1970年代の初頭、日本のジャズシーンは新たな局面を迎えていた。その強勢を真芯で捉えたのが、国内初のインディ・ジャズレーベル「スリー・ブラインド・マイス(TBM)」であった。時は流れて2018年、TBMと思いを同じくするジャズレーベル「デイズ・オブ・ディライト(Days of Delight)」が登場し、着々と秀作を世に送り出している。
そんな両レーベルの創設者がここに初めて対面し、日本のジャズとレーベル運営について語り合った。
前話「第1部」はこちら
“良いジャズ” の条件
藤井 ぼくはジャズで大切にすべきキーワードが3つあると思っているんです。ひとつは “ライブ”。生演奏こそジャズの真髄だから、とにかく生を聴かないことには話にならない。もちろん、ジャズの醍醐味はスイングすることにあるわけだけど、それよりなにより “いまこの瞬間の音楽” であることこそが決定的なんです。「いまそこで生まれているのがジャズなんだ」というのがぼくの主張です。
平野 よくわかります。
藤井 ふたつ目は “インプロ=Improvisation” です。昔はアドリブとも言っていましたね。
自分がなにを言いたいのかを伝えられるのがジャズです。音色がどうとか、ミスがなかったとかいうのは二の次であって、ミスがあろうがなんだろうが、言いたいことが言えているかどうかがいちばん大事。だから、ジャズでは「上手いなあ」というのは褒め言葉ではない。「なんだかわからないけど、スゲー!」のほうが「上手いなあ」よりはるかに上です。それはひとえにインプロのありように依存している。
平野 たしかに上手いけどつまらないプレイは山ほどあるし、逆にシンプルだけど、いやそうであるからからこそ感動するプレイも山ほどある。しかもそれはテーマのメロディラインがどうこうではなく、インプロがはじまってからの話ですものね。
藤井 そして最後は “シャリコマ” です。
平野 シャリコマ? なんですか、それ?
藤井 コマーシャル=商業主義的な態度のこと。売るためのアレンジを施したり、口当たりよくサウンドをつくったり…。
そういうシャリコマ・ベースのものが増えれば、たしかに大衆に浸透していくかもしれないけど、それはジャズ本来のありようではないとぼくは考えている。だって、現代のジャズに流行るような要素はないでしょ? 甘い歌詞があるわけじゃないし、すぐに覚えて風呂で口ずさめるようなメロディがあるわけでもない。ただひたすら真剣にインプロをやってるのがジャズですからね。
平野 たしかに。
藤井 しかも肝心なところはすべて “その場でどこまでやってくれたか“ にかかっている。そのときその場の観客がどれだけ反応できたかで、いい演奏を引き出せたり、引き出せなかったりするわけで、大衆に安定的に快楽を提供できるポップスとはハナから組み立てがちがうんですよ。
平野 そうですね、なるほど。
藤井 だから、「ライブ」「インプロ」「シャリコマ」という3つのキーワードを忘れなければ、いいジャズを見逃すことはないと考えているんです。
なぜライブが重要なのか
平野 先ほども言いましたけれど、ぼくにとっていちばん大切なレーベルがブルーノートでもプレスティッジでもなくTBMだったのは、いまこの瞬間に目の前で生音を聴ける日本人の現役プレイヤーを手掛けていたから。なにしろライブで聴く生音は次元がちがいますからね。
藤井 そのとおりです。
平野 50センチ先で鳴っている土岐さんの生音なんて、直接脳幹に打ち込まれますもんね。あの音圧と質感のインパクトは、とても言葉では表現できない。F1サーキットで聞くエンジン音とおなじです。
だからぼくは「もっとライブを聴きに来てくれ!」って言いたいんですよ。ぼくごときが言うのもナンだけど、ライブの客をもっともっと増やしたい。ぼくが現役バリバリのプレイヤーだけを手掛けているのも、究極の目的はライブに来てもらうためなんです。
藤井 3つのキーワードのトップは “ライブ”。とにもかくにもジャズはライブなんだと、ぼくは60年間言いつづけている。ライブを聴かないことには、ジャズに触れたことにならないってね。“いまそこで生まれている” のがジャズなんだから。しかもミュージシャンとリスナーは対等です。とくに現代のジャズでは。
藤井 もうひとつあるのは、それ以外にミュージシャンを育てる道がないということ。レコードコレクターが「マイルスの希少盤に何万払った」なんて言ったところで、いまがんばっている日本のミュージシャンには1円も還元されない。それでは日本のジャズは伸びないんですよ。でも、ライブに行ってミュージックチャージを払えば、その何割かは彼らの懐に入るし、会場でCDを買ってあげることが応援につながる。それ以外に応援する方法はないんです。
平野 ジャズの真髄はライブであり、ライブに足を運ばない限り、ミュージシャンを応援していることにならない。そのライブの真髄が二つ目の“インプロ”である。なにかを型どおり、決められたとおりに再現するのではなく、“そのときその場の自分” を表現する。そういうことだ。
藤井 ジャズとは自己表現の音楽ですから。そもそも、自分が表現したいことは現代のジャズをとおして表現するしかない、と思っている連中しかジャズをやっていないんです。そういうミュージシャンしか生き残れないしね。
もちろんぜんぶとは言いませんよ。〈ピットイン〉や〈ドルフィ〉なんかで見ていても、インプロを中心に置いているミュージシャンが3〜4割。あとは “一丁上がりセッション” みたいなのも多いけど、そういうなかにも、じっくり聴くとおもしろいことをやってるっていうのも居ますからね。
リスナーに歩み寄る必要はない?
平野 「ライブ」と「インプロ」についてはすっと腑に落ちたんですが、「シャリコマ」は一筋縄ではいかないような気がするんです。もちろん、ぼくは金儲けのためにレーベルをはじめたわけじゃないし、「売れるから」という理由で作品をつくることもありません。TBMがシャリコマに陥らずに成果をあげたことも知っています。それでもなお、なにかまだモヤモヤしていて……
藤井 うん。
平野 もちろんジャズは芸術だけど、エンターテインメントでもあると思うんですよ。対価を払ってくれるリスナー=観客の存在を前提としたコミュニケーション・メディアである以上は。リスナーにとってジャズは修行の場ではないから、まずもって楽しめなきゃいけない。
藤井 そりゃそうです。みんな楽しむためにライブに来ているんです。
平野 じつは現場で若いプレイヤーの演奏を見ているときに、「もうちょっとこうすれば、もっと多くの人に聴いてもらえるかもしれないのに…」と感じることが少なくないんです。もちろん「客に媚びを売れ」なんていうつもりはまったくありません。自分のヴィジョンに蓋をしてファンの好みにあわせようとするのはナンセンスであり、“御用聞き”は必要ない。酒場の “流し” じゃないんだから。
藤井 もちろん!
平野 「マーケティング思考を身につけろ」なんていうつもりは毛頭ないけれど、「どうすればもっと多くの人に届くか」を考えることは、まちがっていないし、恥ずべきことでもないとぼくは思うんです。でも、それは芸術家の態度ではない、オレはオレがやりたいこの道を突き進むんだ、と考えるプレイヤーが、とくに若い世代に多いような気がするんですね。
藤井 それでいいんです。それが本物ですよ。
平野 それはそうかもしれないけど、いっぽうでは、そうであるからこそ、ジャズがなかなか広がっていかないってことも事実だろうし…
藤井 言いたいことはわかるけど、30歳前後の若いプレイヤーに「そういうことも頭の片隅に置いたほうがいいよ」なんて言うこと自体が無駄なんですよ。
平野 ああ…
藤井 その年頃までは、「ジャズで自分を自己表現できる」と本気で思っているんだから。じゃなきゃ最初からやらないよ、こんな金にならないこと。
平野 そうですよね。
レーベルオーナーがやるべきこと
藤井 昔みたいにスタジオ周りの仕事がたくさんあって、スタジオミュージシャンで食えた時代なら、今日はこの人を何曲、明日はあの人を何曲と、どんどんチャージがあがっていったけど、いまはそういう時代じゃない。
だから、ほんとうに自分がやりたいことをやらせてくれる機会があるなら、ありがたくやるべきなんです。そのチャンスを前にして報酬についてどうこう言うのはシャリコマです、ぼくに言わせればね。
平野 なるほど。
藤井 ミュージシャンたちはみんな「どうすれば自分を表現できるか」を真剣に考えているし、懸命に勉強していますよ。それをサポートしてあげれば、彼らは本気でやってくれる。それ以外にないんですよ、ジャズは。
平野 そうですよね。たしかにそうだけど、ぼくは悔しいんですよ。
藤井 そりゃ、ぼくだって。でもね、もっとジャズ人口を増やしたいと思ってくれるのはありがたいけど、けっきょくは地道にやるよりほかないんです。だって、本物を聴かない限り感動しないし、その感動を経験しなければ本物のジャズファンにはならないんだから。
平野 「御用聞きは必要ないけど、ウォッチくらいはしろよ」と言いたいけど、やっぱり余計なお世話なのかな。
藤井 足を運んでくれる人が増えれば、ジャズに感動する人はかならず増えます。だって、じっさい彼らは感動する演奏をしているんだから。そこは昔からまったく変わっていませんよ。聴いて感動した音楽がジャズなら、その人はそのときからジャズファンになる。
平野 それにしても、ジャズファンの裾野を広げるにはなにをしたらいいのかわからなくて…。「なにをしたらいいんだろう?」「なにができるんだろう?」って。
藤井 じつに簡単な話です。平野さんの心に響いて、「わあ! これはすごいぞ」と思ったものだけをやってりゃいいんです。
聴くこともジャズ創造の一環である
平野 リスナーの存在についてはどのようにご覧になっているんですか?
藤井 さっきも言ったけど、ミュージシャンと対等です。
平野 対等ということは、批評する立場?
藤井 いやいや、あくまで楽しむ人です。その場でミュージシャンとおなじようにね。なぜ対等かといえば、もしリスナーがひとりもいなかったら、それは単なる練習であって演奏ではない。そうでしょ?
平野 たしかに。
藤井 ひとりでもふたりでも有料のお客さんがいたら、それはもう立派なライブであり、プロとしてのパフォーマンスです。ミュージシャンは、その環境をつくってくれたリスナーに本気で向きあうべきなんだ。いっぽうのリスナーは、真剣に、能動的に聴かない限り本物の感動はないし、本物のジャズがわからない。
この意味でもミュージシャンとまったく対等、おなじレベルです。そういうなかからしか感動する演奏は出てこないと思いますね。
平野 ああ、なるほど。
藤井 だから、リスナー側が卑屈になる必要はまったくない。「ぼくは演奏できないから」なんていう心配はいっさい無用。そういう意識は邪魔なだけです。「オレたちがいなければ、ただの練習なんだからな」くらいのつもりでいい。
平野 岡本太郎がおなじことを言ってます。絵を見て、「いいわね。あたしにはわからないけど」と言う人がいるけど、これほどナンセンスなことはない。“いい”と思った分だけわかったということであって、それ以上のわからない分のことなんか心配する必要はないんだと。
藤井 そうです、そうです。
平野 1枚の絵を10人が見たら、それぞれに10通りのイメージが浮かぶ。ゴッホの絵は生前には1枚しか売れなかったのに、状況が一変したのは “受けとる側”の問題意識が変化したからであって、作品自体はなんら変わっていない。つまりは鑑賞=味わうことが価値を創造しているのであり、味わうことは創造に参加すること。創造と鑑賞は永遠の追いかけっこなのだ。そう言っているんです。
藤井 まったくそのとおりですよ。さっきも言ったけど、どんなにいい演奏をしたところで、鑑賞者がいなかったら、そんなものはただの練習なんだから。しかも、絵は原画が残っていますが、ジャズ演奏はそのときだけで空中に消えてしまう。だからこそレコーディングが重要なんです。それによっていま地球の裏側で演奏されているジャズを聴くことができるわけですからね。
平野 芸術とは、鑑賞者との関係のなかでいのちを吹き込まれるものであり、鑑賞も創造の一環である。そう考えれば、表現者と鑑賞者は最初から対等に決まっている。
藤井 そうです。ジャズだっておなじ現代芸術ですから。
“現役ジャズファン”の推移
平野 アルバムを買ってくれるファンについてはどうですか?
藤井 TBMがはじめて出した広告のキャッチコピーをお目にかけましょう。これです。「あなたは偏見をお持ちではないでしょうか?」。つづけて「もし、あなたが日本のジャズに何らかの偏見を持ち、本場アメリカのジャズこそが本物だと思い込んでいたとしても、それはあなたの責任ではありません。今日までの日本のジャズが、ごく一部の優れた演奏家のそれを除いては、ほとんどがいわゆる本場のコピーに過ぎなかったからです」。
平野 スゲー! カッコいいー!
藤井 こんな挑戦的なことを書いたのも、なんらかのリアクションが欲しかったからです。ライブとおなじようにね。
平野 そうか。レーベルのプロデューサーとファン=リスナーの関係も、ライブにおけるプレイヤーと観客の関係とおなじである、ってことですね。つまりレーベルとリスナーは対等であり、リスナーはレーベルの活動を高め、育ててくれる存在であると。
藤井 そうです。応援もしてくれれば、批評もしてくれる。それが “現役のジャズファン” です。
平野 現役? ファンには現役とリタイヤ組がいるってことですか?
藤井 現役の定義は、ぼくに言わせれば「月に50ドル以上をジャズに使う人」。つまり毎月コンスタントに5〜6千円をジャズに使う人を現役と言う。
平野 なるほど。
藤井 「ジャズ、好きです」「一昨年に行った◯◯フェスティバルは良かったな」「招待券をもらったので、今度◯◯さんのコンサートに行くんです」なんてのは、ぼくの定義では現役のジャズファンとは言わない。少なくとも毎月2〜3枚はCDを買いますとか、月に1〜2回はかならず生演奏を聴きに行ってます、という人じゃないと。
平野 良かった。ぼくはまごうことなき “現役” です。
藤井 (笑) そんな現役のファンが1970年代に一気に増えたんですよ。ぼくがTBMをつくった1970年には、現役ジャズファンの人口比が0.2%、24万人弱だったものが、70年代後半には0.3%の35〜6万人になった。当時、アメリカはまだ0.2%くらいだったのにね。
平野 へえ〜。
欧米が認めた日本のジャズ
藤井 だからぼくは、1977年ぐらいに日本のジャズが世界一になったと考えている。70年代は、ジャズファンの数、ライブハウスの数、そしてアルバムの発売点数も圧倒的に日本が多かったからです。アメリカ盤の復刻も盛んだった。それこそ東芝EMI盤の〈Blue Note〉とキング盤の〈Blue Note〉が出て、どっちのカッティングがいいの悪いのなんてね。
平野 そうだったんですか。
藤井 それより少し前、1974年だったかな、パリの〈オーディオ・カルテット〉っていうところがTBMを気に入ってくれて、パリをはじめヨーロッパではけっこう置いてくれました。
平野 それでだ。じつは、ぼくがはじめてヨーロッパに連れていってもらったのが高校2年のときだったんですけど、パリの大きなレコード店に行ったら、いちばんいい場所を占拠していたのが、TBMをはじめとする漢字の帯が巻かれたLP群だったんですよ。1976年くらいです。
平野 手に取る人々の表情から、日本のジャズをリスペクトしていることがはっきりわかりました。その光景を目にしたとき、ぼくはものすごく嬉しかったし、誇らしかった。ちょうどアメリカのジャズが中途半端な時期だったから、もしかしたら日本のジャズが天下を取る時代がくるかもしれない、いや、そうにちがいないと。
藤井 嬉しいことに、パリをはじめヨーロッパではTBMのファンができていったんです。演奏に加えて音質も評価されてね。ジャズファンだけでなく、オーディオマニアが買ってくれて。スウェーデンの〈オーディオ・ラボ〉という店のオーナーがオレフ・ケルトという人で、世界中のオーディオの名品と音の良いレコードを扱っていたんだけど、TBMのレコードもたくさん売ってくれました。
平野 そのころには日本人プレイヤーの演奏技術も国際水準になっていたわけですよね。
藤井 1977年から1980年あたりは世界のトップだったと思います。じっさい1977年にモントルージャズフェスティバルを主催するクロード・ノブスから連絡があって、「来年のモントルーで、いまの日本ジャズを伝える “Japan Today” というプログラムに1日空けるから、ぜひ推薦してくれ」と言うので、三木敏悟の〈インナー・ギャラクシー・オーケストラ〉と山本剛トリオを連れて行ったんだけど……
平野 あの〈インナー・ギャラクシー・オーケストラ〉のライブ盤『モントルー・サイクロン』はすごいですよね。陳腐な言い方だけど、まさに鳥肌ものです。
藤井 松本英彦さんのフルートとテナーのソロは拍手が鳴り止まなかったもんね。満杯のお客さんがスタンディングオベーションで。
平野 まさにうなぎ登りだった “日本ジャズの70年代” を象徴する出来事ですよね。じっさい当時はいまとは熱気がちがいました。ジャズ喫茶やジャズクラブがたくさんあったし、客もいっぱい入っていた。毎月たくさんの新譜がリリースされ、そうした動きを伝える『スイング・ジャーナル』誌も健在でした。TBMが口火を切ったマイナーレーベルも次々に立ちあがって。
藤井 TBMが1970年、その後72年に〈トリオ〉が少しつくりはじめて、74年に〈イースト・ウィンド〉、75年に菅野沖彦さんの〈オーディオラボ〉、76年に〈Aketa’s Disk〉、78年に陸前高田の〈Johnny’s Disc〉。この辺りがマイナー・レーベルとして出てきた時代です。
平野 いっぽうでは、先ほどの話のように、“現役のジャズファン” が増えていった。
藤井 そうです。ほんの4〜5年のあいだに人口比が0.2%から0.3%に、10万人も増えた。5割増しです。みんな1973年以降ですよ。まさにジャズの日本化です。
平野 ぼくがジャズと出会ったのがその1973年です。それ以降の “日本ジャズの黄金期” をリアルタイムで体験することができた。幸運だったとつくづく思います。
第3部に続く
第3部 ダイジェスト映像
Days of Delight 公式Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC7MpSLaYNmXaeb_XlUjJTrw