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ジャズと戦争─非常時における「快楽」と「不道徳」の行方【ヒップの誕生】Vol.29

日本のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

「現代」の始まりは、今からおよそ100年前に勃発した第一次世界大戦からとされている。この戦争はまた、アメリカの大国化の起点であり、ポピュラー音楽としてのジャズの起点でもあった。戦時下において社会の「快楽」と「不道徳」を排除したアメリカと、それを引き受けたジャズ。その関係を問う。

「1917年」がもつ意味

古い意味でのヨーロッパ史は1917年に終わり、そこから「世界史」が始まった──。英国の歴史家、A・J・P・テイラーはそう言っている。それまで歴史の中心にいた欧州各国に替わって、新たな世界史の主役の座を獲得したのがアメリカだった。では、なぜその区切りが「1917年」なのか。

1917年は、欧州における領土拡張の争いであった第一次世界大戦にアメリカが参戦した年である。この参戦がなければ、おそらくアメリカが今日のような大国になることはなかったし、ジャズが今日のような大衆音楽になることはなかった。ジャズのポピュラー音楽化は、アメリカの大国化のいわば陰画だったと言っていい。ジャズは20世紀のアメリカを代表する音楽であるのと同時に、その出自から見て、最も「反アメリカ的」な音楽でもあった。

この有名なアメリカ軍の兵士募集ポスターは第一次世界大戦時のもの。連邦政府を擬人化したキャラクター「アンクル・サム(U.S.)」が市民に語りかけている

第一次世界大戦は、1914年7月の開戦から18年11月の休戦協定までの4年数カ月の間に総数30カ国以上が参戦したまさに「大戦(Great War)」だったが、その中心にあったのは、ドイツ、オーストリアの同盟国と、イギリス、フランス、ロシアの連合国の間の戦いだった。欧州に領土的利害をもたないアメリカにとって、それは当初対岸の火事のようなものであり、当時の米大統領ウッドロウ・ウィルソンは、「その起源が我々とまったく関係のない戦争」(『20世紀アメリカの夢』)と語ったとされる。

そのアメリカが連合国側で参戦する方向に向かった大きなきっかけが、悪名高いドイツの潜水艦、いわゆるUボートの登場だった。Uボート投入の目的は、ドイツが最大の敵と見なしていたイギリスへの物資輸入ルートを途絶させることで、したがってはじめから民間船への攻撃が想定されていた。1915年、イギリスの豪華客船ルシタニア号がUボートの魚雷攻撃で撃沈される事件が起こり、120人を超えるアメリカ人乗客が犠牲になった。これがアメリカにおける反ドイツ感情のたかまりと、参戦を求める世論形成の出発点となった。

ドックに停泊しているUボート

なぜ、アメリカは参戦したのか

アメリカは欧州における領土的利害をもたなかったが、経済的利害は大いにあった。開戦後、イギリスの全軍需品の40%、石油の65%を提供していたのはアメリカである。また参戦前の時点で、アメリカは連合国側に25億ドルを融資していた。融資額は最終的に総額112億ドルに達した。

Uボートによる民間船への攻撃を座して傍観することは、すなわち対英貿易における利益をみすみす海原に投げ捨てるようなものであり、仮にこの戦争にドイツが勝利したら、多額の借款の回収は不可能になるだろう。戦後にアメリカが繁栄を手にするためには、参戦以外の選択肢はない──。それがアメリカの実業界や金融界の主張だった。

一方、ウィルソン自身にも、何らかの形でこの戦争に参加しなければ、戦後の世界秩序構築のプロセスにアメリカが参加できなくなるという危惧があった。この経済界と政治界の野心がまさしく狙い通りの結果をもたらしたことは、戦後1920年代のアメリカの繁栄と大国化への歩みをみれば明らかである。

国を参戦に向かわせるに当たって連邦政府が利用したのが、国民の反ドイツ感情であった。第一次世界大戦がそれまでの戦争と大きく異なっていたのは、それが軍人による戦争ではなく、「国民による戦争」であった点である。前線と銃後の一致団結による国家総動員体制のもとで戦争に勝つという思想が生まれたのは、この戦争からだった。

アメリカにおける国家総動員体制は、第二次世界大戦中の日本の軍国主義に匹敵するほどにファナティックなものだった。アメリカの歴史上初めて徴兵制が導入され、戦時防諜法、戦時騒擾法など市民の思想と行動を厳しく統制する法律が成立した。参戦後、反戦の主張を理由に投獄された人は数百人に及んだと言われる。

徹底されたのは、ドイツ文化の排斥である。ドイツ語の使用が禁止され、全米の図書館からドイツ語の書籍が姿を消した。オーケストラの演目からはドイツ人作曲家の曲が外され、ドイツ系アメリカ人は迫害された。この反ドイツ感情が1920年に発効する禁酒法成立の一因となったことは、とくに強調されるべきである。

リバティ債券(戦争債)の資金調達を目的とした1918年のポスター。「HUN」とは、かつて東欧などに住んでいたフン族のこと。戦時中のドイツ人の蔑称であり、ポスターでは得体の知れない脅迫的なものとして描かれている

ドイツ文化とともに排斥された飲酒文化

アメリカに近代的なビール醸造法を持ち込んだのはドイツ系移民であり、当時のアメリカの醸造会社の経営者の多くはドイツ系だった。大手醸造会社は各地の酒場に資本を投入し系列化していたから、飲酒業界の多くの部分は事実上ドイツ系の人々の支配下にあった。したがって、戦時下におけるドイツ文化の排斥は、そのまま飲酒文化の排斥に直結した。もっとも、禁酒法成立の過程はもう少し複雑なもので、アメリカにおける禁酒運動が独立間もない1800年代初頭から続いてきたという事情や、醸造酒業界に対するウイスキーなどの蒸留酒業界の動向を踏まえる必要がある。ここでは、ドイツを主要敵とする戦争が禁酒法成立の一要因となったという事実を指摘するにとどめる。

戦争と禁酒法がセットだったのは、その成立過程を見てもわかる。1917年4月2日に連邦議会が招集され、対ドイツ戦線布告についての審議が行われたが、同時にそこで初めての禁酒法案が禁酒派から提出されている。「戦争が醸し出す愛国的で禁欲的な雰囲気を最大限に利用して、禁酒法運動家たちが、飲酒という『快楽』を規制することに成功したとも言える」と『禁酒法』の著者である岡本勝は指摘している。

戦時下における禁酒法制定の動きが重要なのは、それがジャズの勃興の遠因となっているからである。禁酒法の発効によって、酒の製造と提供は地下化することになった。1920年代に隆盛を極めたその地下経済を支配したのがギャングであり、彼らが自ら経営する店で酒とともに提供したのがジャズであった。戦争が禁酒法を生み、禁酒法がギャングを生む。その因果の中で、歴史のいわば鬼子であったギャングをパトロンとして発展した音楽がジャズだった。禁酒法が発効したのは1920年1月だが、その制定の動きがスタートしたのは、まさにアメリカが第一次大戦に参戦した1917年であった。それが、ジャズの歴史において1917年という年がもつ一つの意味である。

売春街から閉め出されたジャズ・ミュージシャンたち

1917年には、もう一つ大きな出来事が起こっている。この連載で以前にも書いたニューオリンズの売春街区ストーリーヴィルの閉鎖である。これもアメリカの参戦に密接に関連した動きであった。ニューオリンズには軍港があり、アメリカ参戦にともなってそこが欧州戦線への兵士の出発基地となった。軍港近くに花街があるということは、戦いを控えた兵士の間に性病が蔓延するリスクがあるということである。参戦から間もなく、ストーリーヴィルは連邦政府によって強制的に閉鎖された。

しかし、これはニューオリンズに限った話ではなく、全米各地の売春地区の多くが参戦からの短期間で閉鎖されたようだ。その動きはアメリカの進歩主義陣営の一種の戦略だったと映画監督のオリバー・ストーンは語っている。進歩主義者たちはおおむね参戦を支持したが、それは戦争が社会改革の絶好の機会となると考えらたからだ、と。

「この機をとらえて念願の社会改革を行なった者たちのなかに、モラル改革主義者たち、とりわけ、戦争を性的不道徳と闘う好機と見た者たちがあった。兵士の健康を懸念してと称して、彼らは売春と性病を撲滅せんとする積極的な運動を始めた」(『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 1』)

ストーリーヴィルの娼館は、ジャズ・ミュージシャンたちの仕事場だった。ニューオリンズにおいてジャズは売春のBGMであり、ミュージシャンたちのパトロンの役割を担っていたのが娼館の女将たちだった。そのシステムが戦争とともに崩壊して、多くのジャズ・ミュージシャンは職を失い、一部は別天地を目指した。軍需景気に沸いていた北部の都市、とりわけシカゴである。そこでミュージシャンたちは、禁酒法下のギャングという新たなパトロンのもとで音楽活動を続けたのだった。

戦争にともなう売春街区の閉鎖と禁酒法の成立がなければ、ジャズはニューオリンズのローカル音楽にとどまっていた可能性がある。ジャズはシカゴという大都市で、イリーガルな形ではあったが、初めて多くの白人聴衆を得た。白人の中には、黒人のプレイを真似てジャズを演奏し始めた者たちもあった。つまり、シカゴにおいてジャズは民俗音楽を脱し、大衆音楽としての歩みを始めたのである。その起点が1917年だった。

管理売春街区として1897年につくられた、ストーリーヴィルの中心街ベイズン・ストリート

アメリカの矛盾を一手に引き受けた音楽

アメリカの参戦から1年半ほどのちの1918年11月に第一次大戦は終わり、新たな世界の構築に向けた動きが始まった。しかし、戦争の中心にいた各国は、その動きを担うにはあまりにも大きな痛手を負っていた。戦争による兵士の犠牲者数は、ドイツ180万人、ロシア170万人、フランス135万人、イギリス90万人。戦争による総死者数は、兵士1000万人、民間人2000万人に及んだ。一方、戦争が始まって3年近く経ってから参加したアメリカ軍の犠牲者は5万人にとどまり、民間人の犠牲者はほとんどいなかった。アメリカ本土が戦地にならなかったからである。英首相ロイド・ジョージは戦争が終わったとき、「アメリカは掘っ建て小屋一つ破壊されなかった」と語ったという。

5万人という死者を「少ない犠牲」と言うのははばかられるが、その数が他国に比べて相対的かつ圧倒的に少なかったのは確かである。その犠牲に対して、アメリカが得たものは大きかった。この大戦を通じてアメリカは債務国から債権国に転じ、農業国から工業国に転じた。大戦前の世界の工業生産の中心地はイギリスだったが、戦争を経てその地位を完全に奪ったのがアメリカだった。私たちがよく知るアメリカの歴史が始まるのはここからである。

「ジャズのポピュラー音楽化は、アメリカの大国化のいわば陰画だった」と冒頭に述べたのは、大国アメリカの出発点となった戦争の影で表社会から排斥された売春宿、酒場といった場所がまさしく「ジャズのハコ」だったからであり、しかしその排斥によってジャズは新たな歴史を開いたからである。売春と酒という戦時下のアメリカが最も嫌った「快楽」「不道徳」を養分としながら、ジャズは大衆音楽として成長していった。その点で、ジャズはまさしく「反アメリカ的音楽」であり、アメリカの矛盾を一手に引き受けた音楽だったと言っていいだろう。その反アメリカ的音楽が、「アメリカ化」していく過程を見るには、「ジャズと売春」「ジャズと酒」「ジャズとギャング」といったテーマをさらに掘り下げる必要がある。

次回に続く)

〈参考文献〉『第一次世界大戦 忘れられた戦争』山上正太郎(現代教養文庫)、『第一次世界大戦』木村靖二(ちくま新書)、『アメリカ合衆国史② 20世紀アメリカの夢』中野耕太郎(岩波新書)、『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史1  2つの世界大戦と原爆投下』オリバー・ストーン&ピーター・カズニック/太田直子ほか訳(ハヤカワノンフィクション文庫)、『禁酒法 「酒のない社会」の実験』岡本勝(講談社現代新書)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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