ARBAN

【渡辺貞夫】ナベサダの「アフリカ時代」を代表する名盤─ライブ盤で聴くモントルー Vol.33

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

渡辺貞夫は1970年代に3度モントルー・ジャズ・フェスティバルのステージに立っている。その記録として最もよく知られているのは『モントルー・ジャズ・フェスティヴァルの渡辺貞夫』だが、3回目のステージを収録した『スイス・エア』もそれと甲乙つけがたい名盤である。彼がアフリカ音楽を探求していた時期の作品で、演奏にもアフリカ色が色濃くあらわれている。それ以前に彼が取り組んできた4ビート・ジャズやボサノヴァとは一線を画す音楽だったが、それもまた紛れもない「サダオ・ミュージック」であった。今年演奏生活70周年を迎える渡辺貞夫。その「アフリカ時代」の代表作を紹介する。

ケニアのライブ・ハウスで得た新しいバイブス

「ダル・エル・サラーム(アフリカ・タンザニアの首都の港町)の港で聞いた自然音というか、船の汽笛だとか鳥の声、潮騒の音とか、あれはおれにとって大シンフォニーだった」

自伝『ぼく自身のためのジャズ』で渡辺貞夫はそう語っている。モントルー・ジャズ・フェスティバルへの初出演後、そのままニューヨークに向かってチック・コリア、ジャック・ディジョネットらと『ラウンド・トリップ』を録音した渡辺の次の転機となったのが、アフリカ訪問だった。モントルー出演の翌年、彼はテレビのドキュメンタリー番組のリポーターとして初めてアフリカを訪れている。1972年1月のことである。

「ジャズの源をたどっていくと、アフリカの民族音楽に行き着く。一度は訪れてみたいと思っていたので、リポーターの打診があった時点ですぐに飛びつきました」(『秋吉敏子と渡辺貞夫』)

ケニアの首都ナイロビに到着した渡辺は、その夜に早くもライブ・ハウスを訪れ、ステージに飛び入りして演奏する機会を得た。

「現地のバンドと共演していると、大地の鼓動を思わせるようなリズムに圧倒されました。簡潔で力強く土着的で、どこかロックのリズムにも通じる。そこに浸っていると、何とも言えぬ陶酔感を覚えるのです。アフリカの地を踏み、よかった。心底、そう思いました」(同上)

『秋吉敏子と渡辺貞夫』著・西田浩/刊・新潮社

70年代初頭のケニアのライブ・ハウスで演奏されていた音楽とは、どのようなものだったのだろうか。日本人の多くがロンドンとパリから輸入する形でアフリカの同時代の音楽に本格的に触れるようになったのは、80年代半ば以降のことである。その音楽は世界の他国・他地域の音楽とともに「ワールド・ミュージック」と呼ばれた。渡辺がアフリカの音楽を知ったのは、それよりも15年近く前のことだ。彼はおそらく予備知識もほとんどないままでアフリカ音楽に直に触れ、そのビートやフィーリングを身体に吸収して帰国したのだった。

5年間にわたって続いたアフリカ音楽探求

帰国後、その鮮烈な経験をいかした新作のレコーディングに渡辺はとりかかる。それが彼のキャリアに新境地を開いた『SADAO WATANABE(1972年)だった。野獣の唸りのような、あるいはサバンナの稲妻のような高柳昌行のギターが印象的なこの作品が、渡辺貞夫の「アフリカ時代」の最初の作品となった。

以後、「アフリカ時代」と「フュージョン時代」をつなぐ一作であるマイ・ディア・ライフ(1977年)まで、およそ5年間にわたって渡辺貞夫のアフリカ音楽探求は続いた。その間、74年6月には、タンザニアで活動する青年海外協力隊員を描いた映画『アサンテサーナ/わが愛しのタンザニア』の撮影に同行して再びアフリカを訪れている。「この2回の旅で、アフリカが僕の音楽の柱の一つになったのは間違いないですね」と本人は振り返っている。

渡辺貞夫『SADAO WATANABE』(1972年)

アフリカ時代の成果には、『SADAO WATANABE』のほかに、ケニアのミュージシャンと共演した『ケニヤ・ヤ・アフリカ』(1973年)、日野皓正、富樫雅彦、本田竹曠、渡辺香津美、日野元彦といった当時第一線で活躍していたスター・プレーヤーたちを集めて録音した2枚組のライブ盤『ムバリ・アフリカ』(1974年)などがあるが、モントルー・ジャズ・フェスティバルの記録である『スイス・エア』もまた、この時代の渡辺貞夫を代表する作品の一つだ。彼は1970年、73年、75年と、この時期頻繁にモントルー・フェスに出演した。70年のステージの記録が『モントルー・ジャズ・フェスティヴァルの渡辺貞夫』、75年の記録が『スイス・エア』である。

混然一体となった東洋とアフリカの空気感

『スイス・エア』に収録された5曲中3曲がアフリカの民俗音楽を渡辺が独自にアレンジしたもので、それらの曲の中には、今日「スピリチュアル・ジャズ」の名でくくられている一群のミュージシャンの音楽、なかんずくその筆頭であったジョン・コルトレーンの影響が強く感じられるものもある。しかし、それらのミュージシャンが「アフリカン・アメリカンによるルーツ探訪」という文脈の中でアフリカにアプローチしたのに対し、渡辺貞夫は一日本人として、テレビ番組のレポーターというイレギュラーな仕事でアフリカ音楽に出会い、たくましくもその偶然性を自分の音楽を太らせる糧としたのだった。

コルトレーンの影響は1曲目、8分の6拍子から途中4ビートに変わる「マサイ・ステップ」に最も濃厚で、8ビートにアレンジされた2曲目の「タンザニア・エ」と、フルートの牧歌的なトーンとピアノの繊細なコード・プレイの絡みが特徴的な最終曲「パガモヨ」では、そこから一歩抜け出した独自の音楽が展開される。とくに「パガモヨ」は東洋とアフリカのフィーリングが混然一体となった独創的な曲で、収録の尺の都合で3分半程度でフェイド・アウトしてしまうのがいかにも惜しい。

1975年7月18日、モントルー・ジャズ・フェスティバルでの渡辺貞夫

アフリカ的要素を自家薬籠中のものとした名曲

しかし、それらを上回って素晴らしいのは美しい「スウェイ」とウォーキング・ベースが躍動する「ウェイ」のオリジナル2曲である。いずれも、渡辺がビバッパーとしての自分の体内にアフリカ的要素を完全に取り込んで自然に生まれ出たような曲で、たった4人でこれほどの豊穣な世界を表現したバンドの力量も間違いなく世界レベルだった。とりわけ本田竹曠のピアノ・プレイが素晴らしく、思わず感嘆のため息が漏れてしまう。

渡辺は、アルトとソプラニーノとフルートを曲によって使い分けているが、とくにこの時期の彼の音楽にはソプラニーノがよく合っている。彼がこのレアなサックスを使い始めたのはアフリカ音楽に出会う前だったが、その向日的な音色が自分の中のアフリカの印象とぴったりと一致していると彼自身感じていたのではないだろうか。

この6月に開催される渡辺貞夫のデビュー70周年記念コンサートには、「Sadao Watanabe JAZZ & BOSSA with STRINGS」というタイトルが冠されている。第一に日本最高峰にして最長老のビバッパーであり、第二に日本のボサノヴァのオリジネイターである渡辺貞夫だが、70周年を機に「アフリカ時代」の彼の野心的音楽もあらためて再評価されるべきだと思う。

文/二階堂 尚

〈参考文献〉『渡辺貞夫 ぼく自身のためのジャズ』渡辺貞夫 (日本図書センター)、『秋吉敏子と渡辺貞夫』西田浩(新潮新書)


『スイス・エア』
渡辺貞夫

■1.Masai Steppe 2.Tanzania E 3.Sway 4.Way 5.Pagamoyo
■渡辺貞夫(as、fl、Sopranino Sax)、本田竹曠(p)、河上修(b)、守新治(dr)
■第9回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1975年7月18日

ARBANオリジナルサイトへ
モバイルバージョンを終了