MENU
「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
ソニー・ロリンズと並ぶジャズ界の最長老の一人、ウェイン・ショーター。グラミーで最優秀コンテンポラリー・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞した『ハイ・ライフ』ツアーの一環で彼がモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージに立ったのは、1996年のことだった。かつて在籍したウェザー・リポートに再接近したサウンドとも評されたウェイン流フュージョンを、彼はモントルーのオーディエンスに披露してみせた。人生最大の悲劇が彼を見舞うのは、その数日後のことだった。
ジャズ・メッセンジャーズからマイルス・バンドへ
マイルス・デイヴィスがバンド・メンバーを総入れ替えして、のちに「アコースティック・ジャズの頂点」と呼ばれるようになるクインテットの創成に着手したのは1963年だった。ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウイリアムスというリズム隊の布陣が早々に固定したのに対し、サックスの座が浮動的だったのは、マイルス意中のプレーヤーであったウェイン・ショーターがアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズにまだ在籍していたためだ。マイルスのウェイン獲得への執念は相当のものだったらしい。当時ウェインと親しくしていたフレディ・ハバードは、こんな証言を残している。
「マイルスのところに遊びに行くと、よくウェインの曲がかかっていた。『フレディ、こいつは何だ?』って訊かれたものさ。ウェインの曲のコード・チェンジはちょっと変わっていて、マイルスはそれが気に入っていた。ビル・エヴァンスのコードが好きだったようにね」(『フットプリンツ』ミシェル・マーサー)
マイルスはメッセンジャーズのライブに足を運び、最前列に座って、あの鋭い眼光でウェインを凝視していたという。「理由が何であれ、マイルスにあんなふうに見られる相手がおれじゃなくて良かったよ」とフレディは話している。楽屋にまで電話をかけて熱く口説くマイルスにウェインは困惑したようだが、翌64年、彼はブレイキーのもとを離れ、マイルス・バンドに加入することを決意する。
ウェインが入れば最高の音楽が生まれる
この時期、マイルスはライブ・アルバムを立て続けに録音しているが、それらを順に聴いていくと、テナー・サックスがウェイン・ショーターに替わった時点でバンドのサウンドが大きく更新されていることがわかる。何と言うか、音像が大きく広がり、音の温度と湿度のようなものが格段に増しているように感じられる。マイルスは第一にウェインの抽象的で魔術的な独特の作曲センスに惚れ込んでいたようだが、ウェインの演奏のマジックがバンドにもたらしたものも極めて大きかった。マイルスは言っている。
「ウェインを獲れて、オレは本気で嬉しかった。あいつが入れば最高の音楽が生まれるということが分かっていたからだ。無論、その通りになった。しかもすぐに、だ」(前掲書)。
こののちウェインは、バンドのエレクトリック化初期までの5年間をマイルスと随走することになる。ソプラノ・サックスを手にするようになったのは、音色の面でテナーよりもソプラノの方が電気楽器との相性がよかったからだ。電化マイルス・バンド以降、ウェザー・リポート、ソロ時代を通じて、テナーとソプラノの両刀使いが彼の定番となった。
1996年のモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージでも、曲の途中でテナーとソプラノを頻繁に持ち替えるウェインの姿を確認することができる。ギターを加えたフュージョン・サウンドには賛否あるところだが、彼のサックスがひとたび響けば、音楽のスタイルの違いは二の次となる。ときに天空を遥か高く浮遊し、ときに地を低く這い滑るような彼のサックスの独特のボイスは不変である。
行き先の書かれていない切符が欲しい
モントルーのライブは、前年に7年ぶりに発表された『ハイ・ライフ』のツアーの一環だった。『ハイ・ライフ』は、半年をかけてコンピューターでシンセ・サウンドをつくりこんだのちに、総勢30人からなるオーケストラのサウンドを加え、さらにプロデューサーも務めたマーカス・ミラーのベースによってボトムを強化した意欲作で、複雑すぎて逆にシンプルに聴こえるという不思議な作品だった。
モントルーのステージで演奏したのはこのアルバムからの曲が中心で、「フットプリンツ」も「スピーク・ノー・イヴル」も「サンクチュアリ」も演奏していない。過去の代表曲を演らなかった理由を、「行き先の書かれていない切符が僕は欲しい」という表現でウェインは説明している。
しかし、『ハイ・ライフ』ツアー・バンドは、当初まったく機能しなかったようだ。ウェインはつくる曲が複雑なだけでなく、話す言葉も複雑で、バンド・メンバーはいつも苦労させられていた。「そのコードにもっと水を加えてくれ」といった詩的で難解な指示に的確に応えられるメンバーは多くはなかった。
その後、ウェインはギター以外のすべてのメンバーを入れ替えて、バンド・サウンドの修正を図る。その結果、かなりまとまった演奏を聴かせるようになったのが、この96年のモントルーのバンドである。とくに、ウェザー・リポートのメンバーだったベースのアルフォンソ・ジョンソンと、サンタナ・バンドのドラマーだったロドニー・ホルムズの存在が大きく、強力なリズム隊を得てウェインも乗っていることがよくわかる。
ステージの数日後に起った悲劇
ウェインがモントルーのステージに立ったのが7月8日。彼と26年間連れ添ったポルトガル人の妻、アナ・マリアと姪が乗った飛行機が離陸後まもなく爆発して大西洋に散ったのが、その9日後の17日である。2人はローマでウェインと落ち合って、美術館巡りをする予定だった。
夫婦の娘、イスカは誕生時の医療ミスによって脳に障害を負っていて、14歳という若さで死んだ。ウェインとアナ・マリアは、子を育てる苦労と子を思う苦悩から、ともにアルコールへの依存を深めた時期もあった。人生の同志でもあった妻を間もなく失うことを、モントルー出演時のウェインはむろん知る由もなかった。悲劇をごく近い将来に控えたステージであることを知ったうえで彼のプレイを聴けば、その一音一音から一流の表現者が抱える宿命のようなものを感じずにはいられない。
ウェインは、マイルスが逝去するほぼひと月前の1991年8月25日に彼のライブを見に行って、楽屋にマイルスを訪ねている。マイルスは人払いをしてウェインと2人きりになると、彼の両肩をつかみ、「いいか、お前はもっと世に出るんだ」と言ったという。この男は誰もが認めるジャズ・マスターに違いないが、実はまだポテンシャルを出し切っていない。マイルスはそう考えていたのである。それが、マイルスとウェインが交わした最後の言葉となった。しかし、さすがのマイルスも予想していなかっただろう。自分の死の30年ののちにもなお、ウェインが現役で活動していることを。ウェイン・ショーターは今年88歳となる。
〈参考文献〉『フットプリンツ──評伝ウェイン・ショーター』ミシェル・マーサー著/新井崇嗣訳(潮出版社)
『ライブ・アット・モントルー1996』(DVD)
ウェイン・ショーター
■1.On the Milky Way Express 2.At the Fair 3.Over Shadow Hill Way 4.Children of the Night 5.Endangered Species
■Wayne Shorter(ts,ss)、David Gilmore(g)、Alphonso Johnson(b)、James Beard(kb)、Rodney Holms(ds)
■第29回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1996年7月8日