投稿日 : 2021.07.06 更新日 : 2021.09.07
山口組三代目と美空ひばり、その宿命的関係【ヒップの誕生】Vol.26
文/二階堂尚 写真/パブリックドメイン(朝日新聞社『アサヒグラフ』1953年4月29日号)
MENU
暴力団対策法の施行以前、興行はヤクザ組織の大きな収入源の一つだった。とくに最大組織である山口組は、興行部門である神戸芸能社の稼ぎなくしては組の運営が成り立たなかったもと言われる。その神戸芸能社の最大の稼ぎ頭の一人が、美空ひばりだった。山口組三代目・田岡一雄はひばりを実の娘のように寵愛し、ひばりは田岡の庇護のもとでスター街道を歩んでいった。しかし、なぜこの二人は相思相愛の関係となったのだろうか。その背後にあったヤクザ界と芸能界の歴史的宿縁を探る。
お嬢の身はワイが命に換えても守る
山口組三代目・田岡一雄が「ひそかなファンであった」という川田晴久の舞台を大阪劇場で見たのは1948年だった。その時期、川田は持病の脊椎カリエスを悪化させていて、車椅子で舞台に立っていた。その姿を見て「思わず絶句した」と田岡は振り返っている。
「華やかな彼の全盛時代を知るわたしたちの年代にとって、車椅子に乗って舞台をつとめる川田の姿はあまりにも痛々しかった」(『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』)
田岡は楽屋に赴いて一ファンとして川田を元気づけようと思ったが、「もう、いけませんなァ」と弱々しい言葉を吐く川田を見て「じぶんの力で再起できぬというならば、わたしが首に縄つけてもこの男を再起させてやろう」と考えたという。当時、川田は山口組と関係の深い吉本興業の所属だった。田岡は吉本興業と話をつけて川田の身柄を引き受け、旧知の福島通人にマネジメントを依頼した。元横浜国際劇場の支配人であり、その後美空ひばりを売り出すために新芸術プロダクションを立ちあげた福島通人である。こうして田岡とひばりの間にその後長きにわたって続く縁が生まれることになる。ひばり母娘が田岡のもとを初めて訪れたときの様子は前々回に書いたとおりだ。
ひばりと田岡の関係が決定的に深くなったのは、出会いから9年後、ひばりファンにはよく知られている「塩酸事件」が起こってからだった。ひばりの熱狂的なファンであった10代の少女が、浅草国際劇場の舞台の揚幕裏で出番を待つひばりの顔に塩酸を浴びせかけた事件である。「あの美しい顔をみにくくしてやりたい」というのが犯行の動機で、ひばりは複雑に屈折したファン心理の犠牲となったのだった。
同劇場の上階で福島らとポーカーに興じていた田岡は、事件の一報を聞いてすぐにひばりのもとに駆けつけた。幸いひばりは軽傷ですんだが、田岡は深い自責の念に駆られた。「お嬢にもママにも、二度とこんな悲しい思いはさせへんでえ。お嬢に仇をなそうとする者には、誰であっても、指一本ふれさせん。ワイの命に換えてもな……」と田岡は語ったと『実録小説 神戸芸能社』(山平重樹著)では描写されている。
「傷も癒えて、ひばりが再び舞台に立つことができるようになると、その公演には田岡が付くのはもとより、山口組の若い衆が前以上にあたりにくまなく目を光らせ、ひばりを厳重にガードするようになった」(同書)
1957年、ひばりが19歳のときの出来事であった。
勢力拡大のために欠かせない存在
ひばりにとって田岡は、芸能活動に協力的ではなかった実父・増吉に代わる父親のような存在であり、ある時期の田岡とひばり母娘は疑似的な家族のような関係にあった。しかし、それは必ずしも人間的絆のみによって結ばれた関係ではなかったようだ。
「田岡一雄の美空ひばりに対する可愛がり方は普通じゃなかった。だから彼の個人的な美空ひばりへの愛情という部分もあったでしょうが、それ以上に、山口組という組織にとって、美空ひばりという芸能人は、その勢力拡大のために欠かすべからざる存在であった」
そんな発言を残しているのは、『往生際の達人』などの著書で知られる芸能評論家の桑原稲敏である(『「戦後」美空ひばりとその時代』本田靖春)
「美空ひばりが地方の劇場で公演をやる。そこで地元の暴力団組織がどう対応するか。もし黙って看過するなら、それは山口組に対して、争う意思がないということであり、何らかの妨害をすれば、争うという意思表示になる。山口組にとって、敵か味方かという判断は、先方の組事務所と事を構えるという面倒な手続きを踏まなくても、美空ひばりの公演をやれば、はっきりつくというわけです」
一方、ひばりにとっても田岡のバックアップはスターを目指す身として欠かせないものだった。「美空ひばりが歌謡界の女王になるまでを、日本最大の暴力組織山口組を抜きにしては一言も語れないし、また、山口組の後押しがなければ、今日の美空ひばりはあり得なかったと断言できます」と桑原は言う。
庶民の夢のネガとポジ
山口組が勢力を拡大するに当たって、興行部門である神戸芸能社が果たした役割は極めて大きかった。神戸芸能社がマネジメントする芸能人(ひばりはその筆頭だった)の地方公演の際には、山口組系列のヤクザがその土地土地のヤクザ組織に対し、「通れるだけの道をあけてください。でないと、大きな岩を動かしますよ」と告げたと言われる。「大きな岩」が何を意味するかは言うまでもないだろう。そうして拓かれた「道」を悠然と歩きながら、ひばりは日本全国での公演を成功させていったのである。
『完本 美空ひばり』の著者である竹中労は、「私はひばりと山口組との関係を、『必要悪』であったと考える」と言っている。「芸能界、とくにステージや地方巡業と不可分の関係にある歌手・楽団の場合、ヤクザ集団との連帯がなければ、事実上公演ができない」からであるというのがその理由だ。同時に、ひばりのような芸能人と山口組のようなヤクザ組織は、「資本主義社会が生んだ一卵性双生児」であり、その結びつきには必然性があるというのが竹中の見立てである。
ヤクザとスターは「庶民の夢のネガ(陰画)とポジ(陽画)」であり、「貧しい階級に生まれた少年少女が、その出生の願望を手っとり早く果たす手段は、ヤクザになるかスター志願か、二つに一つである」と竹中は言う。徳島の貧農の家に生まれた田岡一雄はヤクザとなり、横浜の下町の小さな魚屋の娘として生まれたひばりはスターを志願した。そこにはいわば宿命的な結びつきがあったというわけだ。
「周縁社会」の住人としてのヤクザと芸能人
同様の「階級論」は、宮崎学の『ヤクザと日本』の中にも見られる。「近代大衆芸能をになう芸能者たちは、近代の都市下層社会、それももっとも仮想の底辺社会から生まれてきた」のであり、「その都市下層社会、底辺社会は、近代ヤクザが生まれてきた場でもあった」のだと。
宮崎によれば、ヤクザ界と芸能界のルーツは、いずれも江戸期の「周縁的社会集団」にある。すなわち、武士、百姓、公家、僧侶、職人、家持町人といった身分に分類されない社会外の民ということだ。明治維新によって近世の身分制度は解体されたが、ヤクザと芸能人がともに「周縁社会」の住人であるという事実は、近代以降も変わらない。そう宮崎は言う。
市民社会から弾かれた周縁の住人同士、相惹かれ合うものがあった──。その見方が、美空ひばりと田岡一雄の、あるいは芸能界とヤクザ界の結びつきを説明するのに妥当なのかどうかはわからない。一つ言えるのは、この構造は日本だけに特有のものではないということだ。
竹中は、美空ひばりと田岡一雄の関係を、禁酒法時代のアメリカの「暗黒街の顔役」であったアル・カポネとジャズ・ミュージシャンたちとの関係になぞらえてみせる。
「ジャズの草創期、ルイ・アームストロングたちがシカゴに進出したときも、同様の事情があったのである。ナイト・クラブで演奏するジャズメンたちはカポネのシンジケートにわたりをつけなくてはならなかった。そして、その庇護のもとに、彼らの音楽を完成していったのである。ギャングたちは、熱狂的なジャズのファンでもあった。一九二〇~三〇年代のアメリカ社会で、ジャズは阻害された無法者(アウト・ロー)たちの音楽であった。なべて、庶民社会の芸能は無法の群れ──ヤクザ集団と結びついていく傾向を持つ」(『完本 美空ひばり』)
今から100年前。禁酒法時代のアメリカにおけるギャング界とジャズ界の関係とは、果してどのようなものだったのか。その事実を考察する前に、美空ひばりとジャズの関係を掘り下げることで、この連載の「美空ひばり編」の締めとしたい。キーパーソンは、先頃94歳で没したシャープスアンドフラッツの原信夫である。
(次回に続く)
〈参考文献〉『完本 山口組三代目 田岡一雄自伝』(徳間文庫カレッジ)、『実録小説 神戸芸能社』山平重樹(双葉文庫)、『「戦後」美空ひばりとその時代』本田靖春(講談社文庫)、『完本 美空ひばり』竹中労(ちくま文庫)、『ヤクザと日本』宮崎学(ちくま新書)、『山口組概論』猪野健治(ちくま新書)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集・ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムやさまざまなジャンルのインタビュー記事のほか、創作民話の執筆にも取り組んでいる。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。