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20世紀を通じて人類はさまざまな危機を体験した。20世紀の最も重要な大衆音楽の一つであるジャズは、その危機を通過するたびにスタイルを更新し、新しいヒップネスを人々に提示してきた。今、パンデミックという21世紀最大の危機に面しているジャズは、この危機を通り抜けたときにどんな新しい姿を見せてくれるのだろうか。前世紀の危機と今日の危機を比較し、アフター・コロナの〈ヒップ〉の行方を占う。
禁酒法とジャズ・エイジ
新型コロナウイルスの感染拡大によって、世界経済は1929年の世界大恐慌以来といわれる危機に瀕している。1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落し、その影響はほどなく欧州、南米、アジアへと波及して世界は深刻な不況の時代に突入した。1930年代の後半までに、世界のGDPは15%、貿易額は実に50%も減少している。世界がこの大不況から本格的に脱するのは、第二次世界大戦後のことである。
アメリカにおける株価暴落の主な原因は行き過ぎた投機バブルの崩壊であり、それは1920年代の「狂乱」のいわばツケであった。好況に沸いた20年代を通じて、アメリカのGDPは年率5%以上成長し、国民一人当たりの所得は30%も増えた。その余剰所得は一方で投機へ向かい、一方で大量消費と娯楽へ向かった。「さながら未成熟な一〇代の若者のように自らの繁栄に陶酔」(『大恐慌のアメリカ』林敏彦)したアメリカ人たちは、「狂騒の20年代=ローリング・トウェンティーズ」とのちに名づけられる時代を無邪気に謳歌した。大恐慌はその繁栄を夢のように霧散させたのだった。
狂騒の20年代が「ジャズ・エイジ」とも呼ばれるのは、この時代にジャズが大衆音楽として大きく成長したからである。時代の入り口となった1920年は、「高貴な実験」とも「天下の悪法」ともいわれた禁酒法が施行された年であり、世界初の公共ラジオ放送が始まった年でもある。禁酒法は「スピーク・イージー」と呼ばれるもぐり酒場を大量に生み出し、それを経営するマフィアを跋扈させた。
酒場には音楽とダンスが必要である。スピーク・イージーの営業が最も盛んだったシカゴには、南部から多くの黒人が移住してきていた。ニューヨークよりもシカゴを目指す黒人が多かったのは、この工業都市が大量の労働力を必要としていたからだ。黒人の中には、ニューオリンズで演奏していたプロのジャズ・ミュージシャンも数多く含まれていた。彼らは、ビッグ・バンドを結成してスピーク・イージーで毎夜演奏するようになった。今日、「ニューオリンズ・ジャズ」として知られるジャズのスタイルのこれが始まりである。20年代半ばにはシカゴを中心にジャズのレコーディングも盛んになり、その音源はラジオの電波に乗って全土に届けられた。こうして、ジャズは「アメリカの音楽」となった。
これこそアメリカの音楽だ!
禁酒法という荒唐無稽な法律が成立した背景には、人類史上初の総力戦であった第一次世界大戦という「危機」があった。戦時下のアメリカでは、戦争に勝利するためとの名目のもと、過度な保守主義、禁欲主義、ピューリタニズムが亢進し、禁酒法成立への道筋がごく短期間で整備された。法律が施行されたときすでに戦争は終わっていたが、法律自体は1933年までの長きにわたって生き延びた。禁酒法は、酒を飲む人ではなく、酒を造り販売する人を罰する法律であったから、堅気の酒屋は壊滅的な打撃を受けた。これは、現在コロナ禍の中にある私たちにとっても身近に感じられる「危機」である。
第一次大戦のジャズへの影響という点で見れば、アメリカの参戦によって、軍港であったニューオリンズの売春街が閉鎖されたという事実にもあらためて触れておくべきだろう。軍隊内に性病が蔓延することを防止することがその目的だったが、これは結果として売春宿を仕事場としていたジャズ・ミュージシャンたちを路頭に迷わせることになった。シカゴを目指したミュージシャンの多くは、そういった失業者たちである。これもまた、一つの「危機」であった。
ジャズ・エイジの幕を引いたのは狂騒の結果としての大恐慌だった。それからの6年ほどの間、音楽の主流はスイート・ミュージックと呼ばれる甘ったるいポップスに移り、ジャズはほとんど死に体となった。景気がひとととき上向いた1935年になって一気に勃興したのが、ベニー・グッドマンを始めとするスウィング・ジャズだった。
「不況を克服したアメリカ市民は二才の童子から八十才の老人までが、ベニー・グッドマンのスイング・ミュージックに狂喜乱舞したのである。『これこそアメリカの音楽だ!』と彼らは叫んだ」(『ジャズの歴史物語』油井正一)
──こうして1920年代、30年代のアメリカの歴史を見ると、危機と混乱の時代にこそ新しい文化が生まれるという法則があるように思える。戦争とその産物である禁酒法によってシカゴのジャズ・シーンは形成され、狂騒の20年代ののちの大恐慌を経てスウィング・ジャズが花開いた。ジャズという音楽は、あたかも危機をエネルギーとして進化してきたように見える。そして今、ジャズはパンデミックという未曽有の危機のさなかにある。
客自身がかっこよくなれる場所
東京・下北沢にバー『No Room For Squares』が開店したのは、数カ月後にパンデミックが発生することなど誰も知らなかった2019年9月だった。店主の仲田晃平がイメージしたのは、禁酒法時代のスピーク・イージーのような店だった。
店は雑居ビルの4階にあるが、エレベーターから出ても店の入り口らしきものは見当たらない。あるのは、非常階段に通じる鉄製のドアと、古いコーラの自動販売機のみである。ここで困惑して帰る客もおそらく少なくないだろう。実際は、自販機の扉が店への入り口となっていて、そこを開ければオーセンティックな雰囲気のバーがあらわれる。
スピーク・イージーだから、すぐに見つかる店であってはいけないし、入口を見つけられずに帰ってしまう客がいても構わない。それがこの店のスタンスである。そのスタンスは何よりも店名に明確に表現されている。「頭の固い奴」「杓子定規な奴」を意味する「スクエア」は、「ヒップ」の対義語としてジャズ界で長く使われてきた言葉だ。ハンク・モブレーのブルーノート盤のタイトルとしてもよく知られている「ノー・ルーム・フォー・スクエア」をあえて日本語にすれば、「堅物おことわり」とでもなるだろうか。入口がわかりにくいと憤慨して帰ってしまうようなスクエアな客は、端から相手にしていないということだ。
店はジャズのアナログ・レコードを聴かせる一種のミュージック・バーだが、客からのリクエストは受けつけず、店主が「私の考えるジャズ」(※)をかける。酒類業界出身とあって酒にはひとかたならぬこだわりを見せるが、メニューはない。
「バーは第一にかっこよくなければならないし、お客さん自身がかっこよくなれる場所でなければならないと思っています。店主が信念をもってかける音楽を大音量で聴くことがかっこいいと思ってもらえるお客さんに来てほしい。それが僕の思いです」と仲田は話す。
※クインシー・ジョーンズが1956年に出したアルバムのタイトルに同様のものがある。『This Is How I Feel About Jazz』。
危機を「ヒップ」に乗り越えたい
しかしその店も、コロナ感染の拡大でそれまでのような営業が難しくなった。最大の問題は、週末に行っていたライブができなくなったことだ。この危機に際して仲田が案出したのは、サブスクリプションによるライブ映像配信だった。演奏の機会を失って困窮するミュージシャンに充分な支払いをすることをまずは決め、そこからサブスクの料金を月額1500円プラス税と割り出した。入会者はこの金額で月4本のライブを見ることができる。
「正直、経営的には綱渡りですが、ライブ・ミュージックを絶やさないこと、優れた演奏をこの店から発信すること、ミュージシャンに相応のお金を払うことは絶対に譲れないと思っています」
コロナ禍にあって多くのライブ・ハウスやミュージシャンが映像配信を始め、課金配信は今後過当競争になっていくとみられている。1500円という金額は、ほかのサブスクリプション・サービスと比べて決して安い設定ではない。しかし、このシステムで断固として戦っていくのだと仲田は言う。
「サバイブするために安売りするべきではないし、かといって商売のためだけにやるのでもない。自分のやりかたでこの危機を乗り切っていく必要があると思うんです」
ヒップであることを目指して開いた店だからこそ、危機の乗り越え方もスクエアであってはいけない。追い詰められたときに示すアティチュードによって、その店のこれからが決まる。危機の中にあるからこそ、ヒップな旗を立てなければならない──。そう仲田は言う。
戦いの先にある「ジャズ来るべきもの」
マクロン仏大統領は、コロナとの闘いを「戦争状態」と表現した。仲田もまた、現状を戦時下であると本気で考えていると話す。全世界でライブ・ミュージックがある時期一斉にストップしたことを考えれば、状況はあるいはそれ以上と言ってもいいかもしれない。人類の歴史の中で、音楽の演奏が人前で一切できなくなった時代がこれまであっただろうか。
しかし、この「戦争」はいつか終わる。危機から脱したとき、ジャズはどう進化しているか。ライブ映像のオンライン配信が一つの表現方法として定着することはまず間違いないだろう。さらに、遠隔でのセッション、リアルとバーチャルの融合、その一方での生演奏の価値の増大、さらには新しいジャズのスタイルの出現──。
「『スクエア』がスタティック(静的)であるとするなら、『ヒップ』はダイナミック(動的)である」と作家の平野啓一郎は書いている。ヒップとは、「新しく自己を作り直す可能性」なのだ、と(『「カッコいい」とは何か』)。この危機を経て、ジャズはスタイルを新たに作り直し、新たなヒップネスを起ちあげることができるか。それが今、試されているのかもしれない。
日本のジャズがダンス・ホールでの伴奏音楽から脱して、ビバップという当時最もヒップだった音楽を目指したのは、戦後の混乱期を脱した1950年代であった。およそ310万人という膨大な戦死者を出し、各国に多大な損害を与えた地獄のような戦争に敗けたのちに、日本人はモダン・ジャズのヒップネスを知った。2020年8月末時点で、新型コロナウイルスの感染者数は世界で2450万人を超え、死者数は84万人に達しようとしている。戦争は人災だが、パンデミックは自然災害であり、戦いの先行きはまだ見えない。私たちにできるのは、この危機と混乱のあとの「ジャズ来るべきもの」(※)を心待ちにすることだけだ。狂騒の20年代から100年。21世紀の20年代は、新たなジャズ・エイジとなるだろうか。
(敬称略)
※オーネット・コールマンが1959年に発売したフリー・ジャズの記念碑的作品のタイトルに同様のものがある。「The Shape of Jazz to Come」。
〈参考文献〉『大恐慌のアメリカ』林敏彦(岩波新書)、『禁酒法=「酒のない社会」の実験』岡本勝(講談社現代新書)、『アメリカの20世紀(上)』有賀夏樹(中公新書)、『ジャズの歴史物語』油井正一(角川ソフィア文庫)、『ジャズの歴史』相倉久人(新潮新書)、『はじまりはジャズ・エイジ』常盤新平(講談社文庫)、『「カッコいい」とは何か』平野啓一郎(講談社現代新書)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。