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【ヴァン・モリソン】ロック界一の偏屈者がステージで吠えた夜─ライブ盤で聴くモントルー Vol.39

「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。

演奏中に自慰行為をして逮捕されたジム・モリソン、ステージに巻き散らしたガラスの破片の上を裸で転げまわったイギー・ポップ、客席から投げ込まれた生きたコウモリを食いちぎったオジー・オズボーン、最前列の女性客にフェラチオをさせた遠藤ミチロウ──。ロックのライブにおける伝説的逸話は数多い。ヴァン・モリソンが1974年のモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージで繰り広げた、居酒屋の酔っぱらいの喧嘩のような観客との罵り合いもまた、ロック史に残る逸話の一つである。ロック界一の偏屈者と言われながら、音楽ファンやミュージシャンからの絶大な支持を集め続けるヴァン・モリソン。彼の音楽がもつ力の本質とは──。

殴り飛ばしてやりたいと思った男

ドクター・ジョンがヴァン・モリソンとレコーディングをすることになったきっかけは、ザ・バンドの解散コンサートのドキュメント『ラスト・ワルツ』の撮影だったという。古いR&Bのレコードをつくりたいともちかけたのはヴァンの方で、それがのちの2人の共同プロデュース作である『安息の旅/A Period of Transition』(1977年)となったのだった。

1976年11月25日にサンフランシスコでおこなわれた『ラストワルツ』コンサート。(写真左→右)リチャード・マニュエル、ドクター・ジョン、ニール・ダイアモンド、ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、リック・ダンコ、ヴァン・モリソン、ロニー・ホーキンス、ボブ・ディラン、ロビー・ロバートソン、エリック・クラプトン

最終的に全曲ヴァンのオリジナル曲となったアルバムは、彼の3年あまりの小リタイアののちの作品ということもあってそれなりに話題を集めたが、レコーディング作業はかなり悲惨なものだったらしい。ドクター・ジョンが抜擢して英国まで連れていったギターのレイ・パーカー・ジュニアを、ヴァンは態度が気に食わないという理由ですぐにクビにし(レイが「ゴースト・バスターズ」を世界中で大ヒットさせる8年ほど前のことである)、急遽オーディションを行ったものの、ヴァンの好みに合うギタリストは見つからず、結局ギター・パートはヴァンとドクター・ジョンが担当するというドタバタぶりであった。

ドクター・ジョンはヴァンを評して、「やつは、私がセッションの最中、殴り飛ばしてやりたいと思った数少ない男のひとりだった」と自伝に書いている。つき合いにくい男という噂はかねて聞いていたが、これほどとは思わなかった、と。それでも、彼やほかのメンバーたちがレコーディングに最後までつき合ったのは、「やつの歌に心からの敬意を払っていたから」であり、「ヴァンの力強い歌声がミュージシャンの心をひきつけてやまなかったから」だった。「彼の声の持つ神秘的な力のとりこになると、地獄の果てまでついていってやろうという気になってしまう」からだとドクター・ジョンは語っている(『フードゥー・ムーンの下で』)。

気に入らないなら聴かなければいい

1960年代に勃興した英国のビート・ミュージック・シーンにあって、ヴァン・モリソンはトップ・レベルと言っていい歌唱力と作曲力をもつ逸材だった。しかし、彼がフロントに立つバンド、ゼムがついに一般的な人気を得ることができなかったのは、ポップ・スターに必要とされる要素をヴァンがことごとく欠いていたからである。

短躯、小太り、くせ毛。ファッションや流行にはまったく興味がなく、自己アピールもコミュニケーションも苦手。メディアには常に挑戦的で反抗的な態度で臨み、メンバーやマネージャーとの仲も険悪だった。しばしば「元祖パンクス」と言われたそのエキセントリックな性格は、ソロになっても変わらないどころか、むしろ先鋭化していった。気まぐれ。自己嫌悪性。心配性。ステージ恐怖症。インタビュアー泣かせ──。

70年代初頭にヴァンのアルバムを手がけ、ドゥービー・ブラザーズやヴァン・ヘイレンを育てたことでも知られるワーナー・ブラザーズ・レコードの名プロデューサー、テッド・テンプルマンは、「生きている限り、二度とヴァン・モリソンとは仕事はしないだろう。たとえ現金で200万ドルを積まれたとしてもね」と話している(『ヴァン・モリソン 魂の道のり』ジョニー・ローガン)。

一方、80年代にヴァンとの共作アルバムを作ったチーフタンズのリーダーであり、つい最近亡くなったパディ・モローニは、ヴァンの理解者の一人だった。モローニは言う。

「彼をピリピリさせるのは、どんなことがあろうと自分の身を売る真似はするまいという気持ちがあるからだ。何よりも音楽に誠実でいなければ、というのが彼の口癖だった」(前掲書)

ショービジネスの世界に決して馴染もうとせずにひたすら我が道を貫くヴァンの姿は、しばしば聖人や隠遁者に例えられる。しかし、比すべきはむしろ田舎の農家の頑固なオヤジである。農協からのアドバイスを一切無視し、独自の有期農法にこだわって野菜を作り続ける一本気な男が、自分の流儀でつくった大根やネギやナスやカボチャ。いわばそれがヴァンにとっての音楽だ。気に入ったやつは食えばいいし、気に入らなかったら食わなければいい。彼は言う。

「俺は音楽を作る。音楽は音楽に過ぎない。好きな人間は買うだろう。嫌いな人間はおあいにく様だ。共鳴できなければそれ以上掘り下げなくていい。別のレコードを買え!」(前掲書)

一触即発の空気になった会場

そんなヴァン・モリソンのかたくなで独尊的な姿勢が観客とのトラブルを引き起こしたのが、1974年のモントルー・ジャズ・フェスティバルのステージだった。

前年の73年は、ヴァンがそれまでになくライブ活動に熱心に取り組んだ年で、気分次第でパフォーマンスの質が大きく変わると言われていた彼のライブがようやく幅広いオーディエンスやメディアに受け入れられ、ツアーの中からロックのライブ・アルバム史上に残る屈指の名作と評価される『魂の道のり/It’s too Late to Stop Now』という作品も生まれた。ホーンとストリングスを加えた11人からなるカレドニア・ソウル・オーケストラをバックに、ゼム時代、ソロ時代の名曲とR&Bやブルースのカバーを適度に織り交ぜた圧巻のステージを記録したそのライブ・アルバム発売の4カ月後、彼はモントルーの舞台に立ったのだった。

当然観客は『魂の道のり』の再現を望んでいたはずだが、ステージにあらわれたのは鍵盤、ベース、ドラムス、ボーカルという最小編成のバンドだった。ヴァンはアコースティック・ギターをときにアルト・サックスやハーモニカに持ち替え、4ビートのジャズやブルースのセッションを交えながら、50分で9曲を披露した。うち、既発のレコードに収録されていた曲は2曲のみで、3分の1はインスト曲と、『魂の道のり』とは正反対のステージングを見せられた観客たちは徐々に不満を募らせ、そのフラストレーションはアンコール時に爆発した。

アンコールはジャンプ・ブルースのカバーで、ここでもヴァンはハーモニカをプレイしたが、まったくのってこない客に対して、ヴァンは「Freak Out!(お前ら、盛り上がれよ!)」と挑発した。それに対して返ってきたのは歓声ではなく轟々たるヤジだった。会場全体にブーイングが広がって手のつけられない状況になるに至ってヴァンは演奏を中断し、「俺はギャラをもらってこのステージに立っている。それが気に入らない奴はとっとと失せろ!」「それなら、お前がここに上がって、俺の代わりにやるか?」と啖呵を切った。騒然となる会場。呆然とするバンド・メンバー。そのとき、ピアニストのピート・ウィングフィールドが機転を利かせて軽快なラグタイムを演奏し始めたことで、一触即発の張り詰めた空気がほどけたのだった。「もしそれがなかったら、どんな惨事が待ち受けていたことだろう」とジョニー・ローガンは前掲書で書いている。

2枚組DVDで楽しめる対照的なステージ

ヴァン・モリソンのモントルーのステージの記録は、74年と80年の映像を収録した2枚組DVDと、90年代の彼の代表作『ヒーリング・ゲーム』のデラックス・エディションに収録された97年のライブが公式作としてリリースされている。件のステージはDVDで見ることができるが、さすがに商品にするのは問題があると判断されたのか、アンコールのシーンは丸々カットされている。映像は間違いなく残されているはずなので、今後ヴァンのドキュメンタリー映画が製作されるとしたら絶対に入れてほしい場面である。

口の減らない英国のマスコミはかつて、ステージ上のヴァンを「ひどく不機嫌そうな子豚」と表現した。その悪口に便乗するなら、74年にモントルーのステージに初めて立ったヴァンは、西部邁のコスプレをしたエド・シーランのようで、20代にして休日の父親然としたそのたたずまいから発せられるのはしかし、ドクター・ジョンも絶賛したあの素晴らしい声である。ヴァンからすれば、4人編成のバンドで演奏することも、ブルースやジャズを中心としたレパートリーにすることも、「ジャズ・フェスなんだからそれでいいだろうが、ボケ」といったところだったはずで、非は場違いな要求をした観客にあったと言うべきである。

80年のステージのヴァンはもはや休日のお父さんを通り越して平日のお爺さんのようだが、こちらでは一転、8人編成のバンドを従えて「ムーンダンス」「リッスン・トゥ・ザ・ライオン」など、よく知られた曲を演奏している。74年の出来事を彼も少しは反省したということなのだろう。バックには、60年代のジェームズ・ブラウンの片腕だったピー・ウィー・エリス(サックス)や、ECMからリーダー作を発表したこともあるマーク・アイシャム(トランペット)の顔も見える。

いずれの映像も必見だが、ライブ作品としては『ヒーリング・ゲーム』にカップリングされた97年のステージの音源がベストかもしれない。ピー・ウィー・エリスに加え、60年代の英国ソウル・ジャズの顔役、ジョージィ・フェイム(オルガン)や、90年代のアシッド・ジャズの代表的プレーヤーだったロニー・ジョンソン(ギター)など、豪華なプレーヤーをバックに充実した演奏を聴かせている。

生きざまをまっすぐに感じさせる声

2015年に発売されたムック『ヴァン・モリソン』(シンコーミュージック・エンターテイメント)は、「最もインタビューが難しいミュージシャン」と言われるヴァン・モリソンのインタビュー記事を5本も掲載している点でたいへん貴重な一冊である。それらのインタビューで彼が繰り返し語っているのは、世間の機嫌をとろうがとるまいが、嫌われるときは嫌われるし、好きになってくれる人は好きになってくれるのだから、自分がやりたいようにやるのがいいのだ、という至極まっとうな人生哲学である。この哲学の射程は、音楽のみならずあらゆる仕事人生に及ぶだろう。彼は我々に問う。「お前らは人から好かれるために生きてんのか? そうじゃねえだろう?」と。優れた音楽家としてだけでなく、一人の人間としてヴァンが信用できるのは、生きたいように生きるという困難な道を半世紀以上の長きにわたってわき目もふらずに歩み続けているからだ。その生きざまは、彼の声、曲、演奏、アレンジの隅々にまで反映しているように思える。その声だけで生きざまをまっすぐに伝えられるミュージシャンが果してどれだけいるか。

2020年3月3日にロンドンでおこなわれた『Music For The Marsden2020』に出演したヴァン・モリソン

ヴァン・モリソンを聴いたことがあるという音楽ファンのおそらく7割くらいは、『アストラル・ウィークス』『ムーンダンス』という突出した二作を聴いて彼の音楽の探求を止めていると思う。幸いである。これからの人生に、ヴァン・モリソンの膨大な作品を一枚ずつ聴いていくという楽しみが残されているのだから。

文/二階堂 尚

〈参考文献〉『フードゥー・ムーンの下で』ドクター・ジョン(マック・レベナック)、ジャック・ルメル著/森田義信訳(ブルース・インターアクションズ)、『ヴァン・モリソン 魂の道のり』ジョニー・ローガン著/丸山京子訳(大栄出版)


『Live at Montreux 1980/1974』(DVD)
ヴァン・モリソン

■〈Disc 1〉1.Wavelength 2.Kingdom Hall 3.And It Stoned Me 4.Troubadours 5.Spirit 6.Joyous Sound 7.Satisfied 8.Ballerina 9.Summertime in England 10.Moondance 11.Haunts of Ancient Peace 12.Wild Night 13.Listen to the Lion 14.Tupelo Honey 15.Angeliou 〈Disc 2〉1.Twilight Zone 2.I Like It Like That 3.Foggy Mountain Top 4.Bulbs 5.Swiss Cheese 6.Heathrow Shuffle 7.Naked in the Jungle 8.Street Choir 9.Harmonica Boogie
■Van Morrison(vo,g,as,harmonica)ほか
■〈Disc 1〉第14回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1980年7月10日 〈Disc 2〉第8回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1974年7月30日

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