MENU
父の音楽の趣味に影響され、横浜の下町の人々を観客として歌うことの喜びを得た幼い日の美空ひばりだったが、11歳の頃に「私のたった一人の先生」とひばりが呼ぶ人物と出会うことになる。戦前に一世を風靡した〈あきれたぼういず〉の中心メンバーであった川田晴久である。川田とひばりの出会いによって、日本の大衆歌の命脈は戦前から戦後に引き継がれたと見ることも可能だ。その二人は、日本がまだ占領下にあった1950年にアメリカに渡ったのだった。「ヒップの誕生・美空ひばり編」第2弾をお届けする。
第1弾はコチラ
日本で最初の本格的コミック・バンド
特定の音楽家に師事することなく、横浜のはずれの下町の人々の前で歌うことによって歌い手としての地歩を築いた美空ひばりだったが、彼女が唯一「師匠」と呼んだ人物がいる。戦前に活躍した〈あきれたぼういず〉のメンバーであり、ギター浪曲の生みの親であった川田晴久である。戦前は川田義雄の名で〈あきれたぼういず〉のリーダー格として活躍し、戦後になって改名してからも、映画や舞台などで大いに人気を集めた。
〈あきれたぼういず〉を紹介する際は、ヴォードビル・アクティング・グループ、ヴォーカル・インストルメンタル・グループ、ジャズ漫才チームなどさまざまな表現が用いられるが、今日の言葉で言えば要するにコミック・バンドである。その後の〈クレイジーキャッツ〉や初期〈ドリフターズ〉のように、「演奏し、歌い、笑わせる」芸を日本で最初に確立したグループが〈ぼういず〉だった。
しかし、その音楽的・文芸的教養の広さと深さにおいて、〈ぼういず〉を凌ぐグループはおそらく以後の日本にはいない。「チョイと出ましたあきれたぼういず/暑さ寒さもチョイと吹き飛ばし/春夏秋冬明けても暮れても/歌いまくるがあきれたぼういず」という決まりのコーラスからスタートし、浪曲、琵琶歌、新内節、童謡、軍歌、ジャズ、シャンソン、タンゴ、ルンバ、ハワイアン、ヨーデル、クラシック、さらには百人一首、石川啄木の短歌、ポパイやドナルド・ダックなどのアニメ・キャラクター、当時人気だった活動弁士やアナウンサー、ニワトリ、アヒル、猫、カエルの声帯模写と、一つの曲の中に雑多極まる要素をぶち込みながら、全体に笑いの味つけを施して客を楽しませる芸は、手の込んだミクスチャー・ミュージックであり、複雑なコラージュ・アートであった。
そのセンスは、〈クレージー〉や〈ドリフ〉よりもむしろ、70年代のタモリの密室芸や、80年代のスネークマンショーに引き継がれていると言えるかもしれない。「中洲産業大学助教授」に扮して、世界中の音楽をでたらめな曲名とでたらめな言葉で歌いながら解説するタモリの「教養講座『音楽の変遷』」などの芸は、〈あきれたぼういず〉の明らかな影響下にあるように思える。
辛い芸の世界にともされた暖かな灯
もっとも、〈ぼういず〉、とりわけ川田晴久の音楽にでたらめな要素は一切なかった。浪曲界のスター・広沢虎造のテクニックから学んだと言われる歌と、ギター・プレイ、演奏のテンポと間合いは、まさに一流の音楽家の技と言ってよかった。ギャグのパートに今日笑える部分は一つもないが、笑いが時代とともにある以上、時代が変わればおかしみも変わる。変わらないのは音楽の価値である。
〈あきれたぼういず〉の本格的な活動期間は、日中戦争開戦の翌年からのわずか1年弱にすぎなかったが、川田はその後もソロ、さらに〈ミルクブラザーズ〉〈ダイナブラザーズ〉といったバンドで活動を続けた。「地球の上に朝がくる/その裏側は夜だろう」という一節で有名な『地球の上に朝がくる』はミルクブラザーズ時代の代表的な曲で、これによって「川田ぶし」が完成したと言われる。「川田ぶしの異常な人気は、その陽気な歌声が戦時中という檻にさしこんだ一筋の光明として、大衆にうけとられたからである」と竹中労は言う(『完本 美空ひばり』)
その川田晴久と美空ひばりが出会ったのは1948年、ひばりのプロ・デビューの舞台となった横浜国際劇場での公演においてである。川田らベテラン勢に加えて地元の少女歌手が出演するという趣向の5日間の公演だった。11歳の天才歌手の歌を聴いた川田は、その後、ひばりを公私両面でバックアップすることになる。ひばりと実母でマネージャーでもあった喜美枝の2人は、川田が経営する神楽坂の旅館に寄宿していたこともあった。
「川田さんと親しくしていただけたことは、つらい芸の世界に生きる上での一つのあたたかい灯のようなものでした。私のたった一人の先生でした」(『ひばり自伝』)
闇市から世に出た歴史的音源
ひばり母娘と川田の3人がハワイに向けて旅立ったのは、その2年後、1950年5月のことである。日系アメリカ人二世を中心に編成された米第100歩兵大隊が主催する公演に出演するためだった。もちろん、ひばりにとって初の海外公演である。
「最初の会場は野外でした。ものすごい入りでわたしはびっくりしました。どこまでも人の頭で埋まっているのです。こんなことはめったにないことだということでした」(『ひばり自伝』)
3人はその後アメリカ本土に渡り、西海岸をおよそ2カ月にわたってツアーした。事実としては知られていたが、音は残っていないと思われていたひばり初のアメリカでのライブ。その「幻の音源」が発見されたのは、今世紀に入ってからである。
2008年、カナダの録音機器マニアがネット・オークションのeBayでワイヤー・レコーダーを落札した。ワイヤー・レコーダーとは、戦後の一時期流行した鋼鉄線に音を磁気録音する録音機器で、その付属品の古いリールの一つに日本語らしい歌が入っていることにそのカナダ人は気づいた。その後YouTubeで音源に当たって、その歌の主が美空ひばりというシンガーであることを彼は突き止めたのだった。
MCの内容から、カリフォルニア州サクラメント市でのステージであることもわかった。オークションへの出品者に問い合わせたところ、レコーダー、リールともにサクラメント市のフリーマーケットで入手したもので、出どころはわからないとの答えだった。録音者不明の歴史的記録がカリフォルニアのいわば闇市から日の当たる場所に出たのは、まったくの偶然だった。
生ける「歌のエンサイクロペディア」
現在、日本コロンビアから発売されているその音源『美空ひばり&川田晴久 in アメリカ1950』を聴いて驚くのは、音質のよさもさることながら、ひばりの歌いっぷりの素晴らしさである。当時13歳だった彼女の持ち歌は、デビュー曲の「河童ブギウギ」と10万枚の大ヒットとなった「悲しき口笛」のわずか2曲だけだったが、ほかに岡晴夫の「港シャンソン」や笠置シヅ子の「ヘイヘイブギー」「コペカチータ」、ダイナ・ショアの「ボタンとリボン」などを歌っている。
笠置シヅ子の2曲はオリジナルも相当の名唱だが、ひばりの歌はそれよりも塩辛くブルージーな味わいがあってエッジが効いている。笠置シヅ子は、この小さな天才歌手に恐れをなして、自分の曲を歌うことを禁じた。その歌をひばりが歌えたのは、そこがアメリカだったからだ。その点でもこれは極めて貴重な音源と言うべきである。
観客の多くは日本語を解する日系二世、三世で、川田の漫談に即座に反応していることでそれがわかる。観客たちは、ひばりが一曲歌い終えるたびに割れるような拍手を送る。その観客の温かさと、そばに川田がいる安心感によって、ひばりは持てる力をすべて発揮できたに違いない。竹中労は、ひばりの歌における川田の存在の大きさをこう説明する。
「日本の音律は、巷の音楽家であった父親によって選択され、濾過されて、ひばりの幼い生命にそそがれた。そして、歌手としての出発の時に、川田晴久という、不世出の大衆芸術家にめぐりあった。いわば、歌のエンサイクロペディア(百科事典)であった川田から、ひばりはありったけの知識と技術を吸収した。美空ひばりの『芸』は、そうして形成された」(『完本 美空ひばり』)
しかし、川田晴久が美空ひばりに与えた影響は、歌だけではなかった。ひばりと山口組三代目・田岡一雄の太い絆。そのつながりのきっかけもまた、川田に発していた。
(次回に続く)
〈参考文献〉『完本 美空ひばり』竹中労(ちくま文庫)、『ひばり自伝──私と影』美空ひばり(草思社)、『ぼういず伝説』あきれたぼういず(ビクターエンタテインメント)ライナーノーツ、『美空ひばり&川田晴久 in アメリカ1950』(日本コロムビア)ライナーノーツ
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。