投稿日 : 2021.07.31 更新日 : 2021.12.02
【インタビュー】中島朱葉「お寺でひたすらパーカーを吹いている、謎の中学生でした」【Women In JAZZ #35】
インタビュー/島田奈央子 構成/熊谷美広
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現在、日本のジャズ・シーンで大きな注目を集めているアルト・サックス奏者が中島朱葉(なかしま あきは)だ。そのアグレッシブなプレイと豊かな表現力を買われ、多くのベテラン・プレイヤーたちからも重用されてきた。そんな彼女が、自己のカルテットによる初めてのリーダー・アルバム『Looking For Jupiter』をリリースした。
母の楽器を譲り受け、吹奏楽部に
──サックスは何歳のときに始めたのですか?
中学1年生です。母親が高校生のときに使っていたアルト・サックスが家にあって「楽器があるなら」ということで中学の吹奏楽部に入部しました。
──ジャズに興味を持つようになったのは、いつ頃から?
母親がジャズ好きで、ビル・エバンスのCDが家にあって、小学校の頃からずっと聴いていたんです。なんだかすごくきれいな和音だし、カッコいいなって感じていました。ただし、それがジャズという音楽であることは知りませんでした。
その後、小学6年生の頃に『スウィングガールズ』(注1)という映画を見たんですよ。あ、これがジャズなんだ。楽しそうだしカッコいいなって思って、吹奏楽部に入りました。
注1:2004年に公開された矢口史靖監督の映画。上野樹里が主演。東北の女子高校生がジャズのビッグ・バンドを結成して奮闘する姿を描いてヒットを記録し、管楽器の売り上げが伸びるという社会現象まで引き起こした。
──でも吹奏楽部って、ジャズはあまり演奏しないですよね。
そうなんです。入部してみて、あれ? なんかイメージと違うなと思ったんですけど、最初のうちは楽しくやってました。でも先輩たちと音楽に対する考え方みたいなものが違ってきて、辞めちゃったんです。それで『スウィングガールズ』みたいに友達を集めて、自分のバンドを作っちゃえと思って。まったく音楽なんてやったことのない友達とか集めて、3管くらいのバンドを組みました。
それで、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ(注2)の音楽を耳コピーして、ハモりとか全部書いて頑張ってやってました。それが結構うまくいって、地元のジャズ・フェスティバルとかにも出させてもらえるぐらいにまでなったんです。
注2:ドラマーのアート・ブレイキーが率いていたジャズ・グループ。1960年代に世界中にファンキー・ジャズ・ブームを巻き起こした。1959-64年のウェイン・ショーター在籍時は、彼のアレンジによる3管編成で好評を得た。
──いよいよ本格的にジャズに向かっていったわけですね。
そんな時にチャーリー・パーカー(注3)に出会ったんです。私たちのバンドにジャズを教えてくれていた大学生に「チャーリー・パーカーを聴きなさい」って教えられて、聴いてみたら「なんじゃこりゃ」って。何やってるのか全然わかんないです。めっちゃスゲえ! みたいな。
私もこんな風に吹きたいと思って、その先輩に「どうすればいいですか?」って聞いたら、「とにかくコピーしなさい」って言われて、1日に2〜3曲コピーしてました。近くにある山に登って、山の上にあるお寺の住職さんに許可をもらって、そこでひたすらパーカーを吹く、っていう謎の中学生でした(笑)。
注3:Charlie Parker (1920 – 1955)ジャズ・アルト・サックス奏者。1940年代後半、ディジー・ガレスピーらと“ビ・バップ”と呼ばれるアドリブを重視した新たなスタイルを確立し、ジャズ界に革命を起こした。また超人的なテクニックによるプレイはその後のジャズ・サックスに大きな影響を与えた。
「ジャズの基本」を学んだ場所
──チャーリー・パーカーのどんなところに惹かれたのですか?
本当に羽ばたいてるみたいに聴こえたんです。なんて自由なんだろうって。内容とかは全然わからないんですけど、すごく楽しそうだし、私もこんなふうにやれたらすごく楽しいんじゃないかと思いました。
──当時、ジャズ・サックスの奏法は誰かに習っていたのですか?
私の地元(和歌山)で中華料理屋さんを営みながらジャズ・サックスをやってる人がいて、その人にアドリブのやり方などを教わってました。あとjazz inn take-5というカフェがあって、そこで唐口一之さんっていうトランペット奏者が週に1回ぐらいライブをやっていらっしゃって。私もそこに通ってシットイン(飛び入り参加)させてもらって、ジャズの基本を学んでいったという感じです。
──チャーリー・パーカー以外で影響を受けたサックス奏者はいましたか?
じつは私、アルトよりもテナーのほうが好きなんです。だからウェイン・ショーターや、ジョン・コルトレーンといったテナー・サックス奏者の演奏をたくさん聴いてきました。そのせいか、私の音ってアルトらしいアルトではない気がするし、よく「独特だね」と言われます。
──音だけ聴いていると、男性じゃないかと思ってしまうくらい。
それは性格もあると思います。基本的に女性が興味のあることに、あまり興味がないんですよ。美容のこととか、スイーツのこととか。友達も男性の方が多いかもしれないですね。自分の中に、男性の部分と女性の部分とが両方あるんだと思います。
──プロとして活動するようになった経緯は?
そもそも「プロになりたい」という強い思いがあったわけではないんです。演奏がすごく楽しくて、のめり込んで、もっといろいろな世界の人とやってみたい、と思ってバークリーのサマープログラム(注4)に参加して。そこでたまたまバークリー音楽大学の試験にも合格して奨学金で行けることになって、だったらバークリーに行こうか、と。だから全部、気が付いたらそうなっていたという感じなんです。
注4:米ボストンのバークリー音楽大学が実施する約5週間の夏期講習。
──和歌山からいきなりボストンに行ったのですか?
バークリーに行く前、高校を卒業してから1年間は東京にいました。上京したら急に、ツアーに行きませんか? とか電話がかかってくるようになったんです。その前にいろんなコンテストに出たり、高田馬場のイントロ(注5)にも出入りしてたので、もしかしたらいろいろな人が私の噂を立ててくれていたのかも知れないですね。
土岐英史さんや椎名豊さんといった著名な方々からも連絡をいただいて、そこからどんどん人脈が広がっていった感じです。
注5:JazzSpot Intro。高田馬場(東京都新宿区)にあるジャズ・クラブ/ジャズ喫茶。火・水・木・土・日曜に練習ジャム・セッションを実施しており、多くの若手ジャズ・ミュージシャンたちが日々切磋琢磨している。
渡米のタイミングが早すぎた…
──そんな1年間を経てアメリカへ。行ってみて、どうでした?
英語も全く喋れなかったですし、今思うとその時は辛かったですね。楽しもうと思って必死だったんですけど、すごいストレスの中で生きてたんだなと思います。それである時、糸がプツッと切れたように「無理かも」と思って日本に帰ってきました。
──何がいちばん辛かった?
当時の私はビ・バップ(注6)をやりたいという気持ちが強かったんです。でもバークリーはもう少し理論的にいろいろと教えてくれる所で、ビ・バップの先のことをやっているんですね。だから全然入ってこなくて。
今思えば、もっと作曲の勉強とか理論の勉強をやっておけばよかったと思います。今になってバークリーの教科書とか出してきて、あ、こういうことだったんだってわかったり。だからタイミングが合わなかったんでしょうね。きっと早すぎたんだと思います。
注6:1940年代後半、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピーらが中心となって産み出したジャズのスタイル。楽曲のコード進行を元にした即興演奏を基本とし、それまでのスタイルとは一線を画したアプローチで、その後のジャズの歴史を変えた。
──帰国後はどんな活動をしていたのですか?
サイドメンとしてはすごくいろいろな人に使ってもらって、土岐英史さん、大西順子さん、北川潔さんなどとやらせていただけて。それはすごく勉強になったんですけど、自分の音楽って何なの? っていう気持ちも芽生えてきて、私の名刺みたいな音楽を作りたいなと思い始めました。
──それを機に、自分のグループを結成するわけですか?
日本に帰ってきてから、リーダーとしてライブをやって欲しいというお話をけっこういただいて、いろいろなメンバーとやっていたんですけど、いまいち上手くいかなくて。
今回のアルバムのメンバーでやり始めたのが2、3年前だと思うんですけど、そのあたりから歯車がかみ合ってきて、自分の音楽ってこうやって作っていけばいいんだ、ということがわかってきました。
初アルバムのアートワークを実妹に
──今回のアルバム制作で、いちばん念頭に置いたことは何ですか?
とにかく自分たちのサウンド、このバンドでしか鳴らない音を出したいと。ずっとライブを重ねてきて、それはもう鳴ってるという自負があったので、とにかく録音したいと思いました。あともうひとつの目標としては、アルバムを通して聴いたときに1曲も飛ばしたくならないようにしたいなって。1枚でひとつの作品っていう風にしたかったんです。だから曲順とか曲の選び方とかもかなり考えました。
──ジャケットのイラストも印象的です。
このジャケットの絵は、私の妹が描いたんです。彼女は修復士っていう、文化財の修復なんかをやっているんですけど、絵もすごく上手いので、描いてよって。
──ライブの時など、ファッションで気を遣ってることはありますか?
サックス奏者にしかわからないことなんですけど、楽器を構えた時に、右の太ももに楽器が当たるんですよ。そうすると擦れて服が毛羽立ってきちゃうことがあるんです。だから毛羽立つ素材の服は着ないようにしてます。あとは動きやすいもので、ヒールの高い靴もあまり履かないです。
──今後やってみたいことは?
このバンドで全国ツアーはまだやっていないので、コロナが落ち着いたらぜひやりたいですね。アルバムも、どんどん出していきたいです。今回はオリジナルが中心だったので、次はスタンダードを中心にやりたいなと思っています。あとはウィズ・ストリングスとかもやりたいし、誰かとのデュオでやるかもしれないし、いろいろやりたいことがありますね。
インタビュー/島田奈央子
構成/熊谷美広
中島朱葉/なかしま あきは(写真右)
1992年和歌山県出身。12歳でアルトサックスを始め、13歳でチャーリー・パーカーを聴いて衝撃を受け、ジャズに目覚める。14歳からライブ活動を開始。2009年「リットーミュージック最強プレイヤーズコンテスト」のアルト・サックス部門で初代グランプリ受賞。2010年に「横浜ジャズ・プロムナード・コンペティショ ン」「金沢ジャズ・ストリート・コンペティション」でグランプリを受賞。2011年にバークリー音楽大学のサマー・プログラムに全額奨学生として参加し、同学の奨学金を獲得して2年間在学。帰国後は都内のライブ・ハウスを中心に活動し、同世代の精鋭たちと結成した”.Push”や、石若駿(ds)率いる”Answer To Remember”などでも活躍中。【公式ブログ】https://ameblo.jp/akiha-nakashima/
島田奈央子/しまだ なおこ(インタビュアー/写真左)
音楽ライター/プロデューサー。音楽情報誌や日本経済新聞電子版など、ジャズを中心にコラムやインタビュー記事、レビューなどを執筆するほか、CDの解説を数多く手掛ける。自らプロデュースするジャズ・イベント「Something Jazzy」を開催しながら、新しいジャズの聴き方や楽しみ方を提案。2010年の 著書「Something Jazzy女子のための新しいジャズ・ガイド」により、“女子ジャズ”ブームの火付け役となる。その他、イベントの企画やCDの選曲・監修、プロデュース、TV、ラジオ出演など活動は多岐に渡る。