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宮本貴奈(みやもと たかな)は多彩な音楽家である。まずは、ジャズ・ピアニストとしての側面。彼女はおよそ20年間、アメリカとイギリスを拠点にプレイヤーとして活躍し、約30か国のステージを転戦してきた。その一方で、作曲家、サウンドプロデューサー、アレンジャーとしての手腕も発揮。日本国内のアーティスト(絢香、May J、八神純子、佐藤竹善、ケイコ・リー、日野皓正など)をはじめ、海外ミュージシャンとも、さまざまなコラボレーションを展開してきた。
彼女はなぜ、多ジャンルの才気あふれるミュージシャンたちに慕われ、頼りにされるのか。その一端を探るインタビュー。
「茨城の普通科の高校生」が米ジャズの大学へ
──どんな経緯で音楽の道に?
小学生高学年の頃にジブリの映画を観て、物語と音楽とが一体になっているのにすごく感動して。私がやりたいのはこれだ、って思ったんです。当時はエレクトーンをやっていました。エレクトーンは、メロディとコードとベースラインとリズムを全部ひとりでやる楽器なので、自然と音楽を分析するようになっていましたね。
──ピアノを始めたきっかけは?
中学生の時に「将来、音楽大学で作曲の勉強をするならピアノもやっておいたほうがいい」って言われて、両親の知り合いのピアノの先生に習い始めました。そのピアノの先生が習っていた作曲理論の先生を紹介していただいて、ジャズの作曲理論を学びました。渡辺貞夫さんが書かれた『ジャズ・スタディ(注1)というジャズの理論書があるんですけど、それが教科書でした。
注1:バークリー音楽大学で学んだ渡辺貞夫が帰国後の1970年に出版した、日本で初めての本格的なジャズの理論書。ジャズ理論書のバイブルとして、多くのミュージシャンたちに大きな影響を与えた。
それまでジャズのことは何もわからなかったんですけど、作曲はやりたいし、ジャズのハーモニーもステキで「これは面白そう」と思いました。そうしたら先生が、バークリー音楽大学に映画音楽学科があると教えてくださって。右も左もわからないし、英語もできないんですけど、行っちゃえー!って(笑)。茨城の普通科の高校生が、いきなりアメリカのボストンに(笑)。
──突然、環境が大きく変わりましたね。
行ってから「あれ? ここジャズの学校だったんだ」って(笑)。一応ピアノをやってて、ジャズ理論も勉強してましたけど、スタンダード曲を1曲も知らないような状態で。でも世界各国からジャズをやりたい人が集まっていて、みんなが四六時中、いろんな部屋でジャム・セッションをやってるんです。それを聴いているうちに、「あぁ、こういう風にやるんだ」って、理論と実践が繋がった瞬間でした。そして実際に演奏が始まったら、もう楽しくて。
──バークリーでは、映画音楽も学んでいたわけですよね。
最初の2年間はみんな基礎を学ぶんですけど、私は「ジャズ・スタディ」で勉強していたので、それを受けなくても単位をもらえたんです。それで私はフィルム・スコアリングを勉強しつつ、ジャズ作曲学科も取って、2学科を卒業しました。
ニューヨーク、そしてアトランタへ
──卒業後はニューヨークに行かれたんですよね。
在学中に活動を始めた日本人女性3人のトリオ「G.G」のメンバーたちと、卒業後は「ニューヨークに行ってみよう」ということになりました。メンバーは、今もニューヨークで活躍しているベーシストの植田典子(ベース奏者)と、オースティンで活躍しているジョーンズ満寿美(ドラム奏者)。
ニューヨークに移動してすぐに、ニーナ・フリーロン(注2)がピアニストを探しているという話を聞いて、オーディションを受けたんです。彼女のことは全然知らなかったんですけど、アルバムを全部聴いて、耳コピーで譜面を作っていって。デュオでやったら、ニーナさんがすごく驚いて喜んでくれて、そこから5年間、ワールド・ツアーに参加させていただくことになりました。
注2:Nnenna Freelon/ジャズ・シンガー。エリス・マルサリスに見出され、1992年にデビュー。レイ・チャールズ、アレサ・フランクリン、ハービー・ハンコックなどのビッグ・ネームたちと数多く共演し、グラミー賞にも6度ノミネートされている。
──バークリーに入った時と同様、またもや世界が開けたわけですね。
今考えると、すごい経験をさせてもらいました。最初のツアーが、5週間のアメリカ南部ツアーで。バンドのメンバー全員が1台の大きなワゴン車に乗って、機材も全部積んで、ぎゅうぎゅうで移動するという、すごくディープなツアーで(笑)。そこからヨーロッパから南米まで、世界中のジャズ・フェスに出演して、アメリカもほぼ全州で演奏させてもらいました。
──そうした日々の中で、差別や不便を感じたことはありますか?
ジャズ・クラブのセッションによく遊びに行ってたんですけど、黒人のビアニストが弾いてて、次が私の番だという時に、リーダーの人がそのピアニストに「そこをどくな。ジャパニーズの女がスウィングできるわけがないんだから」って言ってて。やっぱりそういうことってあるんだな…って思いました。でも私は「なにくそっ」って思うタイプなので、いまに見てろよ!って思ってましたね。
──その後、アトランタに移られたんですよね。
2001年9月11日に同時多発テロがありましたよね。当時、私はニューヨークのクイーンズに住んでいたんですけど、煙が上がっているのが家から見えたんです。それで大都会は怖いなって思っていたら、アトランタへのお誘いがあって。
ニーナさんのバンドのドラマーだった人がアトランタ出身で。その人から「ジョージア州立大学のジャズ教育学部で修士課程っていうのがあるから、来れば?」って言われて。遊びに行ったら、すごく広々としてて、伸び伸びとやっているのが面白くなっちゃって。2年間ゆるーく修士課程をやらせてもらって、教授のアシスタントもやってました。それでアトランタが気に入ってしまって、結局10年間住んでいました。
──当時のアトランタって、R&Bが盛んだったイメージがあります。
そうなんです。R&Bやゴスペルがすごく盛んで、そこから派生したジャズのミュージシャンたちもたくさんいて。いろんなカルチャーがミックスしているのがすごく面白かった。赤ん坊の頃から教会でドラムを叩いてました、ベースを弾いていました、コード・ネームとかはよくわからないけど、耳を頼りに弾いてます、みたいな人がけっこういて、しかもバカ上手い。みんな音楽を心から楽しんでいて、それが楽しくて。私も黒人教会でオルガンを演奏したりしていました。
──アトランタで、TOKU(注3)さんのアルバムのサウンド・プロデュースをやっていましたよね。
TOKUさんがアトランタに遊びに来てくれて、そこの空気感が気に入っちゃって『Love Again』(2008年)と『TOKU sings&plays STEVIE WONDER』(2011年)という2枚のアルバムをアトランタでレコーディングして。TOKUと一緒に、共同プロデュースとアレンジをやらせていただきました。
もともと映画音楽が好きで、物語を音楽で表現することに興味があったので、サウンド・プロデュースがすごく楽しくて。いろいろな方のサウンド・プロデュースをやらせていただくようになりました。
注3:フリューゲル・ホーン奏者/シンガー。2000年のデビュー以来、甘いボーカルとメロディアスなフリューゲル・ホーンのプレイで人気を博する。ジャズ以外にも、シンディ・ローパー、m-flo、平井堅、Skoop On Somebody、今井美樹、大黒摩季などとも共演。宮本貴奈とは、2004年にセッションで初共演。
──そこから、日本に帰国したきっかけは?
あちらで夫との出会いがあり結婚、彼の都合でイギリスに引っ越したんですけど、1年ほどで、出産を機に日本に帰ってきました。
自然な流れでできた7年ぶりのアルバム
──そして今回、7年ぶりのリーダー作『Wonderful World』をリリースしました。
プロデューサーの方に、アルバムを作りませんかっていうお話をいただいたんです。ユニットやサポートなどで、毎年10枚くらいはアルバムに関わっているんですけど、私の名義となると、いったい何がやりたいんだろうって考え始めて。そこから曲を作り始めたり、誰とコラボしたいかを考えていきました。
──曲はどのような感じで書いていったのですか?
私が曲を書く時はいつも、イメージだったり、ストーリーだったり、風景だったりが先にあって、それに向かって作っていくんです。例えば寝ようとしていた時に、ふとメロディが浮かんできて、イギリスのオックスフォードの風景をイメージして、ワーッと書いたのが「River of Time」です。そういう感じで、自然に、少しずつ出来上がっていきました。
──参加メンバーも豪華ですね。
ギターの小沼ようすけくんとはDouble Rainbow(注4)というユニットで活動しているので、今回も一緒にやろうということになって。だったらアントニオ・カルロス・ジョビンの「Double Rainbow」をやってみよう、と。あとオリジナル曲の「Driftwood-流木」は、私の地元の阿字ヶ浦海岸(茨城県ひたちなか市)で流木に座っている時にフッと浮かんできた曲です。小沼くんが音の中で自由に泳いでくれる曲というイメージで書きました。
注4:小沼ようすけと宮本貴奈とのデュオ・ユニット。2012年から活動を始め、2013年にアルバム『Voyage』をリリース。
──トロンボーンの中川英二郎さんとのコラボレーションも面白いですね。
中川英二郎さんと川村竜さんプロデュースの『SQUARE ENIX JAZZ 』という作品に、私もシリーズで参加させていただいていて、せっかくなので私のアルバムにもゲスト参加していただきました。
「It’s All Up to You」は、彼らのリズム感がほんとうにすごくいので、敢えてドラムレスでやりました。英二郎さんと共作した「Lady T’s Steps」は、ちょっとラテンというか、サルサというか、不思議なビートの曲なんですけど、私がイントロを書いて送ったら、それ以降を英二郎さんが全部書いてくれました。
──佐藤竹善(注5)さんの参加も気になります。
竹善さんがDouble Rainbowを聴いて、気に留めてくださっていたらしくて。それで2014年から、竹善さんのクリスマスツアーに参加させていただき、鳥取県の境港市であった「妖怪ジャズ・フェスティバル」などにも呼んでいただきました。その後もデュオ・コンサートをやらせていただいたり、竹善さんのオーケストラ・アルバム(『My Symphonic Visions ~CORNERSTONES 6~ feat. 新日本フィルハーモニー交響楽団』)のアレンジをやらせていただいたり。
注5:さとうちくぜん。SING LIKE TALKINGのボーカリストとして1986年にデビュー。その卓越した歌唱力で大きな注目を集める。1995年よりソロとしても活動を開始し、様々なアーティストとの共演も行なっている。
──「Hello Like Before~Just the Two of Us」というビル・ウィザース(注6)のカバー・メドレーですね。
私も竹善さんもビル・ウィザースが大好きで、3月に亡くなってしまったのでトリビュートしようということになりました。
注6:Bill Withers。R&Bシンガー。1971年に「Ain’t No Sunshine」でデビューし、その後も「Lean on Me」「Use Me」などのヒット曲を放つ。1981年にグローヴァー・ワシントンJr.の「Just the Two of Us」でフィーチャーされて全米2位を記録。1980年代中盤に第一線から身を引き、引退状態になっていた。2020年3月30日、心臓疾患の合併症のため死去。
──ご自身も2曲で歌っていますよね。
これまでバック・コーラスをやったことはあったんですけど、歌を本格的に始めたのは去年からなんです。去年、八神純子さんが「貴奈さんも歌ってみれば?」って言ってくださって、純子さんがおっしゃるならやってみようかなって。「物語を言葉でダイレクトに届ける」っていうのは、私のやりたかったことでもあったんだっていう発見もありました。
──コロナ禍でのアルバム制作。どんなことを感じましたか?
皮肉なことに、今年コロナ禍になって、このアルバムを作る時間をもらえたのかなって思っています。普段の年だったら、ツアーなどでほとんど家にいないので。ステイホーム期間があったから、じっくりと作品に向き合うことができました。
この驚きの1年半っていうのは、みんなに何かを気づかせる期間だったんだろうし、余儀なく変容させられる時期だったと思うし、ある意味、世界がより近くなった感じもしますよね。リモートで作品を制作したり。だからコロナ禍を過ぎたら、面白い時代になっていくんじゃないかなって思います。
インタビュー/島田奈央子
構成/熊谷美広
撮影/平野 明
宮本貴奈/みやもとたかな(写真左)
5歳からエレクトーンを始め、14歳でピアノに転向し、作曲を学ぶ。高校卒業後にボストンのバークリー音楽大学へ留学。映画音楽とジャズ作曲学科で学ぶ。同学卒業後にニューヨークに移り、ニーナ・フリーロン(vo)のワールド・ツアーに5年間参加し、ピアノとアレンジで参加した『SOULCALL』(2001年)がグラミー賞2部門でノミネート。その後アトランタに移り、ジョージア州立大ジャズ教育学部修士課程を卒業。“アトランタ・ベスト・ジャズ・アクト”(2年連続)、“ジョージア州で最も影響力のある女性”などを受賞する。2013年に初リーダー作『オン・マイ・ウェイ』をリリース。日本に帰国後はソロ・アーティストとして活動する一方、小沼ようすけとの“Double Rainbow”、中西圭三と狩野泰一との“WA-OTO”といったユニットでの活動や、TOKU、伊藤君子、佐藤竹善など多くのアーティストのアレンジやプロデュースを手がけている。【宮本貴奈 オフィシャル・ホームページ】http://www.takana.net/
島田奈央子/しまだ なおこ (インタビュアー/写真右)
音楽ライター/プロデューサー。音楽情報誌や日本経済新聞電子版など、ジャズを中心にコラムやインタビュー記事、レビューなどを執筆するほか、CDの解説を数多く手掛ける。自らプロデュースするジャズ・イベント「Something Jazzy」を開催しながら、新しいジャズの聴き方や楽しみ方を提案。2010年の 著書「Something Jazzy女子のための新しいジャズ・ガイド」により、“女子ジャズ”ブームの火付け役となる。その他、イベントの企画やCDの選曲・監修、プロデュース、TV、ラジオ出演など活動は多岐に渡る。