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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
ニーナ・シモンには3つの顔があった。ピアニスト、シンガー、そして社会活動家である。1960年代、彼女は「アーティストの政治参加」というレベルをはるかに超えて、公民権運動に深くコミットした。その「政治の季節」が終わりを告げようとしていた1968年に、ニーナはモントルー・ジャズ・フェスティバルに初めて出演した。それは彼女にとって大きな転換点に位置するステージだった。最近発売された『The Montreux Years』で、そのパフォーマンスの全貌が初めて明らかになった。
公民権運動に深くコミットした天才音楽家
ニーナ・シモンをめぐる最高のエピソードの一つに、「2つの曲を一度に演奏できた」というものがある。ある曲をピアノで弾き、同時に別の曲を歌い、しかもまったく破綻がなかったというのがそれで、ステージでのそのパフォーマンスのテープを聴いたマイルス・デイヴィスが「どうしたらこんなことができるんだ?」と驚いたという話が、ニーナの伝記映画『ニーナ・シモン~魂の歌』に出てくる。もっとも、バッハに心酔していたニーナにとっては、対位法の一つのバリエーションを試したに過ぎないということだったかもしれない。
アメリカの黒人女性初のプロのクラシック・ピアニストを目指していた彼女が歌を歌うようになったのは、「ピアノだけでは客が呼べない」というクラブのオーナーの求めに応じたからで、もともとシンガーになろうという気持ちはまったくなかった。しかし、ひとたび声を発してみれば、多くの人がその独特の歌声に魅了され、以後本人の思いとは別に、最高の黒人女性シンガーの一人と見なされるようになった。
いずれも天才ならではの逸話で、本人もその才に大いに誇りをもっていたが、デビューから5年ほどを経た60年代半ばになって、彼女の関心ごとは音楽よりも公民権運動に大きくシフトしていくことになる。マーティン・ルーサー・キングとマルコムXを2大アイコンとする黒人解放運動がアメリカを席巻していた時期だった。ニーナは運動に深くコミットし、黒人活動家たちも彼女をリスペクトする姿勢を鮮明にした。当時、公民権運動の中心的組織の一つ、SNCC(学生非暴力調整委員会)のメンバーの家には、必ずニーナ・シモンのレコードがあったという。
次々に命を落としていった活動家たち
キング牧師が率いた有名な1965年の「セルマ大行進」を描いた映画『グローリー/明日への行進』では、「集会にニーナ・シモンが来てくれる」と活動家たちが気色ばむ場面が描かれている。事実、ニーナはニューヨークのライブ・ハウス、ヴィレッジ・ゲートからこの行進のゴールであったモンゴメリに急遽飛行機で駆けつけ、「ミシシッピ・ガッデム」を歌ったのだった。「クソったれ、ミシシッピ」と歌いあちこちのラジオ局で放送禁止になったニーナの代表的プロテスト・ソングである。
彼女のそんな政治の季節が深い絶望とともに終わったのは1968年だった。この年の4月4日、キング牧師が暗殺され、6月にはジョン・F・ケネディの実弟で、ケネディ政権の司法長官を務めたロバート・ケネディも殺された。黒人解放組織ブラック・パンサーへの弾圧は熾烈を極め、銃撃戦によって多くの若い黒人が命を落としていった。暴力革命を支持していたニーナは、それを上回る強大な暴力によって多くの命が失われていくのを目の当たりにし、公民権運動への限界を強く感じたのだった。ニーナ・シモンが初めてモントルー・ジャズ・フェスティバルに出演したのは、そんな絶望のさなかの68年6月16日である。
ステージ上で溢れた絶望の涙
ニーナの自伝は読みごたえのある良書だが、記憶の混濁が甚だしく、事実関係の誤りが多い。欧州ツアーの一環だったモントルー初出演に関して、自伝中ではこう書かれている。
「このツアーではレパートリーの中からなるべく観客がよく知っていそうな曲を選ぶことにしていた。しかし、モントルーでは打って変わってプロテスト・ソングばかりを歌った。ヨーロッパの最も権威ある音楽祭で私が何者であるか、何を考えているか、私の母国で何が起こりつつあるか、はっきり示したいという意図があったからだ」
この記述が彼女の記憶違いであることがわかるのは、最近発売になった『The Montreux Years』のCD版にその68年のモントルー初ステージのライブが丸々収録されているからである。収録曲中プロテスト・ソングは数曲のみで、ビー・ジーズのカバー2曲(「トゥ・ラヴ・サムバディ」「プリーズ・リード・ミー」)のほか、ジャック・ブレルの「行かないで(Ne Me Quitte Pas)」、アニマルズがカバーした「悲しき願い(Don’t Let Me Be Misunderstood)」「朝日のあたる家(The House of the Rising Sun)」「ジン・ハウス・ブルース」、ミュージカル曲「ジャスト・イン・タイム」と、ヨーロッパの白人聴衆をはっきり意識したセット・リストになっている。
当時の彼女の代表曲であった「ミシシッピ・ガッデム」を省き、欧州のオーディエンス向けのリストにしたのは、おそらく彼女の夫でありマネージャーであったアンディ・ストラウドである。彼は、あるいはニーナの精神状態をおもんぱかって「暗くならないリスト」をあえて提示したのかもしれない。以下は自伝の一節。
「ステージに上がった時、突然ここ一カ月間に起ったことの重みがひしひしと押し寄せてきた。……キーボードの前に座った途端に涙が頬を伝い、もう止まらなかった。客席はしんと静まりかえり、好奇心にかられた人たちがステージの前に集まって来て口々に大丈夫かなどと言った」
「ここ一カ月間に起ったこと」とは、ロバート・ケネディの暗殺や公民権運動への激しい弾圧を意味する。音源はMCに続いてすぐに演奏が始まっているように編集されているが、この記述が本当なら、ここに収録された演奏は彼女がひとしきり泣いたあとに始まったものということになる。絶望の中で何とかして自分を保とうとする天才音楽家──。その姿を目に浮かべながら聴けば、この蔵出し音源に別のイメージが加わることになる。
新しい歴史的ドキュメント
このライブののちほどなくして、彼女は祖国をあとにしてリベリアに移住し、以後、スイス、フランスなどに住んで音楽活動をひっそりと続けた。71年にベトナムからの帰還黒人兵のためのチャリティ・コンサートを記録した『エマージェンシー・ワード』を発表したが、それ以降、黒人運動に60年代のようにコミットすることはなかった。彼女が新たに立ち向かわなければならなかったのは、生涯の宿痾であった双極性障害、そしてついに死ぬまで抜け出せなかった泥沼のような孤独だった。
『The Montreux Years』は、前回紹介した同シリーズのエタ・ジェイムズ同様、2枚組のアナログおよびCDのディスク1はモントルーの複数のステージから選曲されたベスト・ライブ集で、CDの2枚目に68年のワンステージがそのまま収録されている。ベスト・ライブ集には、この連載で以前に紹介した76年のステージからも4曲がピックアップされている。
これまで、ニーナ・シモンの数あるライブ盤の中で最もドキュメント性が高かったのは、クラシックの殿堂カーネギー・ホールへの初出演を記録した『アット・カーネギー・ホール』と、キング牧師暗殺の3日後の追悼コンサートを収録した『ナフ・セッド!』だった。この『The Montreux Years』もまた、政治の季節の終わりと新しい私的闘争の始まりの転換点に位置するドキュメントとして、彼女のディスコグラフィの重要な位置を占めることになるだろう。
文/二階堂 尚
〈参考文献〉『ニーナ・シモン自伝 一人ぼっちの闘い』ニーナ・シモン/ステファン・クリアリー著、鈴木玲子訳(日本テレビ)
『The Montreux Years』
ニーナ・シモン
■〈Disk1〉1.Someone to Watch Over Me (Intro) 2.Backlash Blues 3.I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free 4.See-Line Woman 5.Little Girl Blue 6.Don’t Smoke in Bed 7.Stars 8.What a Little Moonlight Can Do 9.African Mailman 10.Four Women 11.No Woman No Cry 12.Liberian Calypso 13.Ne Me Quitte Pas 14.Montreux Blues 15.My Baby Just Cares for Me 〈Disk2〉1.Intro 2.Go to Hell 3.Just in Time 4.When I Was a Young Girl 5.Don’t Let Me Be Misunderstood 6.Ne Me Quitte Pas 7.To Love Somebody 8.Backlash Blues 9.The House of the Rising Sun 10.See-Line Woman 11.Please Read Me 12.Ain’t Got No, I Got Life 13.Gin House Blues 14.I Wish I Knew How It Would Feel to Be Free
■Nina Simone(vo,p)ほか
■第2回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1968年6月16日ほか