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【村上 “ポンタ”秀一】デビュー50周年を目前に逝去─邦楽史に残した足跡と偉業を振り返る


2021年3月9日、ドラム奏者の村上“ポンタ”秀一が視床出血のため入院先の病院で死去。70歳だった。同氏はこれまでに歌謡曲やジャズ、ロックなど多彩なジャンルで活躍し、生涯で参加した作品数は1万を超える。まさに、日本を代表する偉大な音楽家の一人だ。

CM曲を年間800本

村上“ポンタ”秀一がドラマーとして活動を開始したのは1972年。フォークグループの “赤い鳥” に加入し、プロ奏者としてのキャリアをスタートさせる。その後もセッション・ドラマーとして活躍し、ピンク・レディーの「カルメン’77」(1977年)や、山口百恵の「プレイバックPart2」(1978年)といった昭和を代表するヒット曲のレコーディングにも携わってきた。

70年代当時、数々のヒット曲を手がけていた作曲家の筒美京平都倉俊一は、ともに彼を重用し、さかんに自作に起用した。これは、村上“ポンタ”秀一の “譜面を読む能力” や “楽曲に対する理解力” を評価してのことだったという。

こうして彼は瞬く間に人気ドラマーとなり、最もスタジオ・セッションが多かった80年代には、年間のレコーディング・セッションが2780本。CMが832本。6時間で84曲を録音したこともあったという。当時は都内の各スタジオに専用のドラム・セットが常備され、1日にいくつものスタジオを渡り歩いていたそうだ。

もちろん後年もセッション・ドラマーとして多忙を極め、さまざまなタイプのアーティストたち(※1)の「歌」を支えてきた。

※1:沢田研二、井上陽水、矢沢永吉、吉田拓郎、尾崎豊、山下達郎、泉谷しげる、仲井戸麗市、氷室京介、松任谷由実、矢野顕子、今井美樹、竹内まりや、角松敏生、吉田美奈子、DREAMS COME TRUE など

こうした “歌もの” ポップスに関与する一方で、彼はインストゥルメンタル作品(歌のない器楽曲)でも類まれな才能を発揮してきた。1970年代の後半からはKYLYN松岡直也WESING高中正義グループPRISMといった、いわゆるフュージョン・グループで高度なテクニックを披露。この分野でもトップ・ドラマーとなり、90年代に入ると自己のピアノ・トリオ「PONTA BOX」を率いて新感覚のジャズを追求し続ける。

渡辺香津美『KYLYN』(1979年)。村上秀一がドラマーとして参加。共同プロデューサーとして坂本龍一が参画し、奏者もをつとめた。邦ジャズ・クロスオーバーの金字塔ともいえる作品。

来年(2022年)は、村上“ポンタ”秀一のプロデビュー50周年にあたる年だった。これを迎えることはできなかったが、その半分、25周年を迎えた年に彼は、記念アルバム『Welcome to My Life』(98年)をリリースしている。 本作には、井上陽水沢田研二山下達郎矢野顕子桑田佳祐吉田美奈子森高千里など、96人ものゲストが参加。村上“ポンタ”秀一というミュージシャンが、多くのアーティストに愛されていたことが窺える内容だ。

村上“ポンタ”秀一『Welcome to My Life』(1998年)

ドラムセットを使わず2年間の修行

では彼のどんなところに、皆が魅了されたのか。まずは、先述の通り「演奏家としての基礎体力の高さ」が挙げられる。彼は中学、高校とブラスバンドでホルンを演奏していたこともあり、基本的な音感やリズム感などを身に付けていた。譜面も読めるし音楽理論も理解している。これはドラマーとしては珍しいことだ。

もうひとつユニークなエピソードがある。彼は高校を卒業後、バンド・ボーイのバイトを始めたことがきっかけでジャズ・ドラムに興味を持つのだが、最初の2年間はドラム・セットに座らず、イメージ・トレーニングと筋力トレーニングを重ねた。「叩きたい」という欲望を抑えながら、別の鍛錬に徹したのだという。その理由を、ポンタさんは筆者にこう語った。

他のヤツとは違うドラムが叩きたかった。だから、あえて体と心のトレーニングを先にやった

このトレーニングが明け、スティックを持ってまだ1週間も経たない頃、赤い鳥のオーディションを受け合格。神戸から上京してプロ・ドラマーとしての道を歩き始める。この “赤い鳥のオーディション話”は彼の天才を物語るエピソードとして有名だが、じつは「素人同然の若者が有名グループのオーディションに合格」という単純な話ではなく、「村上“ポンタ”秀一という希有の才能が解き放たれた」瞬間だったのだ。

ポンタさんが赤い鳥のオーディションを受けた理由は、彼らの音楽に興味があったわけではなく、その直前に赤い鳥に加入した伝説のギタリスト、大村憲司と一緒にやりたい、というのが理由だったそうだ。その後二人は数々のコラボレーションを展開していくことになる。

後年、赤い鳥のメンバーはこのオーディションを振りかえり、彼の重厚なビートを称賛している。こうしたビートの強度や存在感はドラマーの力量そのものであるが、ポンタさんが目指すところは、さらに別の次元だった。

オレにとって大事なのはアイディアだ。ドラムでも “歌う” ことができていれば両手両足は99%動く、というのがオレの持論

彼の言う「歌う」とは、まるで歌っているように打楽器を演奏する、という意味だ。彼はよく「ドラムはメロディ楽器だ」とも語っていた。たしかにポンタさんは “歌が聞こえてくるドラマー” だった。しかも彼は、プレイ中いつも何かを口ずさんでいた。ドラムで歌っていたのだ。ビートを刻みながら、メロディにも寄り添う。この感覚は、特にシンガーにとって心地よいものだったと推測できる。先に挙げた多くのシンガーたちに愛された理由もここにあるのだろう。

松岡直也が覚醒した日

その一方で、インストゥルメンタル作品で活躍するポンタさんの姿もある。日本のラテン・フュージョンの第一人者として知られるピアニストの松岡直也(2014年に死去)は生前、筆者にこんなことを語っている。

ある日、ポンタがぼくのライブに遊びに来て “叩かせてくれ” って言うので、叩いてもらったことがあるんです

そのとき松岡は、大きな発見と収穫を得たという。

彼のストレートなロック・ビートとラテンのリズムが合わさると、こんなに気持ちのいいスウィング感が出てくるのか…と。そう気づいた僕は、ラテンに固執せず、もっと幅広いサウンドを目指そうと考え始めました

この出来事をきっかけに、松岡はWESINGというグループを結成。それまでのラテン・ジャズとはまったく違った、新しい形のラテン・フュージョンをクリエイトしていくことになる。

松岡直也だけではない、一流の楽器奏者たちが続々と「村上“ポンタ”秀一のビート」に触発され、進化していった。そして彼自身も、進化に貪欲な人だった。若いミュージシャンであれば進化しようと躍起になるものだが、村上“ポンタ”秀一は齢六十を超えてもなお、向上することを怠らなかった。たまにポンタさんから筆者にこんな電話がかかってきていた。

今タワーレコードにいるんだけどさ、お前が “ドラムがカッコいい”って言ってたCD、何だったっけ?

もうレジェンドの域に達しているのに、まだ貪欲に “学ぼう”としているのだ。また、若くてイキのいいドラマーがいるという噂を聞くと、小さなライヴ・ハウスにも足を運び、そのプレイをチェックする。ドラマー以外でも「コイツはいい」と感じたミュージシャンは、新人であろうと「一緒にやろうよ」と声をかける。そんな場面を何度も見てきた。もちろんこれは、彼自身が進化を求めた結果であるが、その一方で、後進のミュージシャンたちに、自分の大切なものを引き継いで欲しいという願いもあったのだと思う。

ポンタさんにはいわゆる“武勇伝”が多く、破天荒なキャラクターに思われがちだが(実際にかなり破天荒なエピソードもあるが)、とても繊細な人柄で、人懐っこい、愛情豊かな人物だった。そして何よりも音楽と人を愛していた。 周囲もまた彼を愛し、多くの人が敬意を込めて彼のことを「ポンタさん」と呼んだ。

「村上さん」でも「秀一さん」でもない、ポンタさんだ。もはやニックネームのように使われているが、これは彼のミドル・ネームである。その由来は(プライベートなことなので)ここでは語らずにおくが、彼は幼少期から“ポンタ”という名前と共に育ってきた。いま思うと、とてもドラマーらしい名前であり、ドラマーになることを運命づけられていた人だったのかも知れない。

文/熊谷美広

PONTA BOX(1994年)
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