MENU
シチリア系イタリア人の父ともぐり酒場を経営していた両親のもとで育ったフランク・シナトラにとって、裏社会は幼少期からごく身近なものだった。長じてからは、犯罪組織の大物の多くと顔見知りになったと言われる。その中で彼がとくに兄のように慕っていたのが、アメリカのギャング史上最も凶悪な男として恐れられたサム・ジアンカーナだった。2人はある政治家を大統領にするために団結した。
シナトラのコンサートにはいつもあの男たちがいた
フランク・シナトラが1940年代初頭にソロ・シンガーとしてデビューした頃の主なファン層は、10代のボビーソクサーたちだった。ボビーソクサーとは、当時流行していたボビー・ソックスと呼ばれるくるぶしまで巻き下ろした白い靴下を履いた若い女性の通称である。シナトラのPRエージェントは、コンサート会場に詰め掛けた熱狂的なボビーソクサーの集団の中に、シナトラの名を叫びながら気絶する偽客(さくら)を混ぜ込んでおいたが、それにつられて実際に気絶するボビーソクサーが続出したと言われれる。
シナトラの人気が一時期陰ったのは、戦時下にあってそのようなボビーソクサーが彼から離れていったからだった。のちに『地上より永遠に』に出演して復活し、国民的シンガーの地位を得たシナトラのショーの客層は大きく広がったが、その中にはマフィアやギャングのメンバーも多かった。これまで何度か名前を挙げたジャーナリストのピート・ハミルは、「私は長年彼のコンサートに足を運んでいたが、どの会場でも連中を見かけた。いつも彼らはシガーを口にし、ダイヤをキラキラ輝かせていた」と書いている(『ザ・ヴォイス』)
「マフィアやギャング」と書くのは、これも以前に言及したとおり、マフィアとギャングが同義語ではないからで、ギャングが犯罪集団を意味する一般名詞であるのに対し、マフィアとはシチリア出身者による疑似家族的犯罪集団を意味する固有名詞である。したがって、シチリア出身ではないアル・カポネがマフィアではなかったこともすでに書いた。
もっとも、マフィアもそれ以外のギャングもやっていたことに違いがあるわけではなく、混同して語られることも少なくはない。もうひとつ、犯罪組織を広く指す場合によく使われる言葉として「シンジケート」がある。ここでは、犯罪集団一般をシンジケートと呼ぶことにする。シチリアにルーツをもつイタリア人でありながら、終生マフィアを名乗らなかったサム・ジアンカーナを表現するには、それが最も適切な表現だと思われるからである。
禁酒法のもとで人格を形成したシンガー
シナトラとシンジケートの関係は、彼がショー・ビジネスの世界に足を踏み入れてからにわかに始まったわけではない。裏社会は幼少期からシナトラにとって身近なものだった。
彼が生まれたニュージャージー州ホーボーケンは、ハドソン川をはさんでマンハッタンの対岸に位置する都市で、1917年4月にアメリカが第一次世界大戦に参戦した折、米軍兵士出兵の主要港となった街である。参戦後まもなく、港近くにあった200軒以上の酒場の閉鎖が命じられた。「兵士の風紀紊乱を防ぐため」という理由は、ニューオリンズの売春地区ストーリーヴィルが閉鎖された理由と同じである。アメリカ全土で禁酒法が施行されたのは1920年1月だから、それより3年近く早い段階でホーボーケンは事実上の禁酒法制下に入ったことになる。このときシナトラは2歳だった。
町が禁酒法下に入るということは、その後の歴史から明らかなように、その町が酒の密造と密売を手掛ける人々が暗躍する場になることを意味する。シナトラの母ドリーも、早々に2軒のスピーク・イージー(もぐり酒場)の経営を始めた。移民社会の中でも下層にあったイタリア移民たちが生き延びるためには、ときに犯罪に手を染めなければならなかったことは『ゴッドファーザー』が描くところだが、シナトラの両親も非合法な酒販事業を手掛けることに躊躇はなく、結果その商売を通じてマフィアとの関係が深まることになった。シナトラの父親はシチリア出身だったから、マフィア構成員たちとの関係はほとんど親戚づきあいのようなものだったかもしれない。
禁酒法は13年間続いて、1933年に廃止された。シナトラ18歳の年である。つまり、生まれてから10代までの日々を彼はほぼまるまる禁酒法時代で生きたことになる。もぐり酒場を遊び場として育った彼は、自然な流れで酒場で歌を歌うようになった。
ピート・ハミルの「シンジケートの人間を知っているか?」との問いに、シナトラは「もちろん、何人かは知っている。酒場でずっと歌っていたんだからな」と答えたという。実際には「何人か」どころの話ではなく、よく知られる人物になってからは、アメリカのシンジケートの中心メンバーのほとんどと顔なじみになったようだ。その中に、サム・ジアンカーナがいた。当時のアメリカの裏社会にあって、最も凶悪だった男である。
食事を注文するように殺人を指示した男
1930年代のシカゴを支配したアル・カポネが一躍勇名を馳せたのは、敵対するギャング集団7人をマシンガンで殺害した「聖バレンタインデーの虐殺」からで、このシーンはマリリン・モンロー主演の『お熱いのがお好き』にも登場する。その際に下手人たちを現場から逃走させる車の運転手に起用されたのがジアンカーナだった。ジアンカーナがカポネらに評価されたのは、運転が巧みなことに加えて、一切の迷いなく人が殺せるから男だったからだ。カポネが脱税容疑で収監されて一線から退いたのち、ジアンカーナはシカゴの裏社会で徐々に頭角を現し、1950年代になると、シカゴのみならずアメリカの犯罪界を牛耳る存在となる。シナトラの伝記『ヒズ・ウェイ』で著者のキティ・ケリーは、ジアンカーナを次のように描写している。
「背の低いむっつりした小柄な男で、イリノイ州フォレスト・パークのアーモリー・ラウンジにすわって、リングフィーネを注文するのと同じような気軽い調子で殺しの指令をくだした。犠牲者の中にはただ射殺されたものもいるが、肉を吊るす鉤にぶらさげられたり、電流の通った牛追い棒やアイスピック、野球のバット、鉛管工用のブローランプなどで拷問されたものもいた」
1960年までにジアンカーナが殺した相手は200人を超えたとも伝わる。ジアンカーナはシチリア移民の両親のもとにシカゴで生まれた生粋のシチリア人だったが、カポネの跡目を継ぐ立場にあったからか、マフィアのようなファミリーを形成することはなかった。アメリカの犯罪界にあってシカゴはどうも特別な場所だったらしく、小説版『ゴッドファーザー』には、ヴィトー・コルレオーネが全国のマフィアのネットワークをつくろうと画策するにあたって、唯一シカゴにだけは声をかけなかったというくだりがある。
シナトラはシシリアンの先輩であるジアンカーナを敬愛していた。ジアンカーナの指には、シナトラから贈られたサファイアのリングがいつも光っていたという。ジアンカーナの方はといえば、シナトラの人柄を好んではいたが、内心「使い勝手のあるセレブリティ」程度にとらえていたふしがある。2人の間の温度差は、ケネディ家との関係をめぐって顕在化することになる。
ジョセフ・ケネディとサム・ジアンカーナ
のちに第35代アメリカ合衆国大統領となったジョン・フィッツジェラルド・ケネディの父、ジョセフ・ケネディは、銀行の頭取からスタートし、造船所の支配人、金融会社、映画館の支配人を経て、ハリウッドの映画会社を買収し映画のプロデュースも手掛けた人物だった。世界大恐慌の引き鉄となった1929年10月24日の株暴落の際は、直前に株を売り抜けて大儲けをした。これは暴落の情報を事前にキャッチしていたからだったと言われる。彼はその利益をもとに非合法だった酒造ビジネスを始め、裏社会とのつながりを得た。
表と裏を含む数々のビジネスの成功によって、ジョセフ・ケネディは莫大な資産を形成することになった。のちに彼はフランクリン・ルーズベルト大統領から駐英大使に指名されるが、そのポジションも金で買ったものと噂された。その巨大な資産が、息子ジョン・F・ケネディを43歳という若さで大統領に就任させる原資となったのだった。
ジョセフ・ケネディは、禁酒法時代にシカゴのサム・ジアンカーナ、ニューヨークのフランク・コステロら犯罪界の大物と知己になったが、50年代になってコステロとの仲が険悪化し、殺し屋を差し向けられる事態に進展した。そのときにコステロを説得して矛を収めさせたのがジアンカーナだった。これによってジョセフはジアンカーナに大きな借りをつくることになる。
すでに下院議員になっていたジョン・F・ケネディを合衆国大統領にするという野心を抱いていたジョセフは、息子が大統領になった暁には最大限の便宜を図るという約束をジアンカーナと取り交わした。すなわち、アメリカの最高権力者の力をもって犯罪集団の活動を保護するという約束にほかならない。この約束が、シカゴのシンジケートがジョン・F・ケネディを大統領に当選させる活動に血道を上げる動因となったのであり、その約束が反故にされたことが、1963年11月22日のケネディ暗殺につながったのだった。
ジアンカーナとシナトラの共同戦線
と、ここまでのジアンカーナにまつわる話は、彼の評伝『アメリカを葬った男』による。この本は、一時期サム・ジアンカーナの最も近くにいた実弟チャック・ジアンカーナの証言をもとに、おそらくは手練れのライターがかなりの脚色をして書いたもので、アメリカの裏面史を活写してたいへんに面白い本であるが、最大の欠点は「面白すぎる」点にある。サムがチャックに話した「真実」を伝えるというのがこの本の趣旨だが、それによれば、ジョン・F・ケネディの暗殺、自殺に見せかけたマリリン・モンローの死、ジョンの弟で司法長官であったロバート・ケネディの暗殺のすべてが、サム・ジアンカーナの指示によってなされたとされる。しかも、ジアンカーナとケネディを結ぶ線にはフランク・シナトラがいたという。ここからの記述も、あくまで「『アメリカを葬った男』によれば」という前提での話であることをお断りしておく。
さて、1960年の大統領選挙において、ジアンカーナはもてる財力と、政界、経済界、エンターテイメント界、犯罪界への影響力を駆使して、ケネディ陣営を支えた。一方、かねてケネディが属する民主党の熱烈な支持者であったシナトラは、大統領になる以前のジョン・F・ケネディとかなり親しい仲にあって、「ケネディは、きらびやかなハリウッド流のお遊びをシナトラのおかげで楽しんだ」という(『ヒズ・ウェイ』)。シナトラもまた、友人を合衆国大統領にするために表立ってケネディを応援した。ケネディが大統領になれば、「ホワイトハウスに自由にアクセスできるエンターテイナー」の地位が得られるという自身の野望もむろんあっただろう。ジアンカーナとシナトラの支援は、ケネディにとって絶大な力となった。ジアンカーナが用意した資金は、すべてシナトラを経由して寄付の形でケネディ陣営にわたったと言われる。
激しい選挙戦の結果、ジョン・F・ケネディは共和党のリチャード・ニクソンを僅差で破り、史上最も若く、カトリックとしては初めての大統領に就任した。ちなみに、2人目のカトリック系大統領が、現在のジョー・バイデンである。ジョセフ・ケネディの約束を信じるならば、これで少なくとも大統領の任期が続く4年間はシンジケートの活動は安泰ということになる。
しかしジアンカーナは、ジョセフをそこまで信用に足る男だとは思っていなかった。ケネディ大統領を自分たちの意のままにするには、もう一つ別の手を用意しておく必要があると彼は考えた。その手とは、好色家として知られたジョン・F・ケネディの女性関係を詳らかに把握し、彼に脅しをかけるというものである。その刺客としてジアンカーナがあらためて白羽の矢を立てたのが、フランク・シナトラであった。
(次回に続く)
〈参考文献〉『ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生』ピート・ハミル著/馬場啓一訳(日之出出版)、『ヒズ・ウェイ』キティ・ケリー著/柴田京子訳(文藝春秋)、『アメリカを葬った男』サム・ジアンカーナ、チャック・ジアンカーナ著/落合信彦訳(光文社文庫)、『ケネディ──「神話」と実像』土田宏著(中公新書)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。