場に付いて行くうちに、作曲家さんが「りえちゃんのパートも作ってあげよう」って言ってくださって、先生の横で2番フルートを吹かせてもらったりして。そこからミュージカルのバックとか、スタジオ仕事のお手伝いをさせていただくようになりました。
注1:横田年昭/よこたとしあき(1944-)
日本のジャズ・フルートの草分け的存在。1961年に17歳でプロとして活動を開始し、ビート・ジェネレーションや原始共同体といったグループで活動。その後「猪俣猛とサウンド・リミテッド」のメンバーとしても活躍。
デイブ・バレンティンの衝撃
──その後、ラテン音楽に急接近しますよね。これはどんな経緯で?
ある日、夜中にFMラジオを聴いていたら、デイブ・バレンティン(注2)という人の曲が流れて。感動しました。すごく軽やかに吹いていて。それまで聴いてきたジャズのフルートもすごく好きでしたけど、彼の音はジャズっぽくなくて、クリアで…。私もこんな音楽ができたらいいな、って。
注2:デイブ・バレンティン/Dave Valentin(1952-2017)
フルート奏者。プエルトリカンの両親のもとニューヨークで生まれ、1979年に『レジェンズ』でデビュー。ラテン・フュージョン的な作品性で高い人気を獲得した。
──衝撃の出会いだったわけですね。
そうですね。あと大学4年のときにやったミュージカルのバック・バンドに、東京キューバンボーイズ(注3)の方がいらっしゃって。大学を卒業してから、その方のバンドで吹かせてもらうようになりました。それまでラテンといえば、タンゴやボサノヴァくらいしか知らなかったのに、いきなりキューバ音楽に出会って「エーッ、何これ?」って(笑)。
注3:東京キューバンボーイズ
1949年にリーダーの見砂直照を中心に結成された、日本を代表するラテン・バンド。映画音楽、クラシック音楽、ポップ・ミュージックなどもラテン・アレンジで聞かせ、ラテン音楽を日本に広めた。1980年に解散するが、2005年に直照の息子である見砂和照が中心となって再結成。
──そこからラテン音楽に本格的に取り組むようになっていった?
その後いきなりデビューの話を頂いたんですけど、ニューエイジ・ミュージックのカテゴリーに入ってしまって、アドリブとかはあまりやらず、日本の歌や映画音楽を演奏してました。きれいな、スーッとした音楽を(笑)。
「私のやりたいこと」を発見
──ラテンへの道は遠いですね。
その一方で、アコースティック・クラブ(注4)というグループを作って、そこではわりと激しい音楽もやらせてもらってました。その後にオルケスタ・デル・ソル(注5)の人たちとセッションをするようになって、「私はやっぱりこれが好き」って思ったんです。
それでロサンゼルスでレコーディングしようという話になって、ルディ・レガラード&チェベレ(注6)というグループと一緒にレコーディングしました。そのレコーディングが本当に気持ちよくて「私がやりたい道はこれだったんだ」って。
注4:アコースティック・クラブ/Accoustic Club
赤木りえ(fl)、宮野弘紀(g)、中西俊博(vln)、早川哲也(b)、ヤヒロ・トモヒロ(perc)により1986年に結成。1991年まで活動し、6枚のアルバムをリリースした。
注5:オルケスタ・デル・ソル/Orquesta Del Sol
1978年に結成された日本初のサルサ・オーケストラ。ペッカー(perc)、森村献(b)、高橋ゲタ夫(b)らを中心に、日本語によるラテン・ミュージックを展開し、日本の音楽ファンにサルサという音楽を紹介した。
注6:ルディ・レガラード&チェベレ/Rudy Regalado & Chévere
ベネズエラ出身のパーカッション奏者であるルディ・ガラードを中心に1983年に結成され、ロサンゼルスを拠点に活動していたラテン・ミュージックのグループ。
──ラテン音楽のどんなところに魅力を感じたのでしょうか?
やっぱりリズムですね。グルーヴがすごい。ただ、それは彼らの“血”の中にあるものだから、勉強して簡単に身に付くものでもない。あと、すっごくラフというか“テキトー”な側面もありますね。そこは、私がずっとやってきた、きっちり、きっちりというレコーディングとは全然違っていましたね。
──はじめはキューバに行かれるんですよね。
1992年に初めてキューバに行ったんですけど、そこから毎年行くようになって、リチャード・エグエス(注7)という、キューバ音楽の事典に出てくるようなすごく偉いフルートの先生に、6年間ぐらい徹底的に基礎を教わりました。
先生がまずピアノを弾いて、それをラジカセで録音して、今度はそれを聴きながら先生と4小節ずつの掛け合いを2時間ぐらいノンストップでやるんです。すると知らない人たちがパーカッションを持って入ってきて、「この人たち誰?」「近所の人」って(笑)。そこからどんどんセッションが盛り上がっていって、子供たちが窓に鈴なりになってその音楽を聴いている。そんなこと普段の生活にないから、ものすごく刺激になりましたね。
注7:リチャード・エグエス/Richard Egues(1924-2006)
キューバを代表するフルート奏者。チャチャチャの名門バンド、オルケスタ・アラゴンの主要メンバーとして活躍した。チャチャチャの名曲「エル・ボデゲーロ」の作者としても知られている。
──日常的な体験としてラテンのフィーリングを身につけていったわけですね。
そのあとに、プエルトリコ系のミュージシャンをよく知っている日本人の音楽プロデューサーと知り合って、ティト・プエンテ(注8)やウィリー・コロン(注9)、ラリー・ハーロウを紹介されて。すると「明日のライブにフルート持っておいでよ」っていう話になって、「えーっ!?」とか言っているうちにライブで吹かされちゃうんですよ。それでプエルトリコに興味が出てきて、行ってみたんです。1998年だったかな。
注8:ティト・プエンテ/Tito Puente(1923-2000)
ティンバレス奏者。1940年代から活躍し、1950年代のマンボブームの立役者の1人となって、後のラテン・ジャズやサルサの発展にも大きく寄与。「マンボの王様」「ラテンの王様」とも呼ばれる。
注9:ウィリー・コロン/Willie Colon(1950-)
ニューヨーク出身のトロンボーン、トランペット奏者。バンド・リーダー、ボーカリスト、作編曲家、プロデューサー、俳優としても活動。1970年代にはサルサを世界に広めたファニア・オールスターズの中心メンバーとして活躍した。
──それで、今度はプエルトリコにハマってしまった。
そうなんです。一度行ったら住みたくなっちゃって(笑)。ここに住むにはどうしたらいいだろう? と思ったら、文化庁の芸術家在外派遣員制度というのがあって、応募したら受かっちゃって200日くらい滞在しました。
その間にいろいろな人と知り合ってアルバムを作ったりして、そこから毎年のように行くようになりましたね。2012年に、カロリーナ・インターナショナル・ジャズ・フェスティバルという大きな屋外コンサートにも出させていただいて、その時にレコーディングしたアルバムが前作『カフェ・コン・レチェ』です。
サルサに含まれるロック成分
──新作『魔法の国の魔法のフルート』は、ファニア・オールスターズ(注10)の中心的人物だったラリー・ハーロウ(注11)さんのプロデュースですね。
3、4年前にラリーさんが来日したときに、一緒にお寿司を食べたんですけど、そのときに「プロデュースをしてくれない?」って恐る恐る言ってみたら、「いいよ、いつやる?」って当たり前って顔で言われて(笑)。でもその時はまだ準備と言うか、私の心構えが出来ていなくて、何となく先延ばしにしていました。
注10:ファニア・オールスターズ/Fania All-Stars
ニューヨーク・サルサを代表するグループ。ニューヨークのラテン音楽専門レーベル“ファニア”の所属アーティストたちが集結して1968年に結成。1971年にクラブ“チーター”で伝説的なライブを行ない、そのライブ・アルバムのヒットによってサルサという音楽が世界的に広まっていった。
注11:ラリー・ハーロウ/Larry Harlow
ニューヨーク出身のピアニスト。ファニア・レーベルの契約第1号アーティストであり、1970年代はファニア・オールスターズのピアニストとしても活躍した。
──その間に、ラリーさんが体調を崩したそうで。
そうなんです。急に体調が悪くなって、奥さんがFacebookに「みんなの祈りをお願いします」って書いていて、もうダメかも知れないなって。それで私もお見舞いを書かなきゃと思って、「レコーディングをお願いしたかったのに。残念だな…」って送ったら、「いつやる?」っていう返事が返ってきて。「死ぬかも知れないって書いてあったのにー!」って(笑)。そこから急展開。いきなり具体的になってしまって、こっちが慌てました。すごく元気になって、畳みかけていく感じがすごかったですね。
──今回のアルバムでは、オールマン・ブラザーズ(注12)やイッツ・ア・ビューティフル・デイ(注13)といったロック・グループの曲も取り上げていますよね。
ラリーさんもロックが好きで、ジョージ・ハリスンがやったバングラデシュのチャリティ・コンサート(注14)に行ったこともあるそうです。だから今回こういう曲をやりたいっていうリストを出したら、すごく喜んじゃって。サルサ・ファンの人からみると「えっ、何で?」と思うかもしれないけど、ラリーさんのベーシックにはそういう音楽も入っているんです。
注12:オールマン・ブラザーズ・バンド/The Allman Brothers Band
デュアン(g)とグレッグ(key)のオールマン兄弟が中心となって1969年に結成。デュアンの神業的スライド・ギターも話題となって、アメリカ南部の“サザン・ロック”の中心的存在としてその後のロック・シーンに大きな影響を与えた。
注13:イッツ・ア・ビューティフル・デイ/It’s a Beautiful Day
1967年にサンフランシスコで結成されたロック・グループ。デビッド・ラフレイムのバイオリンとパティ・サントスのボーカルをフィーチャーしたサイケデリックなサウンドで、1960年代後半のヒッピー・カルチャー/フラワー・ムーブメントを象徴するグループとして人気を博した。
注14:1971年8月1日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンで開催された「The Concert for Bangla Desh」。バングラデシュの難民を救うために、元ビートルズのジョージ・ハリスンとインド出身のシタール奏者ラヴィ・シャンカールが発起人となり、ロック史上初のチャリティ・コンサートとして実施された。エリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセルなども参加。
──今回、「小麦色のお嬢さん」という曲では、チャランガ(注15)という音楽スタイルにも挑戦していますね。
今回は、アンドレア・ブラックフェルドというフルート奏者がディレクションも手伝ってくれて。そこでふと思い付いて。彼女はジャズ奏者なんですけど、1970年代からチャランガも吹いているんです。それと、カレン・ジョセフというチャランガ・フルートの専門家も参加しています。彼女は、2015年に私がニューヨークでライブをやったときに聴きに来てくれて、ステージに上げて一緒に吹きました。それでカレンもレコーディングに呼んで、今、ここでしかできないこと、フルート3人でチャランガをやっちゃおうって。
注15:キューバの伝統的なダンス音楽。弦楽器、フルート、パーカッションなどで編成される。
プエルトリコで学んだこと
──海外のラテン音楽コミュニティに、いきなり日本人が入っていくのは難しいと思うんですが、どんな苦労がありましたか?
私の活動の中心はプエルトリコですけど、差別はあまり感じなかったですね。プエルトリコのクリスマスって異常に盛り上がるんですけど、ヒバロ(注16)という伝統音楽のバンドに私も入って、各地のクリスマス・パーティーで演奏するんですね。そういった、プエルトリコ人の生活に根ざしたところで演奏させてもらったから、「りえはプエルトリコ人だね」って言われるまでになりました。現地の人たちの生活に入り込むのは大切ですね。
注16:ヒバロ(Jibaro)とは、プエルトリコの山間部に住むスペイン系の農民のことで、彼らの伝統音楽がヒバロ音楽と呼ばれる。クアトロという10弦の楽器を使用する。
──怖い思いをしたことは?
プエルトリコ人でも「あそこには、夜の10時以降には絶対に行っちゃダメ」っていう所はあります。麻薬の売人とかがいて、週に一度は人が殺されるとか。そういう所に平気でいっちゃう人がたまにいるんです。そうすると事件に巻き込まれたりする。
──演奏の面で、もっとも苦労したことは?
はじめのうちは、クラーベ(注17)のパターンが体に入っていなくて「もっとクラーベを感じろ」ってすごく言われました。だけどプエルトリコで生活していろいろな環境で吹いているうちに、いつの間にかクラーベが体の中に入り込んでいました。あとやっぱりダンスは重要ですね。民族系の音楽っていうのは必ずダンスと一体になっているから、ダンスができないとわからない部分がありますね。
注17:クラーベ/Clave
アフロ・キューバン/サルサ音楽のリズムの基本となる2拍子2小節のパターン。「2拍-3拍」と「3拍-2拍」の2種類のパターンがある。
──プエルトリコのどんなところに魅力を感じますか?
やっぱり人ですね。とにかく人懐っこいです。偉そうにしてる人もあまりいないし、すっごく偉い人が普通に歩いてるし(笑)。たとえば東京のジャズクラブだと1万円くらい払って聴くような人が、その辺の公園で無料コンサートをやってて、そのあとみんなと一緒に何か食べてたり。そういうゆるい感じが好きですね。
──ラテン・ミュージックって、バンド自体の音も大きいから、フルートの音が埋もれたりしませんか?
レコーディングではあまり気にならないです。けど、ライブでは、自分の音がモニターから聞こえないことは多々あります。お客さんには届いているんですけどね。でも最初の頃は、自分の音が聞こえないから、どんどん力が入っていっちゃって。
フルートって力が入ると逆に音が細くなるんですよ。だからそれはプエルトリコであきらめました。そんなにいいモニターがあるわけがない、って(笑)。日本人は「こんなモニターじゃ上手く演奏できない」とか言うけど、そんなこと言っても仕方ないから、お客さんに「聞こえてる?」って訊いて、「聞こえてる」って返事が返ってきたら、じゃあそれでいいやって(笑)。
赤木りえ/あかぎりえ(写真左)
東京藝術大学器楽科(フルート専攻)卒業。1985年にデビュー。1990年代よりラテン音楽に興味を持ち、キューバやプエルトリコでも活動。2003年と2008年には自身のグループでカリブ海ツアーを敢行するなど、両地域の文化交流を積極的に展開した功績が評価され、2005年にはプエルトリコのユネスコから表彰される。2012年8月にはプエルトリコの「カロリーナ・インターナショナル・ジャズ・フェスティバル」に出演。またここ数年は、フルート・クリニックや吹奏楽の指導も行ない、さらにNHK「歴史秘話ヒストリア」「花子とアン」などのフルート演奏でも知られている。【赤木りえ オフィシャルHP】http://www.rie-akagi.jp/
島田奈央子/しまだ なおこ(インタビュアー/写真右)
音楽ライター/プロデューサー。音楽情報誌や日本経済新聞電子版など、ジャズを中心にコラムやインタビュー記事、レビューなどを執筆するほか、CDの解説を数多く手掛ける。自らプロデュースするジャズ・イベント「Something Jazzy」を開催しながら、新しいジャズの聴き方や楽しみ方を提案。2010年の 著書「Something Jazzy女子のための新しいジャズ・ガイド」により、“女子ジャズ”ブームの火付け役となる。その他、イベントの企画やCDの選曲・監修、プロデュース、TV、ラジオ出演など活動は多岐に渡る。