投稿日 : 2021.04.28

バブルに踊る80年代のジャズフェス|取材陣はビール飲み放題─ペンション貸し切り大宴会

文/二階堂 尚 協力/熊谷美広 写真/米田泰久

80年代のジャズフェス 記事画像
日本のジャズフェス史/80-90年代

1960年代半ばにスタートした日本のジャズ・フェスティバル(詳細はこちらは、70年代後半から80年代にかけて黄金時代を迎えることになる。日本3大ジャズ・フェスと呼ばれる『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』。その3つの大型フェスの歩みを貴重な証言とともに辿る。

国際化した日本のジャズ・フェス

1ドルが200円を下回る時代になってようやく日本の戦後は終わった──。そんなことを言っていたのは、確か作家の村上龍だった。1ドル360円の固定相場制が変動相場制に変わったのが1971年、1ドルが200円を切ったのが1978年である。日本3大ジャズ・フェスティバルの1つ、『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』がスタートしたのは、その前年の77年7月だった。

ライブ・アンダー・ザ・スカイと、それに続く『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』に共通するのは、海外の大物ミュージシャンが毎回出演していることである。アメリカでもトップ・クラスのジャズ・ミュージシャンが当たり前のように日本のジャズ・フェスに出演するようになったのは、この時代からだった。円高によってミュージシャンのギャランティが割安になったことと、巨大スポンサーの協賛によってフェスの予算が潤沢になったことがその要因である。

『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』のメイン・スポンサーは日本たばこ産業(JT)、斑尾はバドワイザーだった。『マウント・フジ』のメイン・スポンサーは固定していなかったが、米ブルーノート・レコード、そのカタログの日本の販売元であった東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)、企画を発案した日本テレビ、そしてジャズ専門誌の『スイングジャーナル』という鉄壁の布陣によって運営されていた。

ライブ・アンダー・ザ・スカイのステージ画像
1990年の『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』。PARALLEL RIALITIES(ジャック・ディジョネット、ハービー・ハンコック、デイヴ・ホランド、パット・メセニー)のライブ。 写真:米田泰久

日本が80年代後半にバブル経済に突入することによって、これらのジャズ・フェスは活況を呈し、バブル崩壊とともに下火になっていった。日本が最も裕福だった時代の一つの象徴が、大型ジャズ・フェスティバルであった。

伝説の「雨の田園コロシアム」

『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』は、77年の第1回から81年の第5回まで東京・大田区の田園コロシアムで開催された。近隣への騒音問題でこの会場が使えなくなってからは、よみうりランド(神奈川県川崎市)内に新設されたよみうりランドEASTに会場を移した。その間、82年のみ開催が中止となっている。

田園コロシアム時代の『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』で今も語り草となっているのは、のちに「雨の田園コロシアム」と呼ばれるようになった第3回、79年夜の部のV.S.O.P.ザ・クインテットのステージである。V.S.O.Pは、60年代のマイルス・デイヴィス・クインテットからマイルスが抜けてフレディ・ハバードが加わったスペシャル・バンドで、77年の第1回に続いての出演だった。バンドは昼の部に続いてステージに立ったが、その開幕直前に会場を豪雨が襲い、土砂降りの中での演奏となった。雨は演奏が終わると同時にあがったと伝えられる。この演奏の記録は『Live Under The Sky ‘79』(邦題は『ライブ・アンダー・ザ・スカイ伝説』)としてレコード化され、それによって世界中にこのフェスティバルの名前が知られることとなった。現在は、昼の部を加えた2枚組のCDが発売されている。

87年にはマイルス・デイヴィスも出演したまさに世界的フェスだったが、JTがメイン・スポーサーを降りたことにより、1992年をもって終了となった。

V.S.O.P.ザ・クインテット『ライヴ・アンダー・ザ・スカイ伝説』。発売元:SMJ

取材陣もバドワイザー飲み放題

1982年にスキーリゾート斑尾高原を舞台に始まった『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』は、その名のとおりアメリカのニューポート・ジャズ・フェスティバルの日本版で、同フェスのライブの記録『アット・ニューポート』で知られるディジー・ガレスピーの出演が第1回の目玉だった。

会場がスキー場、メイン・スポンサーがバドワイザーということもあって、「大自然の中でビールを飲みながら演奏を楽しむ」という現在の『フジロックフェスティバル』につながるフェスのスタイルが、このイベントによって定着した。何度も斑尾に足を運んで取材をした音楽ライターの熊谷美広氏によれば、「取材陣もバドワイザーが飲み放題だった」という。

「プレス用のテントが用意されていて、そこではバドワイザーが自由に飲めました。一社から記者とカメラマンの2人が招待されるのですが、取材陣がほぼ電車1両を占めて現地まで行きました。その日のライブが終わると、貸し切りのペンションでイベント・スタッフと夜な夜な大宴会でしたね」

ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾
1985年の『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』 写真:米田泰久

まさしく、バブル時代ならではのエピソードと言うべきだろう。バドワイザーがメイン・スポンサーだった91年までは5日間にわたって開催されていたイベントだったが、スポンサーが日本通運に代わった92年以降は3日間となり、94年にはスポンサーが見つからずいったん中止となった。98年にシティバンクがスポンサーとなって復活し、途中スポンサーがボーダフォン(現・ソフトバンク)に代わっている。フェスの歴史が幕を閉じたのは2003年である。なお、2007年からスタートして現在も続いている『斑尾JAZZ』は、地元の有志が中心となって企画している社会人バンド中心のジャズ・イベントで、『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』との直接的なつながりはない。

そして、『ライブ・アンダー・ザ・スカイ』『ニューポート・ジャズ・フェスティバル・イン・斑尾』に続く国際的ジャズ・フェスとして1986年にスタートしたのが、『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』である。このイベントは、あの名門ジャズ・レーベルの復活と深い関連があった。

ブルーノート復活とともにスタートした『マウント・フジ』

ジャズ・レーベルの名門、ブルーノート・レコードが活動をいったん終えたのは1979年だった。創設者のアルフレッド・ライオンが体調悪化で一線を退いたのが活動停止の理由の1つだったが、ジャズ・レコード市場の縮小が続いていたことも経営に大きく影響していた。

ブルーノートが再び注目を集めたのは、その5年後の84年である。この年、コロンビア・レコードの社長だったブルース・ランドヴァルがブルーノートの社長に就任することが発表され、名門レーベルは新たな出発を遂げることとなった。その新しい船出を人々に知らせるために企画されたのが、85年にニューヨークのタウン・ホールで開催されたコンサート『ワン・ナイト・ウィズ・ブルーノート』である。ブルーノートに録音を残した数々のジャズ・ジャイアンツが出演し、アルフレッド・ライオンも出席して盛況を博したこのコンサートを日本で再現する企画がほどなくもちあがった。それが、翌86年にスタートした『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』である。

第1回『マウント・フジ』の3日間のイベントに出演したのは、ミルト・ジャクソン、ハービー・ハンコック、アンドリュー・ヒル、ボビー・ハッチャーソン、ジャッキー・マクリーン、スタンリー・タレンタイン、ミシェル・ペトルチアーニ、カーメン・マクレエらであった。まさしく錚々たる面子というほかない。

1987〜1989年の『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』パンフレット。中面は大企業の広告ページが多く景気の良さわかる。開いているページは第1回(1986年)の会場風景。資料提供:一般社団法人 ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館

ジャズ・フェス黄金時代の終わり

「悪天候にもかかわらず、フェスティヴァルは猛烈に盛り上がった。熱狂する日本の聴衆はジャズをよく知っていて、このイベントがいかに特別なものかわかっていた。集まったバンドがソニー・クラークの〈クール・ストラッティン〉の最初の数小節を演奏し始めると、聴衆のあいだに一斉にどよめきが走り、あっけにとられた奏者たちが音をはずしかけたほどだった」(『ブルーノート・レコード』リチャード・クック/朝日文庫)

『ブルーノート・レコード』著・リチャード・クック/刊・朝日文庫

このフェスについても、音楽ライターの熊谷美広氏の貴重な証言がある。出演するミュージシャンが宿泊していたのは、山中湖畔に立つホテルマウント富士で、このホテルの地下の宴会場がリハーサル・ルームとなっていた。グランド・ピアノが置かれたその部屋でハービー・ハンコックがリハをしていると、ホテルに泊まっていた若手ピアニストたちがハービーの周りに集まり、彼の指使いを熱心に観察し始めた。リハーサルは、そのままハービーによる即席のピアノ教室になってしまったという。

『マウント・フジ』は96年まで毎年開催され、そこでいったん幕を閉じた。その後、2002年にスバルをメイン・スポンサーに、会場を富士スピードウェイに移して復活したが、そこから続いたのは3年だけで、結局04年が最後の開催となった。日本3大ジャズ・フェスの中で最後まで続いた『マウント・フジ』の終結をもって、日本のジャズ・フェスティバルの黄金時代も終わったのだった。

マウントフジジャズフェスティバルの写真
2002年に富士スピードウェイで開催された『マウント・フジ・ジャズ・フェスティバル』 写真:米田泰久

ポスト・バブルを経て、ポスト・コロナへ

一方で、1997年には『フジ・ロック・フェスティバル』がスタートし、それから数年で『ライジング・サン・ロック・フェスティバル』『サマー・ソニック』『ロック・イン・ジャパン・フェスティバル』といった現在まで続く大規模ロック・フェスティバルのラインナップが出揃った。こちらは「日本4大ロック・フェス」と呼ばれているが、これらのイベントが若年層の絶大な支持を集めることによって、日本のフェス文化は完全にロックへと移行した。人々の金の使い方が「モノ消費」から「コト消費」に移ったと言われ始めたのもこの頃で、CDという「モノ」は買わないが、フェスという「体験」には惜しみなく金を使うという音楽嗜好のスタイルが広まっていった。

もっとも、これによって日本のジャズ・フェスの歴史が潰えたわけではむろんない。2002年には、NHKと日本経済新聞社というメガ・メディアが主導する『東京JAZZ』がスタートし、新しい国際的ジャズ・フェスの形を提示した。半世紀以上前にスタートした『サマージャズ』は現在も続いている。また、全国各地で地域の音楽ファンやミュージシャンの手づくりによるジャズ・フェスが数多く開催されている。1993年にスタートして現在も続く『横浜ジャズ・プロムナード』などがその代表的なものだ。日本のジャズ・フェスの現状については、別稿で詳しいレポートがあるはずである。

東京JAZZの画像
2002年に味の素スタジアムで開催された第1回の『東京JAZZ』 ©️東京JAZZ 2002

2020年にはコロナ禍によって数多くのフェスティバルが残念ながら中止となり、今年の開催も今のところは未知数である。しかし、一度根づいたジャズ・フェスの文化はこれからも形を変えながら続いていくだろう。人口減少が続く日本に、あの80年代のような金満の時代が再び訪れることはあるまいが、それぞれの時代に応じたフェスのあり方は必ずあるはずだ。昨年、『東京JAZZ』は「オンライン・フェス」という新しいスタイルにチャレンジして大きな話題を集めた。コロナ禍が去ったのちのジャズ・フェスはどのような姿になっているのか。ポスト・バブルを経て、ポスト・コロナへ──。日本のジャズ・フェスティバルのこれからが楽しみである。

取材・文/二階堂 尚

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