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スリー・ブラインド・マイス 創始者・藤井武インタビュー|「制作はワンマンじゃなきゃダメなんですよ」─日本初のインディ・ジャズレーベル物語〈3〉

1970年代の初頭、日本のジャズシーンは新たな局面を迎えていた。その強勢を真芯で捉えたのが、国内初のインディ・ジャズレーベル「スリー・ブラインド・マイス(TBM)」であった。時は流れて2018年、TBMと思いを同じくするジャズレーベル「デイズ・オブ・ディライト(Days of Delight)」が登場し、着々と秀作を世に送り出している。

そんな両レーベルの創設者がここに初めて対面し、日本のジャズとレーベル運営について語り合った。

前話「第2部」はこちら

「売れなくても後悔しない」という覚悟

平野 29歳でTBMの設立が現実になったとき、最初に考えたこと、あるいは最初に決意したことはどんなことでした? 29歳はまだ若造だから、いろんな不安があっただろうし、他方では夢やヴィジョンに溢れていただろうし…。

藤井 まずはとにかく、ぼくの耳で、心で、いちばん勢いのあるプレイヤーを選んで、それをやるんだ、ってことかな。有名無名を問わず、ぼくが興奮し感動したミュージシャンだけをやる。「誰を」とか「なにを」ではなく、ぼくの心を震わせた音楽を紹介しようと。

平野 オーナープロデューサーの意義と価値がまさにそれですもんね。

藤井 もうひとつは、ぼくがやらなくても作品を発表するチャンスのあるプレイヤーはやらない、ということ。他でレコーディングのチャンスがあるなら、そっちで出してもらえばいい話ですからね。逆に、どんなにベテランであっても、「いまこんなにいい状態なのに、なぜだれも録ろうとしないんだろう?」という人はぜひやりたい。

平野 なるほど。

藤井 そういう考えで最初に選んだのが、当時アルトを吹いていた峰厚介です。TBMは最初の2年で8枚のアルバムを出したんだけど、うち2枚が彼のリーダーアルバムであり、サイドを含めて4枚に参加している。それぐらい買ってたんです。

平野 峰さんのどこがそんなに良かったんです?

藤井 勢いがあって流れるようにインプロが出てくるし、音がとにかく新鮮で心に響いた。だから「コレだ!」って。

平野 他のプレーヤーに比べて頭ひとつ抜け出ていた?

藤井 そう感じましたね。とにかくズバ抜けていた。いまはアルトを吹かずテナーの大御所になっちゃったけどね。半世紀経ったいまも、彼はトップ・テナーですよ。

平野 ぼくも真っ先に峰さんをやりたいと思いました。だから Days of Delight の第2弾は、いわば “峰厚介のいま” です。

峰厚介『Bamboo Grove』(2018/Days of Delight)

平野 ついでに言えば、第1弾は25歳でTBMからデビューした土岐さんです。藤井さんが見出した才能は、半世紀が過ぎたいまもシーンの最前線で輝いている。ぜひTBMとDays of Delight を一緒に聴いて欲しいですね。

土岐英史『BLACK EYES 』(2018/Days of Delight)

藤井 ありがとう、ぼくの耳がまちがっていなかったことを証明してくださって(笑)。

平野 ただ、当時の峰さんがいかにすごい演奏をしていたにしても、まだ20代半ばでアルバムの実績もないし、全曲ギンギンのオリジナルで攻めているわけだから、どう考えても売れっこないじゃないですか。

藤井 しかもこんなジャケットだしね(笑)。

平野 そうそう(笑)。あらためて見ると、このジャケット、ほんとにすごいな。半世紀前にこれだもんなあ。よく出しましたよね、コレ。

峰厚介クインテット『MINE』(1970/Three blind mice)

平野 つまりは売れないとわかっていながら出したってことですよね。売れなくても構わない、売れなくても後悔しないと考えていた。売れることより、これを出すことのほうが大事なのだと。このアクション自体が、TBMの決意表明であり、価値観の宣言ですよ。レーベルの思想を端的に体現している。

藤井 ああ、言われてみれば、そうかもしれないな。

平野 これがリリースされた1970年にはぼくはまだジャズと出会ってなかったけど、このメッセージは当時のジャズファンにしっかり伝わったんじゃないかなあ。

そういえば、TBMの第1弾は、峰さんの『MINE』のほかにもう1枚、今田勝さんの『ナウ!』がありましたよね。

今田勝カルテット『NOW!!』(1970/Three blind mice)

藤井 今田勝は、その年の3月に紀伊国屋ホールでリサイタルがあったんだけど、その年に観たライヴ・パフォーマンスのなかでもっとも斬新で良かったんですよ。だから終演後に楽屋に飛んで行って、名刺を渡して「今度こういう趣旨でレーベルをやろうと思うので、8月ぐらいに予定している最初のレコーディングに参加してもらえないか」と言ったんです。

ミュージシャンの口説き方

平野 藤井さんも名刺を渡すところからはじめたんですね。ぼくと一緒だ!(笑)ぼくもレーベルをはじめる決意を固めたあと、真っ先にやったことのひとつが土岐さんを口説くことだった。なんとしても土岐さんからはじめたかったからです。でもジャズ界の人間ではないぼくにはどうしていいかわからない。そこで御茶ノ水NARU の終演後にバーカウンターでくつろぐ土岐さんに歩み寄り、名刺を渡したんです。

藤井 おなじだね。

平野 どこの馬の骨かわからない男が近づいてきて、いきなり「レーベルをつくることにした。ついてはあなたの作品からはじめたい」なんて言うわけだから、普通に考えれば「なんだ、コイツ」って話です(笑)。

藤井 ますますおなじだ(笑)。

平野 ぼくとしては、少なくとも「怪しい者ではございません」ってことだけはわかってもらわなくちゃならない。なので、著書や新聞記事など本業関連の資料をいろいろもっていきました。

藤井 平野さんはそれができるけど、当時のぼくなんか、なんにもなかったもんなあ(笑)。

平野 のちに土岐さんが「あのときは嬉しかった。じつはあの瞬間、藤井さんに声をかけられたときのことを思い出したんだよ」と言ってくれました。「あんなことを言ってくれたのは、藤井さんと平野さんだけだ」って。

藤井 土岐くんがまだ二十歳ぐらいでね、ゴム草履に裸足だったな(笑)。大阪から出てきたばっかりで、自由が丘の〈ファイブ・スポット〉に出ていたんですよ。

平野 演奏を聞いた藤井さんが「一緒にやらないか、作品をつくろう」って声をかけたんですよね?

藤井 そう。じっさいにファーストアルバムを録ったのは彼が25歳のときだから、5年くらいかかちゃったけどね。

平野 土岐さんは、藤井さんが声をかけてくれたことがすごく嬉しかったし、自信になったと言ってました。「あのときそれを思い出した。藤井さん以来だよ、きみは」って。

藤井 (笑)

平野 これを見てください。これがTBM第1弾の峰さんと、土岐さんのデビューアルバム。こっちが Days of Delight の1枚目と2枚目、それにぼくがつくった1970年代のコンピレーションで、中核はもちろんTBMです。

藤井 両者のあいだに半世紀の時間が流れているんだね。

平野 ぼくは半ば意識的に、半ば無意識のうちに藤井さんを追いかけているんですよ。なにしろレーベルをはじめようと思った動機のかなりの部分を占めているのがTBMですから。いま、あんなレーベルがあったらいいのになあって。

制作はワンマンでOK

平野 じっさいに組織として実務がスタートしたあとは、どんな感じだったんですか?

藤井 高3の夏からレーベルを設立する29歳までに11年ぐらいあったから、いろいろ勉強したけど、どう計算しても赤字にしかならないんですよ。じっさい最初の3年間はどうしようもない赤字でした。4年目からなんとか単年度では黒字になり、5年目から給料を少しもらえるようになったけれど。

平野 身につまされます(笑)。

藤井 そのうちにひとり、またひとりと従業員が増えていって、1975〜6年には大阪にも営業所を出したり、ニューヨークに連絡事務所をつくったりもしました。ただ、アメリカはむずかしくてね。ニューヨークでは置いてもらえるところが7店舗ぐらいしか見つからなかったな。

平野 そうやって事業が徐々に拡大し、組織の規模が大きくなっていったわけですが、TBMの意思決定のメカニズムはどうなっていたんですか? オーナープロデューサーの意義と役割を考えれば、やはり “独裁“ですよね。

藤井 もちろん制作はぼくのワンマンでした。多数決とか全会一致とかでは、自分自身がびっくりするようなものはつくれないからね。「制作はぜんぶオレがやる」と。逆にそれ以外は、営業方針や宣伝紙の編集をはじめ、すべて月1回の全体会議で決めていました。

平野 あ、そうだったんですか。

藤井 議長は輪番制です。その日のテーマひとつ一つについてみんなから意見を出させ、取りまとめをするところまで議長が責任をもつ。一昨日入ったヤツも輪番で議長を務めさせました。ぼくは後ろで見ていただけ。そういうやり方をしていたから、組織が活性化したんじゃないかな。

平野 「だれをやるか」「どういう内容にするか」みたいなことは藤井さんがひとりで決めていたわけですよね。

藤井 もちろんそれは全部ぼくです。100パーセント。

平野 そりゃ、そうですよね。じゃなかったら、あんなラインナップになってないですもんね。

藤井 TBMで「ジャズ・グランプリ」っていうアワードを主宰したことがあるんですけどね。

平野 プレイヤーの登竜門みたいな?

藤井 そうです。1976〜7年だったかな? 1次選考は音源をカセットで送ってもらい、2次選考では課題曲を音源にしてもらってね。最終選考は10位以内をヤマハホールに集めてじっさいに演奏させるんです。

平野 おもしろそうだな。TBMに認めてもらえるかもしれないわけだから、ミュージシャンたちも血眼だったでしょう。

藤井 1回目は〈ジミー・ヨーコ&シン〉というユニークなグループを発掘できたんだけど、けっきょく2年でやめちゃった。

平野 えっ⁈ なんで?

藤井 10人の審査員で選ぶんだけど、やっぱり技術レベルが高いミュージシャンが選ばれる。“なにやってるかよくわかんないけど、スゲーおもしろいことやってるな” みたいなヤツは選ばれてこないんですよ。

平野 あーそうか。そりゃそうなりますよね、合議制だと。

藤井 でもぼくは、おもしろいヤツを録りたいわけだからね。それで2回でやめちゃった。やっぱり制作は断然ワンマンじゃなきゃダメなんですよ。

平野 Days of Delight もおなじです。稟議書もなければ会議もありません。羅針盤はぼくの直観だけ。

藤井 それでいいんです。あなたの空気が、レコードをとおしてそのまま我々に伝わるんだから。それがなければなんの意味もない。当初、Days of Delight のCDをひっくり返しても、裏にプロデューサーの名前が書かれてなかったでしょ? それがぼくはたいへん不満だったんだ。ぜひ一度文句を言ってやろうと思ってね(笑)。

平野 面目ないです(笑)。TBMには必ず「PRODUCED BY TAKESHI “TEE” FUJII」とクレジットされてますもんね。途中でそれに気づいたので、1年前からおなじようにクレジットしています。

藤井 「だれがプロデュースしたのか」。ジャズのアルバムでは、プロデューサーの名前がいちばん大事なんですよ。

“ナチュラルなのに強い” TBMの音

平野 ぼくはTBMの最大の功績のひとつが、「ジャズという音楽にとって、音の質感がいかに大事で、どれほど大きな意味をもっているか」を、身を以て示したことだと思うんです。

藤井 当時はステレオをもつことが大学生の夢だった時代でしょ? ちゃんとしたステレオを買えなかった若者たちが、最初のボーナスでスピーカーを買い、次のボーナスでアンプを買い…っていう時代です。だから音にはこだわりがありました。

平野 よくわかります。なにしろぼく自身がその世代ですから。

藤井 あのころ秋葉原の電気街を歩くと、かならずどこかで『Misty』(山本剛)か『Blow Up』(鈴木勲)がかかってたな(笑)。

山本剛トリオ『MISTY』(1974/Three blind mice)

平野 たしかこの2枚がTBMの売上げツートップでしたよね。

藤井 そうです。

鈴木勲カルテット『BLOW UP』(1973/Three blind mice)

平野 TBMの音って……なんて言ったらいいかなあ……

藤井 ナチュラルだけど強いんです。

平野 そうそう! ナチュラルなのに緻密。高純度・高密度なのに瑞々しく生々しい。“熱量”と“解像度”が共存しているんですよ。それまでのジャズアルバムにはなかった音です。

藤井 そうかもしれないね。

平野 それまではルディ・ヴァン・ゲルダーの音が正義であり、のちにその対極としてECMが出てきた。このふたつがジャズ界を席巻するなかで、TBMはいずれのコピーでもない独自のサウンドをつくったわけですよね。背後にはどんなポリシーがあったんですか?

藤井 ヴァン・ゲルダーは、ピアノソロになるとピアノをちょっと前に出すんです。そのときリスナーはピアノを聴くわけだから、理にはかなっています。次にベースソロがくると、ピアノをちょっと下げてベースを少し前に出す。そういうアーティスティックなつくり方をするんだけど、ぼくはそうしなかった。その場で聴こえるまんまを出したかったからです。次がアルトだからといって、アルトをグッと前に出すようなことはしなかったし、レコーディングでプレイヤーをブースに入れることもしなかった。ほぼすべて「せーの!」で録ってます。細川綾子とニューハードの『コール・ミー』のときだって、オーケストラと一緒に歌っているんですよ。

平野 えー! 歌も、ましてやバックがオーケストラでもそうなんですか⁈

藤井 そうです。カラオケをつくって何回も録り直すなんてジャズじゃない、とぼくは思っているからね。だいいちオーケストラと一発で合わせられないようでは、はじめから “レベルじゃない”んですよ。もっとも、喉にひっかかって声が出ないといったアクシデントもあるから、万一のためにボーカルだけは1チャンネルを空で空けておくんだけど、使ったことはないな。

レコーディング・エンジニアとの出会い

平野 TBMサウンドをつくるとき、リファレンスというか、参考にした音ってあったんですか?

藤井 ないです。神成さん(レコーディング・エンジニア)と一緒に演奏を聴きながら、「この音だ!」と思ったものにオッケーを出していただけで。彼には「なるべく自然で、かつパワフルな音、力強い音でまとめたいから、知恵を絞ってくれ」とお願いしていました。

平野 じつは、ぼくの本業の事務所は、岡本太郎が大阪万博のテーマ館をつくるために創設した事務所なんですね。当時はまだディスプレイなんていう概念はなかったし、展示演出を専門とする技術者もいなかった。だから、たとえばテーマ館の照明を担当したのは、日ごろ舞台の照明をやっている人だったし、音響はスタジオの技術者たちだったんです。

藤井 なるほど。

平野 アオイスタジオです。アオイの人たちが展示音響をやったんです。当時のアオイって、クラシックから演歌まで、雑多なものをやっていたけれど、ジャズはほとんど門外漢だったんじゃないかと思うんですよ。

藤井 たぶんTBMの仕事がはじめてでしょう。

平野 つまり神成さんはTBMではじめてジャズを手掛けたはずなのに……

藤井 いや、その前にビクターで宮沢昭の『いわな』を録ってますよ。それを聴いた油井先生が「この青年はいい」とぼくに推薦してくれたんだから。

平野 あ、そうだったんですか。

藤井 で、1枚目の『MINE』のときにアシスタントで参加してもらったんだけど、とにかく彼は耳が良くてね。「次をやってくれない?」と頼んだら、「喜んでやります」って言ってくれて。以来、彼と二人三脚で音づくりをやってきました。

平野 それにしても、神成さんは若かったし、立てつづけに何作も録っていたわけじゃないですよね。なぜほとんど経験のなかった彼が、TBMであれほどの仕事ができたんでしょう? 藤井さんがコンセプトをバシッと打ち込んだから?

藤井 それもあったかもしれないけど、やっぱり耳が良くて、こういう仕事が好きだったからでしょう。それともうひとつあるのは、TBMではエンジニアやデザイナーの名前をきちんとクレジットしたということ。「自分の仕事としてきちんと名前を載せるから、どこに出しても恥ずかしくない仕事をしてくれ」と言ってね。そうすれば、だれだってやる気になりますよ。ほかのメジャーでは、いくらやったって名前なんか出ないんだからね。

平野 そりゃモチベーションあがりますよね。おなじことが西沢さんにも言えるはず。どう考えても『MINE』みたいなデザインをやらせてくれるところなんて、ほかに無いんだから。嬉しかっただろうな。

西沢さんにはなにか言ったんですか? ジャケットとはこういうものだとか、こういうふうにしてくれ、とか。

藤井 いや、具体的なことはなにも指示していません。だって、決め手は彼のセンスなんだから。余計なことを言ったら、台無しにするだけですよ。とうぜんロゴは指定しましたけどね。

平野 どのような経緯で彼に?

藤井 ほかにも何人かアイデアをもってきたデザイナーがいたんだけど、『MINE』のデザイン案を見たとたん、一発で「この人じゃなきゃダメだ」と思ったんですよ。こんな“首だけ”なんて、ショッキングでしょ? いまだってこんなの無いよね。「オレが演奏で現出させたいのはこういう世界なんだ」と思った。

平野 それにしても、藤井さんと神成さんのあいだでどんなやりとりが交わされていたのか気になるな。じっさいトラックダウンはどんなふうに進んでいったんですか? すごく興味があるんですよ。やっぱりいろいろあったんでしょうね。

藤井 いやいや、だいたいすんなりいきましたよ。神成さんもぼくのことをわかっていたから、「これでどうですか?」って言われて……

平野 あ、そこそこ、そこなんです。藤井さんのジャズ観や音の嗜好を神成さんが理解するまでになにがあったのか。

藤井 特別なことなんて、なんにもないよ(笑)。「なるべく音はつくらないで欲しい」と言っただけで。イコライザーなんかで “音をつくる” みたいなことはなるべく避けてくれ、どうしてもここが弱いな、もうちょっと下を持ちあげたいな、みたいなときだけ、最低限度ならやってもいいけど、あとはフラットのままがいいと。

平野 でも不思議だなあ。そんな単純な話なら、だれでも真似できそうなものじゃないですか。なのにぜんぜんそうならなかった。半世紀にならんとするいまも、オーディオファンはいい音の代表としてTBMのアルバムをターンテーブルに乗せているわけですからね。

藤井 たしかに「TBM盤からはジャズのエネルギーがそのまま出てくる」と言われますね。やっぱりオーナープロデューサーだからできたんじゃないかな。会社の事情や上司の言うとおりにやらなきゃいけないとなったら、できないものね。

平野 なるほど。藤井さんがやれと言ったシンプルなことでさえ、いや、逆にシンプルであるからこそ、メジャーレーベルではできなかったのかもしれませんね。

「作品」と呼べる条件

平野 こういう時代だから、みんな音楽を1曲単位でしか見ていない、アルバムなんて概念は過去の遺物だってよく言われるんです。おまえはアルバムの構成や曲順に神経を使っているみたいだけど、だれもそんなふうには聴いてない、1曲ずつバラしてプレイリストに入れ、それをシャッフルして聴いてるんだから、って。

藤井 そうでしょう。

平野 そもそも、いまどきCDを買ってもらおうと考えていること自体がどうかしてるんだよ、CDプレイヤーも売ってないのにって。でもぼくはフィジカルにこだわりたい。最後まで踏ん張りたいんです。

藤井 そうですよ。アルバムとして聴いてもらわなくちゃ。

平野 全曲を頭から聴いて欲しいってことももちろんあるけれど、なんといってもmp3をケータイのスピーカーで聴くんじゃなくて、それなりの機器で、ちゃんとした音で聴いて欲しいし、サブスクで音楽を“利用”するだけではなく、きちんとモノとして “所有”して欲しい。そのためには、演奏内容に加えて、音やアートワークのクオリティがとても重要です。

藤井 そのとおりです。

平野 「演奏内容」「音の質感」「アートワーク」のすべてが水準以上でなければならないし、“作品”と呼ぶに値するのは、この3つが三位一体になっているものだけだ。ぼくはそう考えています。Days of Delight もそこを目指しているわけですが、もちろん追いかけているのは、昔の〈Blue Note〉やTBMの背中です。なにしろヒヨコだったぼくの目の前を歩いていたのがTBMだったから、親みたいなものなので(笑)。

藤井 (笑)

平野 昔の〈Blue Note〉が開発したこのメカニズムを、藤井さんは日本的なやり方できっちり受け継いだ。具体的にいえば、エンジニアの神成芳彦さん、デザイナーの西沢勉さんとの文字どおりの三位一体で、TBMのアイデンティティを確立した。それは形式ではなく、“匂い”みたいなものだったから、つまり脳味噌ではなく皮膚感覚に訴えるものだったから、だれも真似できなかった。

藤井 そういうものですよ。

平野 いまはネットでなんでも手軽にやれる時代です。プレイヤーが自分で宅録した音源を自分で配信するだけなら、制作費に1円もかけずに世界に届けることができる。金もかからないし、他者の協力も必要ありません。

藤井 はい。

平野 対して、フィジカルを流通させるには大きなエネルギーが必要です。プレイヤーのほかに、スタジオ、レコーディング・エンジニア、ミキシング・エンジニア、マスタリング・エンジニア、グラフィック・デザイナー、広報オフィサー、各種媒体、プレス工場、ディストリビューター、配送業者、販売店舗……。音を出すプレイヤーからレジを打つ店員に至るまで、数多の人々のエネルギーの結集なくして手元には届かない。フィジカルにはそれだけの熱量が堆積しているわけです。

藤井 まさにそうだね。だったらCDにこだわらず、ほんとうに音の良いアナログLPを500枚限定等で出すことも考えて欲しいな。

平野 はい、考えます。いずれにしろ、こういう時代だからこそ、ほんとうに信頼できるのは “熱量” だけだし、フィジカルは、配信と同列等価な単なる “音源キャリヤー” ではない。ぼくはそう信じています。

第4部に続く

第4部 ダイジェスト映像

Days of Delight 公式Youtubeチャンネル
https://www.youtube.com/channel/UC7MpSLaYNmXaeb_XlUjJTrw

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