投稿日 : 2022.08.29
【インタビュー】平林牧子─ “デンマークのグラミー” 獲得した日本人ピアニスト
デンマークで最も栄誉ある音楽賞「デニッシュ・ミュージック・アワード 2021」に、ある日本人ミュージシャンの名前が挙がった。マキコ・ヒラバヤシ──彼女は当地、コペンハーゲン在住のピアニストである。
デニッシュ・ミュージック・アワードは、ポップミュージックを中心にさまざまな系統の音楽を対象とした、いわば “デンマークのグラミー” だ。そのジャズ部門でメインとなる賞「ジャズ・リリース・オブ・ザ・イヤー(年間最優秀アルバム)」を獲得したのが、平林牧子のアルバム『Weavers(ウィーヴァーズ)』だった。
授賞式の様子は現地のテレビでも生中継され、彼女の作品『Weavers』がコールされた際、プレゼンターはこんな言葉で本作を称えた。
「この世界をより素晴らしいものにする崇高な音楽」
そして会場は大きな拍手と歓声に包まれる。ところが、平林牧子は授賞式のステージに現れなかった。理由は後述するとして、このアワードで日本人ミュージシャンの受賞は初めての出来事。筆者が「すごい事ですよね」と感嘆すると、当の本人も「私も “すごいな” と思いました」と笑う。ただし、彼女の言う “すごい” とはこんな意味だった。
「今回、受賞した私のアルバムは、大衆に幅広く支持されるような内容ではないんです。なのに大賞に選ぶなんて、アワードとしてはかなり冒険的だと思います。そういう意味で “すごいな” と」
“複雑な音楽”をやるつもりはない
──なるほど。選ばれた自分がすごいのではなく、あれを選んだ選考者たちの方針がすごい、と。
今回のジャズ部門に関しては “アートな作品を推そう” という意図があったのかもしれませんね。
──この賞は “デンマークのグラミー”と称されるとおり、大衆的な音楽をおもな対象としていますよね。
そうですね。広く一般の人たちが注目しているアワードです。
──そのジャズ部門とはいえ、平林さんの『ウィーヴァーズ』は、かなり尖っている。世間の多くの人が想像する「ジャズ」とも少し違った姿をしています。
あの作品は、聴き手のことをあまり考えず、純粋に自分がやりたい表現を追求したアルバムなんですね。世間的にも、かなりアーティスティックなものとして扱われていました。だからノミネートされた時点ですごく驚きました。
──授賞式はどんな様子だったのですか?
今回、ジャズの主要部門である「ジャズ・リリース・オブ・ザ・イヤー」には、私の作品を含めて8つのアルバムがノミネートされていて、どれも素晴らしい内容でした。だから私の作品が選ばれるわけないと思っていたんです。でもまあ、せっかく候補になったんだから会場には行くつもりで準備していました。
ところが直前にスタジオで一緒だったミュージシャンの一人がコロナに感染して、濃厚接触者である私も検査したところ陽性になってしまって。受賞式には行けませんでした(笑)。
──それは残念……。受賞を実感するような出来事は特になかったですか?
以前よりもライブのブッキングはやりやすくなった感じはありますね。ただし今回の『ウィーヴァーズ』のカルテットよりも “平林牧子トリオ” の方が呼んでもらいやすいと思います。
──ああ、確かに。平林さんはトリオ編成でも複数のアルバムを出していますが、そっちの方が一般的には “わかりやすい内容” かもしれませんね。
そう思います。トリオの方はある程度の体裁が整っているから、一般的にも受け入れてもらえる雰囲気。でも今回の『ウィーヴァーズ』のカルテット(※1)は、よりオープンで即興性の度合いがかなり高い。トリオとは少し印象が違いますよね。
──『ウィーヴァーズ(Weavers:織工/織物を作る人)』はアルバムタイトルであり、グループ名でもある。このメンバーを選出する際に、なにか指針は設けましたか?
自分の創造力でどんどん音楽を変化させたり発展させたりすることができる人。インディヴィジュアリティ(個性)が強いミュージシャンたちですね。
──ライブだけでなく、レコーディングの際にも個々のメンバーの閃きや即興性を重んじている?
そうですね。私の作曲はあくまでもガイドラインであって、そこから演奏でどう発展させることができるか、ということに興味を持って取り組んでいます。
ただし、私は音楽で複雑なことをやりたいとかショッキングなことをやりたいとは全く思っていなくて。むしろ伝えたいことを一番シンプルな形で表現した結果が、これなんです。どちらかというと、もとのアイディアをどんどん削り捨てっていって、いちばん中心にある芯の部分だけ残す感じ。
──方法論としてはミニマル・アート。
そんな作品の性質をきちんと捉えてくれて、しかも評価してくれたのは本当に意外だったし、嬉しかったですね。
香港で過ごした中高生時代
──現在、お住まいはデンマークのどの都市ですか?
コペンハーゲンです。ここに住み始めて、今年で32年目になります。
──ご出身は東京ですよね。
世田谷区で生まれ育ちました。その後、小学校6年生のときに父親の転勤で香港へ移住して、そこで5年間を過ごします。
──香港に行ったのは70年代の終わりくらい。
そうです。当時の香港はイギリス領で、私が編入した学校も英国式でした。英語なんてまったく話せないのに突然そんなところに入れられて大変でしたよ。
──他の同級生はどんな様子でした?
私と同じような境遇の子が多かったですね。40か国くらいから生徒が集まっていて、イギリスやオーストラリア、インドが多かったかな。入学した時点では日本人は私と姉だけでした。
──当時、楽器の演奏は?
香港へ行く前からピアノをやっていました。母親が音楽好きで、小さい頃は東京で姉や従姉妹も一緒に習っていました。週末に先生を招いて、みんなでワイワイ楽しみながらレッスンを受けるような感じで。
──香港でもピアノを?
9歳の時にバイオリンを始めたので、香港ではバイオリンを弾くことの方が多かったです。ピアノはたまに遊びで弾く程度で。むしろ音楽よりも屋外で元気に遊んでることの方が多かったですね。
暑い国なので、よく水泳をやっていました。楽器を触っている時間よりも、水の中にいる時間の方が長かったと思います(笑)。そんな感じで香港生活を過ごして、高校2年の夏に帰国しました。
──当時は、いわゆる帰国子女を受け入れる体制が今ほど整っていなかったのでは?
そうなんです。私が日本に戻る少し前にICU(国際基督教大学)の高校とか、いくつかの学校に帰国子女枠ができて。私はICUに入りました。
──すんなりと日本の学校生活に馴染めました?
日本に帰っていきなりカルチャーショックを受けました。私が知っている “5年前の日本” とは大きく変わっていたんですね。
連続するカルチャーショック
──帰国したのは80年代の初頭。あの頃、世間の雰囲気が大きく変わりましね。
いちばん驚いたのは、松田聖子というアイドル歌手が登場していたこと(笑)。私の周囲の同世代の女の子たちはみんな影響されていて、ちょっと困惑しました。その雰囲気をうまく言葉で表現できないんですけど “独特のノリ” みたいなものがあって、なかなか馴染めなかったですね(笑)。
──その後すぐにアメリカの音楽大学へ留学しますね。
当時の私は “音楽をやりたい” という明確な思いはあったけど、ピアニストになりたいわけではないし、かといってバイオリンでもない。作曲はやりたいけど、クラシックや現代音楽もピンと来なかったし、ジャズに興味はあるけど何も知らない。そんな状態でした。
──日本の音大や芸術大学だと、その欲求にハマる学科がなかった。
それで、アメリカの音楽大学を調べてみたら、ジャンルを固定されずに作曲を学べそうなところがいくつかあったので願書を出して。たまたま受かったバークリー(※2)へ行きました。
※2:バークリー音楽大学。米マサチューセッツ州ボストンが本拠。
──しかも奨学金を得て。
そのためにオーディションテープを提出するんですが、当時はカセットテープに録音して送りましたね。3曲作ったんですが、まずバイオリンで1曲弾いて。あと、ピアノでショパンを弾いて、もう1曲は自分で作った曲をシンセサイザーで弾いて。そんなことする人はたぶん珍しかったと思いますね。
──シンセサイザーですか。
はい。バークリーに入った当時、私がおもに学びたかったのは作曲ですが、シンセサイザーで音楽を作ることもやっていたんですね。
──ちょうどデジタル音源や楽器が一気に普及し始めた時期でもあった。
そうですね。エフェクトの原理を学んだり、音の波形を見ながらいろんなスイッチを操作したり、そんなことばかりやっていました(笑)。もちろんシンセサイザーで音楽を作ったり奏でたりもするけど、エンジニアリングの要素が強くて「なんか私には向いてないかもなー」と感じていましたね。
その一方で、学校を離れて街に出るとすごい刺激があるんです。いろんな場所でライブをやっていて、同世代のプレイヤーたちがジャムセッションですごく魅力的な演奏を繰り広げている。その様子を目の当たりにして、またもやカルチャーショックですよね(笑)。ものすごいエネルギーに感動して「こういう世界があったんだ!」って、どんどん魅せられていきました。
日本にいたときからジャズのレコードは聴いていたけれど、あまりピンときていなかったんです。けど、現場を見てその魅力をすぐに理解できました。
──そこで初めてジャズを強く意識する。
そうかもしれません。ピアニストになろうとは当時は思っていなかったですけど、インプロビゼーション(即興演奏)を学んで、ピアノをまたちゃんと弾き始めました。
運命にまかせてデンマークへ
──バークリー卒業後はどうするんですか?
デンマークへ行きました。バークリーでデンマーク人のギタリストと知り合って、彼がデンマークへ帰ると言うので「じゃ一緒に行ってみようかな」と。
──フットワーク軽すぎませんか?
その彼と結婚したので。
──あ、なるほど。それでまた見知らぬ国へ行ってカルチャーショックだ。
さすがにカルチャーショックにも慣れてきて(笑)。でも、言葉は大変でしたね。英語も通じますけど、基本はデンマーク語なので。
──移住後の音楽活動は?
住み始めた当初は、近所のカフェとかでのんびりピアノを弾く程度でした。
──デンマークはかつてアメリカの有名ジャズ奏者も数多く移住した地。そんな背景もあって、ジャズに対する理解が深い。私はそんな印象を持っていますが、実際に住んでみて思うところはありますか?
有名なところだと、デクスター・ゴードンとか、ベン・ウェブスター、ケニー・ドリュー、デューク・ジョーダン、ホレス・パーランも住んでいましたね。確かに、彼らのレガシーが受け継がれているな、という雰囲気は感じました。
──なぜ彼らは、数ある欧州諸国の中からデンマークを選んだのでしょうかね。
いろんな要因があると思いますけど、まずあの頃のアメリカに比べて人種差別が少なく、自由な雰囲気であったこと。あと、北欧の中では気候が穏やかで住みやすい、っていう理由は大きいと思いますよ。加えて、他のヨーロッパ諸国にアクセスしやすいという地理的な利便性もあると思いますね。
──デンマークは地理的に、ドイツの北に突き出た半島のような形状。で、海を挟んですぐ北にはノルウェーとスウェーデン。
そうです。半島といくつかの島で構成されていて、当然、ドイツとの往来は盛んだし、他のヨーロッパ諸国にも行き来しやすい。実際、私も “仕事のしやすさ” はすごく感じます。ちょうど今、夏のフェスティバルのシーズンで年間通じていちばん忙しい時期。私自身も、ヨーロッパのいろんなステージを巡っている最中です。
デンマーク移住後の本格始動
──移住した当初は近所のカフェでのんびり弾いていた。そんな状況が変わり始めたのは、いつ頃どんなきっかけで?
住み始めて2年くらい経った頃に、コペンハーゲンのリズミック・ミュージック・コンサーバトリー(※3)に入ったんですよ。そこで出会ったメンバーとバンドを組んで、そこから意識が変わりましたね。
※3:コペンハーゲンにある音楽教育機関。
──シスターズというカルテットですね。
そうです。あのバンドを組むまでは、アメリカのジャズスタンダードとか、リアルブック(※4)的な方向性で音楽と向き合っていたんです。けど、そういうものとはまるっきり違うオリジナルをこのバンドで作り始めて。多分その時に初めて “自分の音楽をやっている“という実感を得た気がします。
※4:1930〜70年代のジャズやフュージョン、ポップスなどを中心に、約400曲のジャムセッション用譜面を収録した書籍。ジャズ・ミュージシャンの練習用譜面として広く使用されている。
──それが90年代の半ば頃の出来事。
そうですね。
──ちなみに当時、シスターズはどんな評価でしたか?
ベルギーのコンテストで賞を獲りました。お客さんが選ぶパブリックアワードと、ベスト・アレンジメント賞、そして最終的に総合3位に選ばれて。あのときは嬉しかったし驚きも大きかった。
──その “驚き” は、今回『ウィーヴァーズ』で大賞を獲った時の驚きと似ていませんか? つまり、とりわけポップな音楽でもないのに大衆の支持を得た。
その通りですね。当時の私はジャズに根ざした音楽はやっていたけれど、たとえばチャーリー・パーカーとかコルトレーンとか、偉大なミュージシャンたちが作っていった “正統な歴史” を受け継ぐというよりも、むしろそこから一旦距離を置いて、自分たちの音楽をやってみた。
その結果(ベルギーのコンテストで)ちゃんと評価してくれる人がいた。そのことを実感できて、すごく解放感みたいなものを感じました。
──シスターズでの活動は、現在の “自分の音楽” と繋がる部分はある?
ありますね。シスターズにはヤン・ガルバレク(※5)の影響を強く受けたサックス奏者がいたり、ドラマーもヨン・クリステンセン(※6)が好きだったり。わりとオープンな感じの音楽だったので。現在の私の音楽につながる要素は多いです。
※5:Jan Garbarek(1947-)ノルウェー出身のジャズ・サックス奏者。
※6:Jon Christensen(1943-2020)ノルウェー出身のジャズ・ドラマー。70年代には前出のヤン・ガルバレクとともにキース・ジャレットの “ヨーロピアン・トリオ” メンバーとして活躍するなど、ECMレーベルを中心に数多くの録音を残している。
──その後、2001年に自身の名義のトリオ(※7)を組んで活動が本格化する。同時に、国際的に高い評価も獲得していきます。このグループはどんな経緯で結成されたのですか?
たまたまコペンハーゲンのジャズクラブからオファーがあって「ひと月のあいだ自由にやってください」みたいな内容だったんです。それで、せっかくだから自分のトリオを作って。
──そのトリオでアルバムも出します。しかもいきなりエンヤ(※8)から。メンバーは、クラウス・ホウマン(ベース)とマリリン・マズール(ドラムス)というすごい顔ぶれ。
※8:Enja/ドイツの名門ジャズレーベル
と言っても、最初のアルバム出たのは結成から5年後ですからね。
──時間があいた理由は?
出産です。その後、あるジャズフェスティバルから「マキコのバンドで出ないか」って言われて、それがきっかけでトリオが復活して。ちょうど出産で休んでいる間に作曲したり、いろんなアイディアも溜まっていったので、それをアルバムで放出した感じですね。
──出産きっかけでアルバムも産まれた。
はい(笑)、しかも、たまたまエンヤが興味を持ってくれて。
──その後もアルバムを連発しますね。
このトリオのアルバムを出したことで、周りからジャズ・ピアニストと認識されるようになった気がしますね。
──平林さんの音楽は、即興性という面においてジャズと近しいけれど、ご自身は「ジャズらしくあろう」なんて微塵も考えていないですよね。
そうです。そもそも何をもってジャズ・ピアニストと定義できるのか、それは人それぞれの考え方があると思う。でも私の場合、少なくとも「ジャズであるために、こういう演奏をしなければならない」と考えて作曲したり演奏することはないですね。
* * *
インタビューの最後に「デンマーク人はどんな気質の人たちか?」と訊くと、彼女はこう答えた。
「“型を破っていこう” っていうラフな性格。豪快で、獰猛さや野蛮さも隠さない。そんな人たちが多い気がします。私の中のヴァイキングのイメージと重なりますね」
筆者と話す平林牧子は、おおらかで思慮深く、慎ましやか。しかし音楽家としての彼女は “デンマーク人らしさ” を思わせる奔放さと型破りな気風を隠さない。今後もヴァイキングさながらに諸国を巡り、壮麗な演奏を繰り広げるのであろう。
取材・文/楠元伸哉