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古来、芸術や芸能のパトロンはときに貴族であり、ときに社会的アウトローだった。禁酒法下にあった1920年代のシカゴにおいてジャズを庇護したのは、アウトローであると同時に「犯罪貴族」でもあったギャング集団である。その頂点に君臨したアル・カポネは、黒人ギャングに特権を与え、黒人ジャズ・ミュージシャンを厚遇した。イタリア人であった彼は、なぜ黒人を擁護したのだろうか。20年代のシカゴで活動した名ピアニストの証言をもとに、ジャズとギャングの関係を探る。
閉店後に姿を見せるオーナー
テディ・ウィルソンは1930年代のスウィング期から数多くの録音を残してきた黒人ピアニストで、ジャズ・ファンの間ではレスター・ヤング(テナー・サックス)とレコーディングした『プレス・アンド・テディ』(1956年)などのアルバムがよく知られている。彼がキャリア初期に腕を磨いたのが1920年代の、つまりアル・カポネの支配下にあった禁酒法時代のシカゴだった。彼はジミー・ヌーン(クラリネット)やルイ・アームストロング(コルネット)のバンドにピアニストとして参加していたが、雇用主はナイト・クラブのオーナー、すなわちギャングだった。
20年代のシカゴのギャングは「ジャズの偉大なパトロン」であり、彼らは「ミュージシャンやエンターテイナーには親切で寛大だった」とテディは自著『Teddy Wilson Talks Jazz』で振り返っている。この本にはカポネ時代のシカゴにおけるギャングとジャズ・ミュージシャンの関係を示す貴重な証言が含まれているが、残念ながら未邦訳である。以下、拙訳にてその証言を紹介したい。
テディが契約していたクラブの一つが「ゴールド・コースト・クラブ」で、そこがカポネの店であることを彼は当初知らなかったらしい。しかし、ギャングが経営する店であることは知っていて、小遣い稼ぎでバイオリン・ケースにマシンガンを入れて運ぶ仕事を引き受けたりもしていたとテディは書いている。カポネがオーナーであることを知ったのは、次のような出来事が何度もあったからだ。
「演奏が終わって一般の客が帰ると、ドアがロックされて、15人の屈強なボディガードを従えたカポネが店に入ってくる。彼はボディガードのほかに20人ほどの客を引き連れていて、その客人にショーや食事、酒を提供するのだった。その騒ぎは日が昇るまで続いた」
テディらはその客を相手に演奏を続けなければならなかったが、演奏の途中でカポネはステージに歩み寄って、すべてのバンド・メンバーに20ドル札を配ったという。そうしてテーブルに戻っては、大きなシガーを吹かし、微笑みを湛えながら、客人が楽しんでいるのを満足そうに見ているのだった。
ジャズ好きなギャングたち
店の1階はバーになっていて、テディらが演奏を終えてそのバーに行くと、外でボディガードたちが防弾仕様のキャデラックに乗ってボスの帰りを待っているのが見えた。テディは彼らと話す機会があったが、そのギャングたちがいかにジャズ好きかを知って驚いたという。
「彼らは、ジョニー・ホッジズとベニー・カーターのどちらがアルト・サックス奏者として優れているかを議論し、ルイ・アームストロングとジャボ・スミスについて熱心に語りあっていた。グランド・テラスで演奏していたアール・ハインズのすべてを知っていたし、どのレコードで彼の曲が聴けるかも知っていた。ビックス・バイダーベックも、エディ・ラングのギター・プレイも、ジョー・ヴェヌーティのバイオリンの技についてもよく知っていた。彼らはのちにハリウッド映画で描かれるようなギャングスターではなかった。銀行員か大学教授、あるいはビジネスマンのように見えた」
ミュージシャンの演奏時間は通常夜の10時からだったが、ステージが終わった後に先のようなパーティやギャンブルが続くこともしばしばで、いつ仕事が終わるかはわからなかった。しかし、そのアフター・アワーズの演奏でミュージシャンが手にするチップは、ひと晩で一週間のギャラを超えることもあったという。テディはその蓄財によって車を買うことができたのだった。
黒人を優遇した闇社会の王
「カポネは興味深い人物だった。もちろん彼は犯罪集団のキングで、血に飢えた殺人者というイメージがあった。敵対するギャングを一掃してシカゴを牛耳り、ウイスキーを闇で販売し、ギャンブル、麻薬、売春を手がける男。しかし彼はそのような犯罪を、如才なく、ビジネスライクにこなしていた。まるで銀行で働くように」
特筆すべきは、彼が黒人に対して非常に寛大なことだったとテディは言う。カポネは自分の配下にあるギャング以外に闇ウイスキーの取り引きをすることを許さなかったが、黒人の犯罪集団にだけはそれを許可した。黒人居住区があったシカゴのサウス・サイドでは、カポネは黒人大衆からたいへんな人気を集めていた。彼が黒人に優しかったのは、イタリア人と黒人がアメリカ社会の最下層の地位を共有していたからだとテディは語る。
「当時、アメリカの民族的ヒエラルキーの一番下にいたのが黒人だった。その次にイタリア人が続き、さらにユダヤ人、アイルランド人が続いた。ヒエラルキーのトップにいるのは、それ以外のアメリカ人だった。カポネが黒人に酒の商売を自由にやらせたのは、たぶん、黒人に対して同じ社会的弱者(underdog)としてのシンパシーがあったからではないだろうか。まあそれは俺の解釈で、本当のところはわからないが」
カポネはなぜ偏見と無縁だったのか
カポネ一家がイタリアのナポリからアメリカに渡ってきたのは1893年である。一家はニューヨークのブルックリンに居を定め、父ガブリエルはそこに理髪店を開いた。まもなく一家に4番目の男子が生まれた。男の子にはアルフォンスという名がつけられた。1899年のことだ。その子が生まれてすぐカポネ家は、アイルランド人、スウェーデン人、ドイツ人などが住むエリアに引っ越した。アルと呼ばれるようになった四男は、家族とともに幼少期をその街で過ごすことになった。
「アルは子供時代の最初の六~七年間を『外国人』にまじって過ごした。移民のほとんどは出身国別に固まって暮らす傾向があったが、アルはこの孤立癖とはまったく無縁に育った。これが後年の事業展開で彼に決定的な影響を与える」
邦訳上下巻で800ページを超える大著『ミスター・カポネ』の著者であるロバート・J・シェーンバーグはそう書いている。シェーンバーグによれば、イタリア人には、外国人はもとより、国内の「よそ者」を恐れ軽蔑する傾向がある。ナポリ人はカラブリア人を恐れ、カラブリア人はプーリア人を忌み嫌い、プーリア人はバシリカータ人を罵倒する。そしてあらゆるイタリア人がシチリア人を疑い、シチリア人もまた自分たち以外のイタリア人を信用しない──。
「子供アルは、この体質をナポリ出身の両親から受け継ぐが、その負の要素は『よそ者』のど真ん中で人格形成期の大部分を過ごすことで打ち消される。これが後年の彼の性格に見られる民族的・地域的・宗教的偏見とは無縁の背景であり、成功の顕著な要素でもあった」
長じてアルが君臨することになる1920年代のシカゴは、ポーランド人、ドイツ人、アイルランド人、イタリア人、アジア人、黒人といった多人種多民族が雑然と交じり合って生活する都市だった。その人種・民族の坩堝(るつぼ)で成功できたのは、アルが幼少期の経験によって人種的・民族的偏見から自由だったからだというのがシェーンバーグの見方だ。
どの国にルーツを持とうが、敵は敵であり、味方は味方である。敵と味方を隔てるのは、あくまでもビジネスにおける利害である。ビジネスの邪魔者である敵を殺すことに躊躇はなく、味方を保護することにも迷いはない──。それがアルのスタイルだった。
テディ・ウィルソンの証言によってもそれは裏づけられる。アルにとって黒人ミュージシャンや黒人市民は「仲間」だった。だから彼は黒人を手厚く遇した。それがジャズに対する愛情、もしくはテディが言うように社会の最下層にいる者同士のシンパシーによるものだったのか、それともビジネス上の判断に基づくものだったのかはわからない。しかし、彼が多くの白人のように、黒人をただ「黒人である」という理由によって差別することがなかったのは事実だ。そのアティチュードが彼を勃興期のジャズの庇護者とした。
ジャズ史上初の人種混合バンド
アル・カポネの庇護のもとでジャズ・ミュージシャンとしての地歩を築いたテディ・ウィルソンは、1932年にニューヨークに移り、ほどなく自身のビッグ・バンド「テディ・ウィルソン&ヒズ・オーケストラ」を結成する。ロイ・エルドリッジをトランペットに、ベン・ウェブスターをテナー・サックスに、ビリー・ホリデイやエラ・フィッツジェラルドをボーカルに迎えた豪華なバンドだった。
その活動と並行して、テディは35年から39年にかけて、白人クラリネット奏者であり、ジャズを「スウィング・ミュージック」の名でアメリカ全国に広める功のあったベニー・グッドマンのトリオに参加している。白人がリーダーを務めるバンドの正式メンバーに黒人が招かれるのは、これが歴史上初めてだった。そのあとにメンバーに加わった黒人ヴィブラフォン奏者のライオネル・ハンプトンと並んで、テディは白人社会と黒人社会の壁を越えたジャズ・ミュージシャンとして歴史に名を残すことになった。
「それは初めての人種混交(Inter-racial)バンドで、アメリカにおける人種関係の重要な一里塚でもあった。しかし、そんなことを私たちが気にしていたわけではない。私たちにとって重要なのは音楽だった」
『Teddy Wilson Talks Jazz』の序文に、ベニー・グッドマンはそんな言葉を寄せている。テディを自らのグループに招いたのはグッドマンだったが、テディ自身に白人社会にアジャストするスキル、人種間の壁を越えるスキルがなければ「初めての人種混交バンド」が実現したかどうか。彼はそのスキルを「民族的・地域的・宗教的偏見とは無縁」だったアル・カポネのもとで磨いた。そう考えることも可能だろう。
直接間接に総計300人を殺したと伝えられる「血に飢えた殺人者」は、ジャズが黒人と白人の垣根を越えて大衆音楽となる第一歩を後押しした、まさしく「ジャズの偉大なパトロン」でもあったのである。
(次回に続く)
〈参考文献〉『Teddy Wilson Talks Jazz』Teddy Wilson/Arie Ligthart/Humphrey Van Loo(Continuum)、『ミスター・カポネ(上)』ロバート・J・シェーンバーグ/関口篤訳(青土社)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。