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日本の高度成長期が始まったのは、横浜・伊勢佐木町の〈モカンボ〉で歴史的セッションが行われた1954年からである。それから第一次オイルショックが起こる73年までの間、日本の経済は年率平均10%という現在では信じられないような成長を見せた。〈クレージーキャッツ〉が活躍した時代は、その高度成長期とほぼ完全にシンクロしている。戦後ジャズの「外伝」としてのクレージーの歩み。その完結篇をお届けする。
ビートルズに匹敵する革命
植木等の評伝を書いたルポライターの戸井十月は、「『クレージーキャッツ』のギャグは、どれだけベタなことをやってもハチャメチャやっても、どこか垢ぬけていてクールでスマートだった」と評した。「垢ぬけて」いて「クール」で「スマート」──。それをひと言で「ヒップ」と言ってしまってかまわないだろう。〈クレージーキャッツ〉のヒップネス。その本質を彼らの楽曲に見たのが大瀧詠一だった。
クレージー全盛期の曲の多くは、〈萩原哲晶とデューク・オクテット〉のリーダーであり、クレージーの初期メンバーだったクラリネット奏者、萩原哲晶と、『大人の漫画』や『シャボン玉ホリデー』の放送作家だった青島幸男のコンビによってつくられたものだ。現在のテレビ業界で「作家」といえばすなわち放送作家を意味するが、テレビ番組の構成担当者が放送作家を名乗ったのは青島が最初だったという説もある。ジャズ・バンド出身の作曲家と、放送作家兼業の作詞家。「スーダラ節」「ドント節」「無責任一代男」「ハイ それまでョ」「だまって俺について来い」といった数々のクレージーソングは、その黄金コンビによってつくられたのだった。大瀧詠一は、それら一連の楽曲を「ポップ・ソングの革命」と言う。
「これまでの、日本の唄は、歌われる内容が決まっていて型があった。そこでクレイジー・ソング(作詞・青山幸男)は本音をそのまま歌にした。これは日本音楽史上、初めてのことでまさに〈革命〉であった。〈ポップ・ソングの革命〉ということでいえばクレイジーの業績はビートルズに匹敵する」
自身が監修した編集盤『クレイジーキャッツスーパーデラックス』のライナーノーツに彼はそう書いた。「本音をそのまま歌にした」と大瀧が言う歌の歌詞とは、例えばこのようなものだった。
チョイト一杯の つもりで飲んで
いつの間にやら ハシゴ酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体に いいわきゃないよ
分かっちゃいるけど やめられねえ
(スーダラ節)
俺は この世で一番
無責任と 言われた男
ガキの頃から 調子よく
楽してもうける スタイル
(無責任一代男)
サラリーマンは
気楽な稼業と きたもんだ
二日酔いでも 寝ぼけていても
タイムレコーダー ガチャンと押せば
どうにか格好が つくものさ
チョッコラ チョイと
パァにはなりゃしねェ アッソレ
(ドント節)
「思えば一連のクレイジー・ソングは〈サラリーマン〉や〈無責任〉の名を借りて〈自由〉について考え、そして追究した歌といえ、どんな民主主義の国でもこれほどムチャクチャに自由な歌は無いのではないか。ひょっとするとこれは《世界一自由な歌》かもしれない」
大瀧詠一は、植木等が歌い手として、さらに映画の主人公として演じた「無責任男」を戦後日本の自由の象徴と捉えた。小林信彦は、「無責任」という言葉を過剰なほどに肯定した青島幸男の詞作に体制への批判精神を見た。
クレージーが表現したのは、ついその15年ほど前まで日本国を隅々まで覆っていた軍国主義の「野暮」に対する、無責任という名の「粋」だった。あるいはそう言ってもいいかもしれない。「粋」とは、垢ぬけていて、クールで、スマートであること、すなわちヒップであることと同義である。
「これは真理を突いた素晴らしい歌だ!」
よく知られているように、植木等本人は酒にもクスリにも瀟洒な生活にも無縁な堅物であった。社会活動家であり浄土真宗の僧侶であった父・徹誠の薫陶を受けて育った彼は、クレージーのデビュー・シングル「スーダラ節」を歌うことに当初抵抗があったという。青島がつくった「分かっちゃいるけどやめられねえ」というふざけた歌詞を自分が歌っていいものかと悩んだ末に、彼は実家に足を運んで父に意見を請うた。目の前で「スーダラ節」を歌ってみせた植木に、徹誠はこう説いたという。
「人間てものはな、みんな、わかっちゃいるけどやめられないものなんだ。医者にこれやっちゃいかん、先生にこれしちゃいかんと言われてもやりたくなるものなんだ。宗祖親鸞上人は九〇歳で亡くなったけど、亡くなる時に、“我が生涯は、わかっちゃいるけどやめられない人生であった”と言ったんだ。それが人間てものなんだよ。青島君て人は実に才能がある。これは真理を突いた素晴らしい歌だ。ヒット間違いなしだから、自信を持って歌ってこい!」(『植木等伝』)
果して「スーダラ節」はその言葉どおりの大ヒットとなり、累計の売上は80万枚に達した。クレージーのフロントマン、植木等は、かくして戦後最大のヒップスターの一人となったのである。植木等をヒップスターとしたのは徹誠のひと言だった。そう考えれば、本当にヒップだったのは、この左翼坊主だったのかもしれない。あるいは、その背後にいた親鸞こそ、日本初のヒップスターだったと言うべきか。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人においておや」、すなわち悪人こそが救われるという彼の教えには、例えば、「落語とは人間の業の肯定である」と語った立川談志に通ずるものがある。クレージー・ソングが市井の人々の心を捉えたのは、だらしなさ、無責任さ、いい加減さといったまさしく人間の「業」を、あっけらかんと、かつ「粋」に肯定してみせたからではなかったか。ヒップネスと強靭な大衆性。本来相反するその二つのスタイルを一身で表現してみせたのがクレージーだった。
高度成長とともに終わったクレージーな青春
〈クレージーキャッツ〉の快進撃が続いたのは、「スーダラ節」がヒットしてからちょうど10年の間である。植木等主演のクレージー映画シリーズは、1972年12月公開の『日本一のショック男』で最後となり、同年の『シャボン玉ホリデー』の放送終了をもってテレビのレギュラー番組もゼロとなった。ハナ肇は、クレージーのピークは日本の高度成長期とぴったり一致しているとのちに語っている。第一次オイルショックが起きて戦後の高度成長に終止符が打たれるのは73年である。戦争は遠く過去のものとなり、テレビではドリフターズの時代が始まっていた。料理研究家となるためにすでにグループを脱退していた石橋エータローを除くメンバーたちは、10年間のまさしくクレージーな日々を経て、俳優としてそれぞれの道を歩み始めることになった。全員がすでに40代となっていた。戦後日本の成長期の終焉とともに、多忙だった彼らの青春も終わったのである。
昭和期を生き抜いたメンバーに欠員が出始めたのは、平成に入ってからである。1993年9月、ハナ肇が肝細胞癌で逝去した。翌94年には石橋エータローが、さらに2年後の96年には安田伸が死んだ。2000年代に入って07年には植木等が、10年には谷啓が、12年には桜井センリが死んだ。谷啓の死因は自宅の階段から転落して頭を強打したことだったが、その直前まで、岩味潔の自宅にいたことが岩味自身の証言から明らかになっている。もちろん、あのモカンボ・セッションをレコーディングした岩味潔である。岩味とクレージーのメンバーの親交は1950年代から続いていた。有楽町の〈コンボ〉、伊勢佐木町の〈モカンボ〉からスタートしたモダン・ジャズと戦後芸能界の歴史。彼らの間には、その歴史を共有したことによる同志的友情があったのだろう。
「ぼくの人生はクレイジーとともにあるのです」
平成とは、〈クレージーキャッツ〉のメンバーが一人ひとりこの世から去っていくのを見せつけられた時代だった──。クレージーの熱狂的なファンであることを公言している菊地成孔は、いろいろな場所でそう語っている。そして、できるなら「最後のクレージー」となったベーシスト、犬塚弘と共演したかった、と。
2020年4月に公開された大林宣彦監督の遺作『海辺の映画館──キネマの玉手箱』に、犬塚は「映画館で幸せそうに居眠りする客」として出演した。この映画を最後に、彼は芸能界からの引退を表明している。妻は5年ほど前に先立ち、子どももいない。現在は熱海のケアつきシニア向けマンションで一人で暮らしているという。この記事を書くに当たって犬塚へのインタビューを試みたが、連絡先を知っている人は誰もいなかった。
2019年10月のサンケイスポーツの取材で、「クレージーのおかげで、いろんな仕事ができた。感謝しています。でも、これからはゆっくりして、あと3年ぐらいで、あの世に行く」と彼は話している。90歳を迎えた男の言葉として、とくに不自然なことはない。また、彼の現在を孤独な晩年と呼ぶ必要もない。犬塚は自伝『最後のクレイジー』で、谷啓の得意曲だった「スターダスト」のメロディを遠く聴きながら語っている。
「目を閉じれば、ハナ肇、植木、谷啓、エータロー、安さん、桜井さんと、忙しく過ごした日々が甦ってきます。頭の中には『スターダスト』が流れてきます。ぼくの人生はクレイジーとともにあるのです。これまでも、そしてこれからも……」
ジャズから出発した男たちは、ビートを「笑い」に、セッションを「コント」に、アドリブを「演技」に変えて、人々の心を鷲掴みにした。戦後最初の芸能人にして最大のヒップスターであった〈クレージーキャッツ〉の歩みは、日本のジャズの歴史とともに語られるべきである。
(敬称略)
〈参考文献〉『ハナ肇とクレージーキャッツ物語』山下勝利(朝日新聞社)、『日本の喜劇人』小林信彦(新潮文庫)、『植木等伝「わかっちゃいるけど、やめられない!」』戸井十月(小学館文庫)、『最後のクレイジー 犬塚弘』犬塚弘/佐藤利明(講談社)
▶︎Vol.21:ジャズと「反社」と芸能界─ナベプロを闇の世界から守った男
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。