投稿日 : 2021.03.02 更新日 : 2021.09.07
ジャズとプロレス ─米軍キャンプ発の二大エンターテイメント【ヒップの誕生】Vol.22
文/二階堂尚
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ジャズは日本でも戦前から演奏されていたが、その「モダン化」は米軍キャンプや米兵クラブに出入りしていたミュージシャンによって推進された。同様に、米軍キャンプから始まったもう一つのエンターテイメントがあった。その業界の立ち上げに力を発揮したのが、戦後興行界の大物であった永田貞雄、そしてヤクザだった。ヤクザと興行の関係。その一面を探る。
戦後日本初のプロレス興行
この連載で、日本におけるモダン・ジャズの始まりをおおよそ1954年としているのは、この年の7月に、横浜・伊勢佐木町のジャズ・クラブ〈モカンボ〉でビバップの一大セッションが行われ、それが音源として残されていることを根拠としている。同じ頃、ジャズ同様にアメリカからもたらされ、のちに数多くのファンを獲得することになるエンターテイメントが日本でスタートしていた。プロレスである。
戦後の日本で最初のプロレス興行が行われたのは、占領期の1951年9月だった。当時の日本における興行の元締めはGHQであり、このプロレス興行を主催したのも、マッカーサーの側近の一人で、慈善団体の会長を務めていたウィリアム・マーカット少将である。駐留軍兵士の慰問と、身体が不自由な日本の児童のための募金集めが興行の目的であった。
東京・両国で行われた試合の観客のほとんどは米軍兵士だったが、その中に、リングにかぶりつくようにして試合を見ている体格のいいアジア人がいた。その前年、関脇を最後に力士を廃業していた金信洛(キムシルラク)である。力士時代の四股名は力道山光浩。その数年後にプロレスの一大ブームを巻き起こすことになる力道山である。
戦後日本のモダン・ジャズと芸能界は一種の二卵性双生児であるとこの連載で以前に書いた。「戦後最初の芸能人」であった〈クレージーキャッツ〉を生んだのがジャズ界だったからだ。モダン・ジャズとプロレスもまた別の意味で双生児のような関係にあったと言えるのは、ともに米軍キャンプを発祥としているからである。
力道山が頼った興行界の大物
力道山が相撲界を引退したのは、1950年の九月場所前である。引退後に彼が頼ったのが、土建事業者・新田建設の社長であり、東京・日本橋浜町の劇場・明治座の社長でもあった新田新作であった。力道山は新田建設の資材部長の座に収まり、米軍キャンプ内の現場に通うようになった。そこで彼が出会ったのがレスリングだった。米兵に誘われてレスリングに参加した力道山は、屈強なアメリカ人たちを次々になぎ倒していったという。
「力道山に叩きのめされた米軍キャンプの連中は、これはたいしたもんだとその強さに驚いた。そのうちに親しくなって力道山に、プロレスラーになれとすすめるようになった」
力道山同様、大相撲からプロレスに転向した九州山はそう証言している(『興行界の顔役』猪野健治)。チャリティ興行における外国人レスラーとの試合で好感触を得た力道山は、プロレスラーになることを決意し、その旨を新田に伝える。しかし、新田はそれを聞いて激怒した。困った力道山が頼ったのが興行界の大物、永田貞雄だった。前回書いたように、永田は渡辺プロの渡辺晋を反社の世界から遠ざける役割を担っていた男である。
プロレスという言葉すら知らなかった永田だったが、力道山の熱意にほだされて、彼は日本におけるプロレスビジネスの立ち上げに尽力することになる。力道山がアメリカ武者修行から帰るのを待ち、1953年7月に永田は力道山との「タッグ」によって日本プロレス協会を発足させた。興行の資金をつくるために、彼は歌舞伎座前に所有していた料亭「蘆花」を売却し、1800万円を用立てたという。「この時代の千八百万円は、今の時価に換算すれば十億円以上に相当する」(前掲書)。
ヤクザが支えた初期のプロレス界
日本初のプロレス団体だった日本プロレス協会の初代理事長は新田新作だった。力道山がプロレスラーになることに反対していた新田だったが、永田が説得してプロレス界のトップに据えたのである。新田には建設会社と劇場の社長という顔のほかに、もう一つの顔があった。関東国粋会系新田組の組長という顔である。
日本プロレス協会が設立された半年後には、それに対抗するようにして大阪で全日本プロレス協会が発足している。この団体の初代会長は、関西の博徒系ヤクザである酒梅組の三代目・松山庄次郎だった。理事には、山口組三代目にしてのちに戦後ヤクザ界のトップに君臨することになる田岡一雄が名を連ねている。
要するに、初期のプロレス業界はヤクザがつくり、ヤクザが運営していたということだ。そもそも力道山が相撲界引退後に頼ったのがヤクザだったところからその流れはスタートしている。なぜ、力道山はヤクザのもとに転がり込んだのか。それは、相撲界とヤクザ界が元来極めて近しい関係にあったからである。
アメリカ人とヤクザの協業
ヤクザの発祥を明らかにする作業は、歴史学、民俗学、文化人類学の範疇に属するが、一般にヤクザのルーツとしてしばしば挙げられるのが、江戸時代の火消し、博徒、香具師である。アウトロー系の著書を多数著し、自身もヤクザの子であった宮崎学は、そこに「角力」を加えている。
「『角力』は近世以来ヤクザの一種だった」(『ヤクザと日本』)
「角力」は「かくりょく」とも「すもう」とも読む。つまり、力士のことである。同じように「侠客と角力はもともと似たような畠から発生したものである」と言っているのは、『侠客と角力』の編者である柴田宵曲だ。ここでいう「侠客」とはほぼ博徒のことだが、広い意味でヤクザの同義語と考えていい。
江戸時代の相撲興行は主に社寺の境内などで行われていたが、その興行の用心棒兼プロモーターの役割を担っていたのが近世ヤクザだった。それだけでなく、当時プロとアマチュアの境が曖昧であった相撲界に「プレーヤー」として参加したヤクザもいた。そのつながりは近代以降も続いていて、例えば力士の支援者であるタニマチにヤクザが多いことも、ヤクザの中に元力士が多いこともよく知られた事実である。ヤクザ専門誌『実話時代』の元編集者であり、現在はフリージャーナリストの鈴木智彦はこんなことを言っている。
「ヤクザが自分の息子を親方に『面倒見てください』ってお願いして相撲部屋に入れるケースもある。ところが、それが続かず結局ヤクザになってしまうという(苦笑)」(「週刊ポスト」2019年5月3・10日号)
そのような歴史を見れば、元力士の力道山がヤクザのもとに転がり込んだのも、その力道山が中心となってつくり上げた日本のプロレス界のトップをヤクザが担ったのも自然な流れだったと言えるかもしれない。力道山をプロレスの世界に導いたのは、米軍キャンプの米兵だった。戦後の日本のプロレスは、いわばアメリカ人とヤクザの協業によって生まれ、育っていったのである。その陰で暗躍したのが、「伝説の興行師」永田貞雄であった。
(次回に続く)
〈参考文献〉『興行界の顔役』猪野健治(ちくま文庫)、『ヤクザと日本──近代の無頼』宮崎学(ちくま新書)、『侠客と角力』三田村鳶魚=著/柴田宵曲=編(ちくま学芸文庫)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。