邦ジャズ文化が急展開した大事件
2016年の春、東京都内の個人宅でそれは「発見」された。古ぼけた箱に収められた正体不明の録音テープ。その内容はジャズミュージシャンのアート・ブレイキーによる演奏で、彼のグループが1961年に初来日ツアーを行った際に録られたものだった。
この音源が先日ついに、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ 『ファースト・フライト・トゥ・トーキョー』として正式リリースされ、世界中のジャズファンに衝撃を与えた。本作をパッケージ化したのはジャズ界屈指の大ブランド、ブルーノート。レーベルの代表を務めるドン・ウォズはこうコメントする。
「このレコーディングの発売は私たちすべてにとって大きな誇りである。もっとも素晴らしい陣容のひとつだったときの、輝かしい栄光に包まれ、世界中にメッセージを拡散させていたアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズが捉えられている」(同作ライナーノーツより引用)
確かに本作は貴重な遺物であり、音楽的にも素晴らしい内容である。と同時に、日本の大衆文化史を語る上でも極めて重要な史料といえる。1961年に初めての来日公演を行ったアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズは、およそ2週間の滞在中に全国各地でツアーを実施し、これを機に日本では空前のジャズブームが巻き起こった。本邦ジャズ文化の発展に大きく寄与したメモリアルなイベントだったのである。
そんなドラマの一端が、このテープに収められている。また、この録音物の「発見」からリリースに至る過程も、非常にドラマチックだ。なにしろ、この “謎のテープ”の背後に、さらなる秘宝が隠されていたのだから。
日本映画界の隠れたレジェンド
その物語の主人公の一人が根本隆一郎さん。テープを「発見」した張本人である。同氏はNPO法人「古き良き文化を継承する会」の代表を務め、映画や音楽、舞台など大衆文化の継承と文化財の保護を行いながら、これまで多くの文化イベントも手がけてきた。
ことの経緯を根本さんが語る。
「このテープを見つけたのは今から5年ほど前。坂尾富美子さんという方のお宅でした。坂尾さんは戦後間もない頃から映画関係のお仕事をされていて、数多くの “映画の予告編”を作ってきた人です」
映画予告編の制作は今でこそ専門職として存在しているが、坂尾さんはそのパイオニアのひとりだという。
「生涯でおよそ2000本の予告編を手がけた、いわば日本映画界の影の功労者です。現役を引退後も、映画資料を提供してくださったり、私の活動にさまざまな形で協力を頂いていました」
そんな坂尾さんが2016年に死去。ご遺族の意向により、映画関係の資料を託されたのが根本さんだった。
「彼女の遺品整理に立ち合うことになり、ご自宅に伺いました。そこにはたくさんの映画関係の資料や写真などが遺されていたのですが、その中に一つだけ録音テープがありました。5巻に分かれた6ミリテープで〈ART BRAKEY and HIS JAZZ MESSENGERS〉と書かれていました。そのテープを収めた古い箱には、曲タイトルとともに〈HIBIYA PUBLIC HALL〉と書き込まれている。それ以外に、録音日時などの詳しい記載はありませんでした」
ここから根本さんの不思議な探索の旅がはじまる。
「もともとジャズは好きだったので、すぐにアート・ブレイキーの1961年の初来日公演のことが頭に浮かびました。ただ私が知っているのは産経ホールでのコンサート。なので、箱に書かれた『HIBIYA PUBLIC HALL(日比谷公会堂)』とアート・ブレイキーの初来日公演がどうしても繋がらなかった」
テープを持ち帰って再生したところ、そこに収められていたのは確かにアート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの演奏だった。しかもメンバー紹介の声を聞くと1961年の初来日公演と同じ布陣(注1)。そこで根本さんは、この初来日ツアーを実際に “現場で観た”という人々に聞き込みを開始する。
注1:アート・ブレイキー(ds)、リー・モーガン(tp)、ウェイン・ショーター(ts)、ボビー・ティモンズ(p)、ジミー・メリット(b)
「当時のことを知る、ご高齢のジャズ関係者や愛好家に尋ねてみましたが、やはり皆さん『産経ホールは知ってるけど、日比谷公会堂でやった記憶はない』と言う。では、このテープは一体何なのか? そんな状況で途方に暮れていると、ふと1冊の本のことを思い出したんです」
彼の脳裏をよぎったのは『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』(著:大島幹雄)という書籍。伝説の “呼び屋”として名を馳せた興行師、神彰(じん あきら)の生涯を描いた伝記である。ほかでもない、件のアート・ブレイキー初来日公演を仕掛けたのも神彰だった。
「そういえば、あの本にアート・ブレイキーを呼んだ時のことが書かれていたな…と思って、本棚から引っ張り出して読み返してみた。するとこんな内容の記述がありました。〈初来日公演時に撮った素材でドキュメンタリー映画を作ったが、権利関係のいざこざで公開直後にお蔵入りとなり、フィルムは行方しれずとなった〉と」
テープを秘蔵していた坂尾さんは映画業界の人。つまりあのテープは、神彰の “お蔵入りしたドキュメンタリー映画” と何か関係があるのかもしれない…。そう直感した根本さんは、ジャズではなく映画方面の調査を開始する。あの本に書かれていた “幻の映画”の正体を突き止めることができれば、このテープの真実に近づくはず…。まずは1961年に公開されたドキュメンタリー映画を徹底的に調べた。
坂尾富美子と『黒いさくれつ』
「すると、昭和37年の映画誌『キネマ旬報』1月号に、坂尾さんの名前を見つけたんです。そこには『黒いさくれつ』というタイトルの作品が紹介されていて、スタッフ欄に編集者として坂尾さんの名が旧姓で記載されていました。ついに繋がった、と思いましたね」
さらに、当時の『キネマ旬報』の記事により、この映画の関係者の名をいくつか知ることができた。製作は神彰が率いるアート・フレンド・アソシエーション。演出にクレジットされた羽仁進(注2)は当時、岩波映画で多くのドキュメンタリーを手がけていた俊才である。また、カメラも岩波スタッフが起用されていることがわかった。
注2:羽仁 進/はに すすむ(1928-)映画監督。1949年、岩波映画製作所の設立に加わり1952年に『生活と水』で監督デビュー。その後も多くのドキュメンタリー映画を手がける一方、『彼と彼女』(1963)や『ブワナ・トシの歌』(1965)といった劇映画も制作。野生動物を題材にした諸作品でも知られる。
「神彰さんのアート・フレンド・アソシエーションには映画作りのノウハウがなかった。そこで、独立系で文化映画も多く手掛けていた岩波映画に頼んだのだと思います。この事実をつかんで期待は高まりました。岩波が関わっていて、しかもあの羽仁進さんが演出しているのだから、どこかにフィルムが保存されているかもしれない、と。さっそく羽仁さんに手紙を書いて電話取材を申し込みました」
ところが、羽仁進の証言は意外なものだった。
「その映画のことは全然知らない、と。羽仁さんが言うには『当時、僕の名前で岩波映画の連中は仕事をしていたので、クレジットされていたかもしれないが直接関わっていない』 とのことでした」
その後も、当時の岩波映画スタッフを捜し出して調査を進めたが有力な情報を得ることはできなかった。それにしてもなぜ、公開直後に上映が中止されたのか。前出の書籍『虚業成れり〜』によると「版権をもっている代理人と名乗る日本人がクレームをつけ、すぐに上映は取りやめられた」とある。が、いったい何に関する版権なのか。そして、このクレームを入れたのは何者なのか。
「私もそこは疑問です。そもそもアート・ブレイキーに関する版権に関わっていた日本人が本当にいただろうか? と。あるいは反社会的な勢力がイチャモンをつけてきたのか、商売敵によるものなのか。当時の神彰さんは日の出の勢いで活躍していたので、敵もいたことでしょう。いずれにせよ、公開直後に打ち切られるくらいの、しかもあの神彰でも有無を言わさず黙らせるような大きな力がはたらいたと想像します」
続々と判明する新事実
この映画『黒いさくれつ』は確かに存在する。坂尾さん宅で発見したテープは、このドキュメンタリー映画のサウンドトラックなのではないか。そんな推測を立てることはできたが、確たる証が欲しい。そもそも、アート・ブレイキー一行が「日比谷公会堂」で行った公演の詳細もまだ掴めていない。そんな複数の謎に翻弄されながら根本さんは、幻の映画『黒いさくれつ』の輪郭をしだいに掴んでゆく。
「ジャズ情報誌『ダウンビート〈日本版〉』の61年6月号に〈アート・ブレイキー日本公演の記録映画、この夏に一般公開〉とあって〈試写を見た批評家たちも称賛〉という記述を見つけました。さらに、読売新聞の夕刊(61年5月1日)の囲み記事にも、試写のレポートが載っています。そこには〈観客やアート・ブレイキー夫妻の日本見物の姿も取り入れた、楽しめる52分間であった〉と書かれている」
さらに坂尾富美子さんが書き残した記録や、映画関係者の手記も見つかり、この映画のカット割りや描写にまつわる情報も得られた。
『黒いさくれつ』本編には、演奏シーンに加えて、アート・ブレイキー一行が京都の東本願寺、三十三間堂、平安神宮などの神社仏閣を巡るシーンも挿入。知恩院ではアート・ブレイキーが正座をして左手で合掌し、木魚を叩くシーンなどがインサートされるなど、単なる公演記録映画にとどまらない演出が施されていたようだ。
「そうした画づくりは、前年に日本公開されたアメリカ映画『真夏の夜のジャズ』に触発されたものだと思います。おそらく神彰さんはあの大ヒット映画を観て、せっかくジャズミュージシャンを呼ぶのだから映画も撮ってやろう、と考えたのではないでしょうか」
映画『真夏の夜のジャズ』は、1958年のニューポート・ジャズ・フェスティバルを題材にしたドキュメンタリーで、映画未経験の“写真家”バート・スターンが監督・撮影を務めた。一方『黒いさくれつ』の撮影においても、機動力を要求される手持ちカメラに写真家の長野重一(注3)を抜擢。ここにも『真夏の夜のジャズ』への意識が見て取れる。
注3:長野 重一/ながの しげいち(1925-2019)写真家。1949年、岩波写真文庫の写真部員となり『鎌倉』、『いかるがの里』、『長崎』、『広島』などおよそ60冊の撮影を担当。1954年にフリーとなり、総合誌や写真雑誌でルポルタージュを発表。1960年代には映画カメラマンとしても活躍し、市川崑監督の記録映画『東京オリンピック』などに参加。
「ただし、撮影にはトラブルもありました。演奏シーンの一部が撮れておらず、音は録れているのに肝心の画がないという致命的な事態が起きた。これを救ったのが、坂尾さんでした。予告編の制作で培った技術で見事に編集し、事なきを得たようです」
坂尾さんは “予告編の制作” に情熱を注ぎ続けた人。しかも抜群の構成センスと、優れた編集技術を持つ天才。そこは当時多くの映画関係者が認めるところだった。例えばジャズファンにも馴染みの深い『大運河』(1956)や『死刑台のエレベーター』(1958)、『殺られる』(1959)、『危険な関係』(1959)などの日本版予告編も坂尾さんの仕事だ。
そんな彼女がじつは “映画本編の編集” にも携わっていた。つきあいの深かった根本さんすら知らない事実だった。
「坂尾富美子さんは映画の予告編だけを作り続けてきた人。そう思っていたのですが、今回の発見で、じつは映画本編の編集にも携わっていたことが判明した。ただし、この『黒いさくれつ』1本だけです。つまり、彼女にとってみれば唯一、自分の名前がスクリーンに残るはずだった作品なんです」
「ところが不幸にも作品そのものが葬られてしまった。しかも、その理由が版権問題だったので、大っぴらに『私が編集で携わった作品がある』とは言いにくかったのだと思います。だから彼女はこの件を誰にも言っておらず、こうして発見されて調査を進めて初めて公になったわけです。坂尾富美子という人はものすごく大きな功績を残した方なのに、映画界でも忘れられた存在となっています。お世話になった坂尾さんの業績を今の時代にきちんと伝えるのも、今回の私の役割だったのだと思います」
天からの助け舟
根本さんは今回の発見から音源リリースに至る過程で、さまざまな壁にぶつかった。しかしそのたびに「天から坂尾さんが助け舟を出してくれた」としか思えないような幸運や導きが幾度もあったという。
「なかなか解明できなかった、アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズの “日比谷公会堂での公演” ですが、当時の日本ツアーのプログラムを入手できたんです。なんとその中に、日比谷公会堂の公演チケットの半券が挟まっていました」
「映画『黒いさくれつ』の調査の過程で、ふとかつて古書店で一束いくらで買った『観光文化ホール』の映画プログラムのことを思い出し、パラパラとめくっているとなんとアート・ブレイキーが表紙を飾ったプログラムが出て来たんです。公開直後にお蔵入りした作品のプログラムが手元にあったなんて! 作品紹介もバッチリ記載されていたのでこれこそ天の配剤と思いました」
そんな不思議なことが、今回の調査で何度も起きた。書籍『虚業成れり−「呼び屋」神彰の生涯』も同様である。重要なヒントや答えは、なぜか、はじめから手の届くところにあった。そうした資料を手にするたびに、根本さんは過去の行動を振り返り、これまでの自身の活動を省みたという。
また同時に、謎を解きながら未知の世界を切り開いていく興奮。これも存分に味わえたのではないか。
「謎解きの面白さと喜び。それは確かにありました。私がやっているNPOは、大衆文化に関する資料の保存や継承を目的としています。当然ながら、古いものを扱うことが多いのですが、そのほとんどは “みんなが知っているもの”なんですね。そんな中で “歴史のひだに埋もれたもの” を発掘して世に出すという作業は確かに、いつもとは違う興奮を伴うものでした」
ただし、心を躍らせながらも根本さんは自らを律し続けた。できるだけ多くの史料をあたり、きちんとした裏付けをとって、証拠を積み重ねていく。常にそう心がけながら “発掘物”の謎を解いていった。結果、こうして正式に作品化されたわけである。
とはいえ、すべてのピースがきれいに噛み合ったわけではない。
「今のところ “日比谷公会堂のアート・ブレイキー公演を見た”という人に会えていないし “映画『黒いさくれつ』を観た”という人にも会ったことがない。もちろん、行方不明になったフィルムの所在など見当もつきません。ただ、このアルバムをリリースしたことで新たな手がかりや証言者が現れると面白いですね」
根本さんの探索の旅は、いまも続いている。
取材・文/楠元伸哉
撮影/渡辺知寿
日本のジャズ文化に革命を起こした歴史的公演。
幻のドキュメンタリー映画用に記録された
初来日公演の音源が奇跡の発掘!
アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズ
『ファースト・フライト・トゥ・トーキョー』
(ユニバーサルミュージック)
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