投稿日 : 2021.04.26

日本のジャズフェスはこうして始まった|70年代─なぜロックフェスではなく「ジャズ」だったのか

文/二階堂 尚 協力/熊谷美広 写真提供/大津市歴史博物館

サンケイバレイ・ジャズ・フェスティバルの写真1
日本のジャズフェス史/60-70年代

日本で本格的なジャズ・フェスティバルがスタートしたのは1963年だった。その後、東京オリンピックが開催され、東海道新幹線が開通し、首都高速が建築されていく──。日本のジャズ・フェスはその後の経済発展とともに成長し、今に続く音楽フェスティバルの文化を日本に定着させることとなった。60年代から70年代初期にかけての日本のジャズ・フェスの歴史を振り返る。

はじまりはドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』

昨年8月に公開されたドキュメンタリー映画『真夏の夜のジャズ』の4K版は、コロナ禍でジャス・フェスティバルが軒並み中止になっていたこともあって大きな話題を集めた。アニタ・オデイ、セロニアス・モンク、ルイ・アームストロングらが出演した第5回ニューポート・ジャズ・フェスティバル(1958年)の記録である。この作品のオリジナル版が製作されたのは1959年、日本で最初に公開されたのは翌60年だった。

「あの映画の反響はかなり大きかったようです。映画を見た日本のジャズ・ミュージシャンたちが『俺たちもやりたい』と言い出したことが、日本におけるジャズ・フェス開催につながったと言われています」

そう話すのは、音楽ライターの熊谷美広氏だ。1986年から90年までジャズ専門誌『ジャズライフ』の編集部にいた熊谷氏は、メディアの立場で日本のジャズ・フェス全盛の時代を体験している。

日本最初のジャズ・フェスティバルは、1963年8月に軽井沢で3日間にわたって開催された『軽井沢ニュー・タウン・ジャズ・フェスティバル』といわれる。そのライブ音源は6枚シリーズのレコードとしてもリリースされた。それに続く大規模ジャズ・フェスが、1965年7月に滋賀県で開催された『サンケイバレイ・ジャズ・フェスティバル』である。同フェスは毎年続く恒例イベントとなった。

『サンケイバレイ』は産経新聞社が開設したスキー場で、フェスはその駐車場で深夜に開催された。68年に産経新聞社が経営から撤退し、名古屋鉄道がスキー場を買収して以降は、名前が『びわ湖バレイ』に変わった。それにともなって、フェスの名称も『びわ湖バレイ・ジャズ・フェスティバル』となっている。当時の若者のアイコンであったアパレル・ブランド、VANが協賛していたことからもわかるように、サンケイバレイ・ジャズ・フェスティバルは極めて先進的なイベントだった。

「当時、ジャズはポピュラー音楽の中心であり、新しい文化をつくろうという動きとジャズが結びついて始まったのがジャズ・フェスティバルでした」(熊谷氏)

1967年の『サンケイバレイ・ジャズ・フェスティバル』 写真提供:大津市歴史博物館

65年といえば、東京オリンピックの翌年、ビートルズ来日の前年である。ここから1980年代の終わりまで日本の経済は速足の成長を続け、それにともなってジャズ・フェスも徐々に大型化していくことになる。

最長の歴史をもつジャズ・フェス『サマージャズ』

第1回サンケイバレイ・ジャズ・フェスが開催されたひと月後の8月に、東京の日比谷野外音楽堂で開催されたのが『サマージャズ』である。30組のミュージシャンがステージに立ち、3000人の観客が集まったフェスは、9時間にわたって続いたという。これほどのイベントが開催できたのは、同年に発足した日本人ジャズ・ミュージシャンによる『日本ジャズ協会』(現・日本ポピュラー音楽協会)のメンバーが総出演したからだ。

第1回から出演しているピアニストの今田勝によると、協会の理事には渡辺貞夫、松本英彦、ジョージ川口、笈田敏夫、日野皓正といった錚々たるミュージシャンが名を連ね、新宿ピットインがイベントのまとめ役を務めたという。全国のジャズ喫茶も開催に協力したようだ。観客は「芝生に寝っ転がって昼から酒を飲んじゃったりして。全然音楽なんて聴いてない人もいた」と今田は振り返っている。

「あの当時はお客さんがみんなゴザを持ってきて宴会していて、その前を通ると『今田さーん、一緒に飲もうよ!』と誘われて、一緒に飲んでいたことがたくさんあったね」(日本ポピュラー音楽協会ウェブサイト掲載のインタビューより)

現在も続いている日本のジャズ・フェスの中では、この『サマージャズ』が最も長い歴史をもつ。

第1回『サマージャズ』 のパンフレット。写真提供:日本ポピュラー音楽協会

サンケイバレイとサマージャズは野外型フェスとしてスタートしたが、ホール型フェスの先駆けとなったのが、1968年から始まった『全日本ジャズフェスティバル』だ。その前年にシャープス&フラッツを率いて米『ニューポート・ジャズ・フェスティバル』に出演した原信夫が企画したもので、今はなき新宿厚生年金会館をメイン会場に、横浜、浜松、名古屋、大阪などを回るスタイルで1972年まで開催された。

さらに1970年4月には、ヤマハが開発した『ヤマハリゾート合歓(ねむ)の郷』(現、ネムリゾート)で『合歓ジャズ・イン』が始まった。『サンケイバレイ』『サマージャズ』『全日本ジャズフェス』の初期の出演者はすべて日本のミュージシャンだったが、『合歓ジャズ・イン』には第1回からゲーリー・ピーコック(当時日本に滞在していた)のトリオが参加している。その点では、初の国際的ジャズ・フェスと言ってもいいかもしれない。そのほかの出演者は、渡辺貞夫カルテットと菊地雅章セクステットで、最後には渡辺、菊地、ピーコックにドラムの村上寛が加わったスペシャル・カルテットで「ストレート・ノー・チェイサー」を演奏したという。以後、このような「1回限りのメンバー」による演奏を聴くことができるのがジャズ・フェスの醍醐味のひとつとなっていく。合歓ジャズ・インは1984年まで計16回開催された。

1969年8月30日に日比谷野外音楽堂にておこなわれたライブの模様を収録。2枚組LP『サマー・ジャズ・イン・トウキョウ 』。発売元:キャニオンレコード
2枚組LP『サマー・ジャズ・イン・トウキョウ 』の中面

なぜ、ロックではなくジャズだったのか

日本でジャズ・フェスティバルがスタートした60年代後半は、海外でも大規模フェス文化が花開いた時期でもあった。大型ロック・フェスの先駆けと言われる米『モントレー・ポップ・フェスティバル』は1967年、英『ワイト島音楽祭』は68年に開催されている。翌69年には、今では大規模フェスの代名詞ともなっている米『ウッドストック・フェスティバル』が3日間にわたって催された。

フェスのニュースは日本にも逐一伝わって音楽関係者を大いに刺激したようだが、日本では長らく「フェスと言えばジャズ」という時代が続いた。なぜ、「ジャズ」の冠が付いたものが多かったのか。

「ロックは“不良の音楽”と見なされていたからです。70年代になると地方の公共団体主導の音楽フェスティバルが増えていきますが、ロックでは企画が通らず、予算もとれませんでした。ジャズ・フェスなら文化事業としての名目が立ったわけです」(熊谷氏)

日本のジャズ・フェスが最盛期を迎えるのは、1970年代の後半から80年代半ばにかけてである。これも今はなき東京・大田区の田園コロシアムで『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』がスタートしたのが1977年、長野県と新潟県にまたがる斑尾スキー場で『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』が開催されたのが1982年、山中湖畔での『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』のスタートは1986年である。

この3つのイベントは、のちに「日本3大ジャズ・フェスティバル」と呼ばれるようになった。3大ジャズ・フェスは、それ以前のジャズ・フェスとは規模においても内容においても一線を画すものだった。その詳細については別稿に譲りたい。

取材・文/二階堂 尚

※記事初出時より内容の一部を加筆修正いたしました。