投稿日 : 2022.02.28

『マイルス・デイヴィス大事典』著者インタビュー|前代未聞の巨編はいかにして作られたのか

マイルスデイヴィス 大事典

2021年はマイルス・デイヴィスの没後30年にあたる年だった。その最後の月に『マイルス・デイヴィス大事典』は刊行された。本書はマイルス・デイヴィスが関与したあらゆる作品と、関連人物をまとめ、索引化した事典である。

著者の小川隆夫は以前にもマイルス・デイヴィスに関する著作を数多く発表してきた。これらは著者が生前のマイルス本人に取材を重ねた成果であり、作品に対する入念な観察の賜物であるが、その集大成ともいえるのが本書である。

800ページを越えるこの大著、一体どんな内容なのか。著者・小川隆夫の談話とともに、その中身を覗いてみよう。

マイルスのすべてがここにある

──マイルス・デイヴィスといえば、史上もっとも有名なジャズ奏者のひとり。なので、このような本があっても不思議ではないのですが、世界中さがしてもこんな体裁の本はなかったんですね。

そうですね。ないから作ったわけですが、このボリュームになったのは予想外というか、どんどん項目が増えていきましたね。とにかく、マイルスのすべてを詰め込もうと思って。

──しかしこれほどのデータ、マイルス本人も把握していなかったでしょうね。

そうでしょうね。かつてマイルスに「お前は俺のことを何でも知ってるんだから、もう何も聞くことはないだろ?」って言われたことありますけど、その集大成でもあります。

マイルスデイヴィス大事典
マイルス・デイヴィスの百科事典が満を持して登場。マイルスとは直接的な関係を築き、その音楽を長年研究してきた音楽ジャーナリストの小川隆夫による渾身の書き下ろし。アルバム、シングル、EP、プロモ盤、ボックスなど、わかる限りすべてのアイテムと全楽曲を解説。ミュージシャンや業界関連人物の人名事典も掲載。〈発売元シンコーミュージック・エンタテイメントのプレスリリースより抜粋〉

──はじめに、この本の全貌をざっと紹介したいのですが、大きく3つの要素で構成されています。まず第1章の「ディスクガイド」。

この第1章ではマイルス・デイヴィスが残したオフィシャル音源のすべてを紹介しています。

──自分名義の作品だけでなく、参加作も含めて全部。

そうです。時系列に並べて、それぞれに解説を入れました。

──ボックスセットやコンピレーションアルバムも含まれているんですね。

全オフィシャル音源ですからね。

──さらに、シングル盤やプロモーション盤まで、レーベルの写真付きで紹介されている。ここまでおよそ400ページのボリューム。そして、第二章の「演奏楽曲事典」と続きます。

これはマイルスが演奏したすべての楽曲をリスト化したものです。バージョンごとに解説していて、テイク違いとかも全部入れてます。

──例えば「So What」という曲を、マイルスはいつ、どの作品で演奏していて、どんな内容なのか。これが一覧できるわけですね。

共演者からドラッグディーラーまで

──そして最後に、第3章の「関連人物事典」。マイルスと関わりのある作曲家や共演者、業界関係者などの関連人物を紹介しています。これもかなりボリューム。

まず、作曲者や演奏者については、原稿を書きながら、登場する人物をどんどんリストアップしていって。あと、そういった公式の録音物以外にもラジオやテレビ放送、ブートレッグなんかも存在するので、それを全部拾い出すわけです。

ただ、それだとマイルスの兄弟や奥さんは入らないし、プロデューサーとか重要な人も漏れてしまう。だから僕が知る限りの、ありとあらゆる人を加えていきました。

──つまり、マイルスの生活や創作に “何らかの形で関与した” であろう人。これをすべて入れた。

そうそう(笑)、ドラッグディーラーとかガールフレンドとか、近所の住人とかもね。

──結果、1000人を越える人物事典になりました。

ああ、そんなにいましたか。800人くらいまではカウントしていたけど…。

──その中の一人に「小川隆夫」という項目があってもいいと思いましたが。

それはおこがましい(笑)。

──人名リストにもすべて解説が入っています。

人によっては情報が少ない場合もあるけれど、紹介するからには何か一言でも添えたくて。あと、出身地と生年月日と没年は必ず入れたかった。もちろん不明な人もいるわけですが、わかる限り調べて入れました。

いまはネットでいろいろな情報をすぐに知ることができますよね。その情報を鵜呑みにはできないですけど、手がかりをつかむのは、以前よりもかなり楽になったと思います。

──手がかりをつかんで “裏付けを取る”までが結構たいへんですよね。

そういう作業自体は、まったく苦にならない。むしろ楽しいんです。そもそも “調べる” という作業じたい、ある程度のノウハウが必要ですけど、そこも得意なんで。

手がかりを見つけて、そこから推測を巡らせて、ここを探れば答えに辿り着くんじゃないか? っていうプロセスが好きなんです。そこは、自分の “医者としての特性” も関係していると思います。例えば、ある病気を治すときには、いろんな方法を想定します。

──同じ病名でも、病気の進行度や患者さんの体の状態によって、治療の方法が変わるということですか?

そう、いろんなアプローチが仮定できる。それで「この場合、どんな方法が適切か」を考えて、答えに迷ったときには、その分野が得意な先生が書いた論文とかも読むんです。そうすると「あ、こんなやり方があるじゃないか」とわかる。さらに、その関連をたどりながらどんどん調べて発展させていくわけです。

──そうやって最善手を導き出す。

その発展させる過程に、おもしろさや喜びを感じるんですね。

“音も聴ける” 事典

──ここまで、ざっと「3つの章」について触れましたが、第1章の「ディスクガイド」は圧巻だと感じました。ちなみに私は毎晩のようにこのディスクガイドで遊んでます。

遊んでる?

──はい、ここで紹介されているアルバムはおおよそ200作品ありますけど、ほぼ全部にQRコードがついていて、スマホをかざすとその場で曲を再生できますよね。

スポティファイとかにリンクさせてます。

──ページを適当にパラパラめくって、目についたアルバムの解説を読んで「へぇ〜!」と思ったら、すぐ聴ける。ちょっとした時間にこれをやるんですけど、すごく楽しいです。

おっしゃる通り、アルバムを聴く際のガイドブックとして使ってもらうのも良いと思います。ジャズの中でも特にマイルスの音源は(サブスクで)充実しているので、こういう作りが可能になったわけです。

ただ、それら(サブスク)の音源にはCDのような解説も付いてないし、演奏者の名前も記載されていない。そこを補完するライナーノーツがわりに、聴きながら読んでもいいと思います。

それで、たとえば「このアルバムでピアノ弾いているハービー・ハンコックが気になる」と思えば、そこからハービー・ハンコックの作品を聴けばいいし。それぞれ、お好きなように活用してくれればいいと思います。

──「事典」という体裁ですけど、じつはこの一冊に「レコード棚」も備えつけてあって、すぐに聴ける。そんなイメージですね。

そうですね。この1冊あれば、ほとんどのマイルスが聴けちゃうわけです。実際に、ある人から「マイルスの曲が全部そろっていて、しかもほぼ全部聞けちゃうんだから、この値段は安いですよね」って言われました。

──私もそう思いました。これをレコードやCDで全部集めたら壁一面が埋まると思うし、整理するのも大変ですけど、この本は幅45ミリ、重さ1060グラム。その中にマイルスのデータと音と解説が全部収まってるわけですからね。

重さを計ったの?

──はい。重たいなぁ…と思って(笑)。でも中身を知ったら、こんなに軽くて便利で楽しいツールはない、と思い直しました。奇しくもトランペットとほぼ同じ重さなので “マイルスがいつも手に感じていた重量感” を疑似体験しつつ読んでます。

マイルスの進化の過程

──小川さん自身は、これらの膨大な音源をアナログレコードやCDで所有しているわけですが、この本は小川さんにとっても「自分のコレクションと情報をきれいに整理して目次化」した、便利な一冊になったのでは?

確かにそれはあります。要は、僕自身がずっと欲しかった一冊なんです。ただ、そんな本はどこにもないし、誰かが作ってくれる様子もなかった。だから自分で作っちゃおう、っていうのが、そもそもの発端なんです。

──この本を作る過程で、新たに知ったことや気づいたことってありますか?

新たな発見ではないですけど「なんでこんなことに気づかなかったんだろう」と思った事はありました。いままで僕はマイルスのありとあらゆる音源を聴いてきたつもりですけど、それは興味の赴くままに聴きたいものを聴いてきたわけです。時代を行ったり来たりしながら。

──まあ、普通はそうですよね。

今回はあらためて時系列に並べて聴いてみて、マイルスの音楽的な進歩がよく分かった。もちろん知識の上では知ってるんですよ。この時期にこんな演奏をしていて、その後にこう進化した、とかね。でも、「このタイミングが変わり目だった」とか「ここから演奏内容がこんなふうに変わっていった」とか、その理由も含めて具体的に細かく把握できました。

──なるほど。没後に発表された未発表音源などを入れ込んでいけば、かなり細かく時系列で追えますからね。

それを追体験すると、「なるべくしてなった」ということがよくわかるんです。当たり前のことですけど “なるほど、そうだよね” と納得できた。

その一例を挙げると、例えば60年代のクインテット。このクインテットになった途端にマイルスの音楽は相当変化しているんです。

──その理由は何でしょうか。

ウェイン・ショーターです。彼が入った途端に変化したことがよくわかる。ベルリンのライヴが最初のレコーディングで、前後にも海賊版なんかで音があるけど、ウェイン・ショーターが入った途端に、同じ曲をやってもマイルスのプレイが全然変わってるんです。マイルスがショーターに触発されたことがよくわかる。

音の出し方も、つんのめってる。アイディアが湧き出すんだけど指が追いつかない、そんな感じの吹き方なんですね。その後にスタジオアルバムの『ESP』を作るんだけど、そっちは落ち着いてる。ところがライブは嬉々としてやっているのがよくわかる。

事典としての合理性を追求

──マイルスのキャリアを時系列で追体験するような感覚。これは、読んでいても得られました。事典なので通読するものではないと思っていましたが、作品解説を順番に読んでいくとマイルスの音楽人生にシンクロできるし、普通に、読み物としてもおもしろい。そこは、きちんと取材してファクトと考察を積み上げた結果だと思いました。

それは嬉しい。僕はマイルスに対する思い入れはとても強いけど、書くものに客観性は保ちたいと思っています。自分の好き嫌いとか、意見や感想だけで書いちゃうのはすごく簡単だけど、それはやりたくない。せっかく今までいろんな人にいろんな話を聞いてきて、きちんと取材をしてきたわけだから、そこは反映させたいんですね。

その上で、外せないと思ったのは「当時の視点」と「今の視点」です。たとえば作品の解説をするときに、このレコードが出た当時はどう捉えられたのか、それから今はどう捉えられているのか。この両方の視点は意識しながら紹介しよう、と。

もちろん自分の意見や考察も入れるけど、「これって本当かな?」と思ったら、なるべく当事者に確認する。あるいはいろんな方向のいろんな意見や情報を検証する。そうやって自分が納得した上で書きたいんですよね。

──ほかにこだわった点や苦心したことは?

これは全体の作りの話ですが、「ディスクガイド」でアルバムを解説するとき、アルバムの紹介に徹するということ。つい参加ミュージシャンや曲の話をじっくり書いてしまいがちだけど、結局、同じ話を何度も書くことになってしまう。

──なるほど、ジャズ特有の現象ですね。

そう、曲目とかミュージシャンとか、被る部分も多いわけです。これを毎回、何度も説明するのは無駄と判断して、アルバム、曲、人物の解説をそれぞれ別に立てました。

一応、これまでにマイルスに関する本や、ジャズの作品紹介など、いろんな書籍を作ってきた経緯と蓄積があって。そのノウハウを投入したり、あるいはアイディアを合体させたり発展させたりしながら設計した感じです。

──確かに、事典という “ツールとしての機能性” を考えると、情報を無駄なく整理して、わかりやすく、読みやすく、使いやすく設計すべきですね。

そういった合理性の部分で言うと、文字のレイアウトとか、写真の配置、表記など、体裁にも気を配りました。まあ、そこは僕の性分というか気質もあるけれど、体裁がきちんと揃っていて、合理的なつくりになっていないと嫌なんです(笑)。

だから、校正は大変でした。書くのはあっという間なんです。楽しんでスラスラ書けた。ところが、その後にゲラをチェックするとき、気になるところが山ほど出てくる。これを直すのが大変で。書く作業の何十倍もの時間を要しました。

──誤記の修正だけでなく、本全体の表記統一や、文字と写真の体裁など、いろんな角度から見て整合性をはかる必要がありますからね。

とにかく合理的になっていないと嫌だから、そこをいろんな角度から検証する。ひとつ直すにしても、それが全体に影響する場合もあるから、大変な作業が続くんですね。

といっても、その修正は編集者にお願いするわけだから、とにかく申し訳なくて(笑)。よく途中で投げ出さずに最後までやってくださったな…と思うくらい、編集者も大変なご苦労で。

──編集者は池上信次さん。これまで小川さんの本も多数手がけてこられた。

この『マイルス・デイヴィス大事典』は、池上さんとの共著と言ってもいいくらい。根気よく付き合ってくださったおかげで完成した本です。

──これほどの大著、出来上がって本を手にしたときに何を思いました?

マイルスが亡くなったときにね、その喪失感で何も手につかない状態になったことがあって。しばらく経って、やる気が少しずつ復活してマイルス関連の本をいろいろ書いてきましたけど、今回は久しぶりにマイルス・ロスじゃないけど、書き終えたときに「ああ、終わっちゃった。つまんないなぁ…」って。そんな気持ちになりました。

マイルスがこの本を見たら何というだろう? 驚くのか無反応なのか、それとも呆れるのか…。そこはマイルスとある種の友情で結ばれていた著者が、いちばんリアルな反応を想像していることだろう。いまのところ本書が翻訳される予定はないそうだが、マイルスのファンだけでなく世界中のジャズファンに重宝される一冊である。