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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
本国アメリカでは、アレサ・フランクリンと並ぶソウル・シンガーと評価されているものの、日本では玄人好みの歌い手であり、必ずしも知名度が高いとは言えないのがエタ・ジェイムズである。しかし、最近発売されたモントルー・ジャズ・フェスティバルの過去のライブ集『The Montreux Years』を聴くと、彼女のブルージーでエネルギッシュなボーカルの素晴らしさがよくわかる。名門チェス・レコードを代表するアーティストであり、後進のシンガーたちにも大きな影響を与えたエタ・ジェイムズ。その魅力にあらためて迫る。
ビヨンセが演じたチェスの代表的ボーカリスト
ブルース/R&Bの名門レーベル、チェス・レコードの盛衰を描いた『キャデラック・レコード』は、ストーリーにいくぶん散漫な印象があるものの、観終わった後にブルースを浴びるほど聴きたくなるという点でたいへんに優れた音楽映画だった。この作品で、マディ・ウォーターズ、リトル・ウォルター、ハウリン・ウルフ、チャック・ベリーらとともにレーベルのスターの一人として登場するのがエタ・ジェイムズである。演じたのは映画の製作総指揮も務めたビヨンセだった。
作中でエタは、気性が激しい一方で繊細な心をもつジャンキーとして描かれているが、これはかなり正確な描写であった。時に涙を流しながらエタを熱演するビヨンセを見ていると、彼女は自らエタを演じるために製作総指揮の役を買って出たのではないかと感じられる。作品が公開された2008年当時に存命だったエタは、スクリーンの中の自己の姿をどのような思いで観ただろうか。
エタがチェスに残したアルバムはライブ作を含めて14枚で、67年の『コール・マイ・ネーム』と、R&Bの聖地、マッスル・ショールズ・スタジオで録音された翌年の『テル・ママ』がとりわけ評価が高い。チェスというレーベルの性格もあるが、同じくゴスペルをルーツに持つシンガーで一時期ライバルと目されていたアレサ・フランクリンと比べて、エタはブルース色の極めて濃いソウル・シンガーだった。
R&B、ファンク、ジャズ、ストリングスをバックにしたポップスとどのようなスタイルの曲を歌っても、ドスの利いた塩辛い彼女の声があれば、その曲は広義のブルースとなった。どんなジャズ・スタンダードを歌ってもブルースになってしまったダイナ・ワシントンと同様の魅力をもったシンガーであった。
ブルース・シンガーとしてのアイデンティティ
最近BMGからリリースされた『The Montreux Years』は、モントルー・ジャズ・フェスティバルの膨大な音源をコンパイルしたシリーズで、ニーナ・シモンとともに第一弾として発売されたのがエタ・ジェイムズのアルバムである。アナログは複数年のステージから優れた演奏を集めた2枚組のベスト・ライブ・アルバム。CDのほうは、アナログと同じ音源をディスク1に集め、ディスク2にはそれとは別のワン・ステージがまるまる収められている。ニーナとエタのアルバムが同じ構成になっているところを見ると、これがどうやらシリーズ共通のコンセプトらしい。
ベスト・ライブを集めたCDのディスク1は、演奏年は曲ごとにまちまちであるにもかかわらず、すべてが同じステージで演奏されたような素晴らしいミックスになっていて、全体の流れも意識されているので、まるで一つのライブを通しで聴いたような感覚を得られる。一方、ディスク2はモントルーの歴史のひとコマをそのまま切り取った一種のドキュメントとして楽しむことができる。かなり考えられた編集と言っていいと思う。
エタのディスク2のライブは1975年。彼女にとってモントルー初出演であるばかりでなく、初のヨーロッパ公演でもあったステージだった。冒頭のアナウンスで、ベース奏者がジョン・ポール・ジョーンズであると紹介され会場からひときわ高い歓声が上がるが、これはレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズだろう。
ステージは、ステイプル・シンガーズの「リスペクト・ユアセルフ」からスタートし、間に自分の代表曲を入れながらも、ほとんどブルースの名曲紹介の趣で進んでいく。レイ・チャールズの「ドロウン・イン・マイ・オウン・ティアーズ」、エルモア・ジェイムズの「ダスト・マイ・ブルーム」、ジミー・リードの「ベイビー・ホワット・ユー・ウォント・ミー・トゥ・ドゥ」、B・B・キングの「ロック・ミー・ベイビー」と来て、最後はT・ボーン・ウォーカーの「ストーミー・マンデイ」で締める構成だ。彼女の歌を初めて直接聴く欧州の聴衆に対して自己のアイデンティティを明確に示そうと思えば、おのずとセット・リストはブルースだらけになった。あるいはそういうことだったのかもしれない。
英国のシンガーたちもカバーした名曲
ブルースのレパートリーの間に挟まれる数曲のオリジナルも、彼女のキャラクターを強烈に表現した楽曲である。その1曲「W-O-M-A-N」は、ボ・ディドリーの「アイム・ア・マン」へのアンサー・ソングで、「1人ずつ愛してやるから、まずは並びな」と歌うボ・ディドリーに対し、エタは「男を泣かせるのは女よ」と啖呵を切ってみせる。
少しだけマニア向けの話をすると、「アイム・ア・マン」は、エタのレーベル・メイトであったマディ・ウォーターズの「フーチー・クーチー・マン」のリフをそのまま使った曲で、マディはそれに対する意趣返しとして「アイム・ア・マン」の歌詞をベースにした「マニッシュ・ボーイ」をリリースしてヒットさせている。「W-O-M-A-N」の原曲もまた、「アイム・ア・マン」のリフを引用して返答歌であることを示しているが、モントルーのステージではファンクにリアレンジされていて、原曲の面影はまったくとどめていない。
その「W-O-M-A-N」よりもよく知られているエタの代表曲が「アイド・ラザー・ゴー・ブラインド」で、『キャデラック・レコード』の最後のスタジオのシーンでビヨンセが目に涙をためながら歌っていたのがこの曲だった。ロック方面でも人気の高い曲で、70年代にロッド・スチュワートが、90年代にはポール・ウェラーが名カバーを残している。三角関係を女性の視点から歌った歌詞をロッドとウェラーはそれぞれ男性目線に変えていた。モントルーのステージでエタは比較的オリジナルに忠実にこの曲を歌っている。
後年のキャリアへの足掛かりとなったステージ
『キャデラック・レコード』でも描かれていたとおり、エタは比較的早い時期からヘロイン中毒に悩まされていて、その症状が最も重篤だったのが70年代に入ってからだった。そこにアルコール依存症が加わるに至って、彼女のキャリアは危機に直面した。70年代初期のアルバムの録音の一部はドラッグとアルコール中毒治療のために収監された医療刑務所で行われたという。チェスの創設者であったレナード・チェスはすでに69年に心臓発作で没していて、チェスの所有権は別のレコード会社にあった。エタが最後にチェスに録音を残したのは77年である。
75年のエタのモントルー初出演は、そんな背景のもとで実現したものだった。ドラッグとアルコール禍は最悪の状態を脱していたものの、歌の調子は全盛期と比べて万全とは言えない。しかし、彼女は自分のルーツを確認するように、ブルースを全身全霊で歌い、モントルーのステージを次のステップへの足掛かりとしたのだった。ここから彼女が見事な復活を遂げたことは、アナログ盤とCDの1枚目に収録された80年代、90年代の迫力ある歌を聴けばよくわかる。エタのキャリアは、その後2011年の引退宣言までトータル60年近くに及んだ。モントルーの初ステージの音源は、エタの後年のキャリアに向けたターニング・ポイントを示す貴重な記録となっている。
文/二階堂 尚
『The Montreux Years』
エタ・ジェイムズ
■〈Disk1〉1.Breakin’ Up Somebody’s Home 2.I Got The Will 3.A Lover Is Forever 4.Damn Your Eyes 5.Tell Mama 6.Running And Hiding Blues 7.Something’s Got A Hold On Me 8.Beware 9.Come To Mama 10.Medley: At Last/Trust In Me/Sunday Holiday Kind Of Love 11.I Sing The Blues For You 12.Baby What You Wany Me To Do (Encore) 〈Disk2〉1.Respect Yourself 2.Drown in My Own Tears 3.W-O-M-A-N 4.Dust My Broom 5.I’d Rather Go Blind 6.All The Way Down 7.Baby What Do You Want Me To Do 8.Rock Me Baby 9.Stormy Monday
■Etta James(vo)ほか
■第9回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1975年7月11日ほか