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ジャズと「反社」と芸能界─ナベプロを闇の世界から守った男【ヒップの誕生 ─ジャズ・横浜・1948─】Vol.21

ヒップの誕生Vol.21の写真

Busy pedestrian traffic in Yoshiwara, Japan, 1955. (Photo by Authenticated News/Archive Photos/Getty Images)

戦後、占領の中心となった横浜は「アメリカに最も近い街」だった。1948年、その街に伝説のジャズ喫茶が復活した。それは、横浜が日本の戦後のジャズの中心地となる始まりでもあった──。そんな、日本のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

音楽ビジネスにはコンサートなどの興行が不可欠であり、興行の世界は歴史的に「反社会勢力」が暗躍する場所だった。戦後のジャズ界から出発し、芸能プロダクションを立ち上げ、〈クレイジーキャッツ〉をスターに育て上げた渡辺晋は、「反社」とどのように対峙したのだろうか。その陰には、一人の男の存在があった。

芸能界と「反社」の関係

「反社」という言葉が日本語の語彙として定着したのはいつ頃からだっただろうか。以前はたんに「暴力団」もしくは「ヤクザ」と言っておけばよかった人々を、「反社会的勢力」と別の言葉で呼ばなければならなくなったきっかけは、1992年に施行された「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」、いわゆる暴対法であると言われる。

この法律によって暴力団への取り締まりが強化され、稼業のみならず彼らの生活にも多くの制限がかかった。そんな伝統的な暴力団の弱体化の隙をついて、「半グレ」と呼ばれる犯罪集団や海外の犯罪組織が活発に活動することになった。それによって、どの集団がヤクザで、どの集団がそうではなく、またどの犯罪がヤクザによるもので、どの犯罪がそうではないかが不明瞭になった。結果、犯罪的アウトロー集団の定義をより拡大して捉える言葉として「反社会的勢力」が流通することとなったというわけだ。

しかし、「反社」というその略称を中学生や高校生が日常的に発するようになったのは、芸能人と「反社」との関わりが次々とゴシップ記事となったこの数年のことだろう。誰の意志によるものか、「反社」とのあらゆる関係を一掃しようとすることによって芸能界のクリーン化が進行しているが、クリーン化を進めなければならないのは、もともと芸能界がクリーンではなかったからだ。芸能人のコンサート、芝居、イベントなどの「興行」が、以前は暴力団の主要な財源の一つだったことは広く知られる事実である。

「業界で“営業”と呼ばれる歌手の地方公演はプロダクションの大きな収入源のひとつだが、興行に際し必ずといっていいほど暴力団が介入する」(『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則)

『ナベプロ帝国の興亡』著・軍司貞則/刊・文藝春秋(文庫版1995年)

ヤクザと手を切る二つの方法

戦後初の近代的芸能プロダクションと言われた渡辺プロが「近代的」であったのは、創設者であった渡辺晋が、タレントと正式な契約を結び、月給によって収入を保証する方針を明確にしたからだったが、彼が進めた近代化はそれだけではなかった。

「晋がもうひとつ導入した新しい試みは、やくざが関係する興行と一切、手をきることだった。当時、全国で行われる興行の大半はやくざかそれに関係する興行師が仕切っていた。しかし、新興の芸能プロ社長である晋がたったひとりで反旗を翻すのは無謀だ。彼はまず米軍クラブというやくざの手が回らない場所から仕事を始め、慎重に仕事を拡大していった」(『芸能ビジネスを創った男』野地秩嘉)

戦後のジャズ・シーンから出発して芸能プロを立ち上げた渡辺晋は、ベース・プレーヤーとしてモダン・ジャズの世界で名を成すことは叶わなかったが、芸能界の「モダン化」には手腕を発揮した。

ヤクザと距離を置く方法は二つあった。一つは、企業がスポンサードする「販促興行」というシステムを活用することだった。企業の販促・宣伝活動と歌手のコンサートなどを組み合わせてイベント化したのが販促興行で、これにはヤクザは手を出すことができなかった。

もう一つは、ヤクザとの関係を「プロ」に肩代わりしてもらう方法である。戦後興行界のドンと呼ばれた興行師、永田貞雄こそ、渡辺が頼りにした「プロ」であった。

『芸能ビジネスを創った男 渡辺プロとその時代』著・野地秩嘉/刊・新潮社(2006年)

山口組二代目との兄弟盃

渡辺と永田の出会いは1955年、渡辺率いる〈シックス・ジョーズ〉がまだ活動している頃だった。植木等や谷啓が在籍した〈フランキー堺とシティ・スリッカーズ〉や、トランペットの南里文雄の〈ホットペッパーズ〉など8組のバンド、シンガーらによる地方巡業を担当したのが永田だった。そこで永田の仕事ぶりに渡辺が大いに感心したことから、のちに二人は関係を深めていくことになった。永田の事務所で働いたことがあるという興行会社社長はこう語る。

「永田さんと渡邊晋さんは親しい間柄でした。一時は永田さんが闇の世界から渡邊さんを守ったこともあったようです」(『芸能ビジネスを創った男』)

永田が渡辺を「闇の世界」から守ることができたのは、半身をその世界に置いていたからである。

「永田はヤクザではないが、二代目山口組の山口登組長と“兄弟盃”を交わした間柄であった。これは大きな意味を持っていた。二代目の子分だった田岡一雄三代目山口組組長でさえも、永田の“オイッ子”ということになるからである。永田はかつて山口組が興行に乗り出したとき三代目から相談を受け、パートナー兼アドバイザー的役割を果たしていた」(『ナベプロ帝国の興亡』)

佐賀県の炭鉱町で生まれた永田貞雄は、当初は浪曲家を目指していたが、のち浪曲の興行師に転じ、その対象をより広い芸能やプロレスにまで広げながら、興行界の顔となっていった。彼のこんなコメントが残されている。

「渡辺さんはジャズの世界、わたしは浪曲から始まってプロレス、演歌の世界と違う畑を歩いてきたんだが、彼も一緒にいてだんだん僕のことをわかってきたんだろうね。“荷物”を僕に預けるのが一番安全だということが……」(同上)

「荷物」とはタレントの隠語だが、永田が預かった「荷物」はタレントだけではなかった。

(次回に続く)

〈参考文献〉『興行界の顔役』猪野健治(ちくま文庫)、『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則(文春文庫)、『芸能ビジネスを創った男──渡辺プロとその時代』野地秩嘉(新潮社)

▶︎Vol.22:ジャズとプロレス ─米軍キャンプ発の二大エンターテイメント

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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