投稿日 : 2022.09.20
【山下洋輔トリオ】欧州を舞台に繰り広げられた激しくも美しい名演─ライブ盤で聴くモントルー Vol.45
文/二階堂尚
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「世界3大ジャズ・フェス」に数えられるスイスのモントルー・ジャズ・フェスティバル(Montreux Jazz Festival)。これまで幅広いジャンルのミュージシャンが熱演を繰り広げてきたこのフェスの特徴は、50年を超える歴史を通じてライブ音源と映像が豊富にストックされている点にある。その中からCD、DVD、デジタル音源などでリリースされている「名盤」を紹介していく。
ピアノ、サックス、ドラムからなる山下洋輔トリオは1969年に結成され、メンバーを変えながら83年まで続いた。海外でも高い評価を得たのは彼らが海外ツアーに熱心に取り組んでいたからで、とくに1976年の欧州ツアーは、5カ国33会場を2カ月間で回る大規模なものだった。そのツアーの最後の会場となったのが、モントルー・ジャズ・フェスティバルである。『モントルー・アフターグロウ』は、そのステージにおける第3期トリオの壮絶な演奏を記録した名盤である。山下洋輔トリオ、そしてフリー・ジャズの魅力をあらためて掘り下げる。
実現しなかった「血を吐くピアニスト」の物語
亡くなった音楽評論家の中山康樹は、フリー・ジャズのことを「メチャクチャなジャズ」であり、「簡単なことをむつかしく書く、ヘタな文章みたいなもの」と言っていた。おっしゃるとおりだとして、論理的には「だから、好き」と「だから、嫌い」の両方が成立しうる。めちゃくちゃで難解だから、何度聴いても飽きないし、聴くたびに新しい発見がある。これが「だから、好き」な人の言い分だとすれば、こんなめちゃくちゃでわけのわからない音楽は聴きたくもないというのが「だから、嫌い」な人の言い分である。音楽を聴くという体験をより豊かにするのがどちらのスタンスであるかは言うまでもない。
1969年7月、バリケード封鎖されていた早稲田大学4号館で山下洋輔トリオがゲリラ・ライブをやったとき、彼らを取り囲んでいたヘルメット姿の学生たちの中に、目の前で演奏されている音楽をフリー・ジャズと認識していた人がどのくらいいたか。おそらくほとんどの学生は、それまで聴いたことのなかった音楽を前に圧倒され、釘づけになったのだった。だから、新左翼と旧左翼の諸派が入り乱れたその現場では、一部の者たちが期待していたゲバルトはついに起こらなかったのである。
早大大隈講堂からグランド・ピアノを運び出して、共産党系の民青支配下にある4号館でライブを行うというその試みを、山下洋輔自身は「やらせ」だったとはっきり言っているし、「テレビ」なしにあの出来事を語ることはできないとも言っている。
「やらせ」を仕込んだのは、当時東京12チャンネル、現在のテレビ東京のディレクターであった田原総一朗で、彼が撮りたかったのは、左翼諸派のゲバルトと、そこに投入されるに違いない警察隊と学生側との間に勃発する大乱闘、さらに、肋膜炎で長く静養していた山下がその混乱の中でピアノを弾きながら血を吐いて倒れる画であった。テレビ屋のあさましいたくらみと言うほかはないが、それが失敗に終わったのは、山下洋輔トリオの演奏が素晴らしすぎたからである。最近のインタビューで田原は「(学生たちは)聴きほれちゃったんだね」と語っている(「AERA.dot」2022年7月17日配信記事)。
この演奏は、のちに大駱駝艦の麿赤児が『DANCING古事記』という自主制作レコードにして発売し、現在はCDで入手可能である。実現しなかった「血を吐くピアニスト」の物語は、立松和平が「今も時だ」という小説に仕立てた。彼はこの短編で職業作家としてデビューしたのだった。タイトルはむろん、チャーリー・パーカーの「ナウズ・ザ・タイム」にちなんでいる。
思いっきり勝手にドシャメシャにやろう
この「伝説のライブ」を振り返るイベントが、去る7月12日に開催された。呼びかけ人は村上春樹で、目玉は早大大隈講堂における69年当時の山下洋輔トリオのメンバーによる演奏であった。ほかにも、司会が坂本美雨、トークゲストが都築響一と菊池成孔、会場から田原総一郎と元京大総長の山極寿一が発言するという豪華な催しだったが、終わってみれば、山下洋輔トリオの演奏ばかりが強く印象に残るイベントであった。
ピアノの山下洋輔、テナー・サックスの中村誠一、ドラムスの森山威男。のちに第1期山下洋輔トリオと呼ばれるようになったこの3人が、第4期まで14年間続いた山下トリオの原型をつくったのだった。一世を風靡したこのトリオのコンセプトについては、名文家としても知られる山下自身が語っているので、いくつか引用してみる。まずは彼の最初のエッセイ集『風雲ジャズ帖』から。
「おれ達が決めたのは、思いっきり勝手にドシャメシャにやろう、という事だった。おれがその時何よりも欲しかったのは『パワー』であり、一人一人が最高の『パワー』を出せる方法はやはりドシャメシャ以外にはなかったのである。当然、従来の、演奏者全員に共通のテンポとか和音(進行)は無意味になる。それらを維持しようとする努力が『パワー』を半減させるのである」
次の引用は、音楽評論家・相倉久人との対談『ジャズの証言』からのもの。
「きっかけのフレーズだけを作って自分の好きなようにやりまくり、戻りたくなったらそこへ戻る。とにかくくたびれるまでやる」
「終わりはピシッと格好良く終わろう、という形式観がぼくらにはありました」
「いつ始まりいつ終わったのか、皆目分からないだらだらしたフリージャズもありますが、それは“日和った”行為だとみなしていた」
「ガン、と始まり、目配せしながらお互い言いたいことをどんどん言って、『じゃあ、終わろうか』となって終わる。勝手なやり合いであると同時に、相手がこう来たらこう返す、という言い合いでもある。とにかく関係し合う」
「ドシャメシャ」にやるが、「だらだら」はやらない。他のメンバーを無視した自己中心的な演奏もしない。それが山下洋輔のフリー・ジャズの流儀であり、1983年まで続いた山下トリオの一貫した「即興の美学」だった。
「ブワーっといって、死ね」
山下洋輔トリオが初めての欧州ツアーを行ったのは、サックスが坂田明に替わった第2期時代の74年だったが、さらに本格化したのはドラムスが小山彰太となった第3期トリオの頃である。76年、トリオは当時の西ドイツ、オーストリア、スイス、東ドイツ、オランダ、ベルギーを2カ月間で回った。そのツアーの掉尾を飾ったのが、モントルー・ジャズ・フェスティバルの「フリー・ジャズ・ナイト」と名づけられたステージだった。ほかに出演したのは、サン・ラ・アーケストラと、山下のいわば師匠筋にあたるセシル・テイラーで、前者の音源は以前この連載で紹介している。
このツアーの打ち合わせで、山下はこんなことを言っていたとドラムスの小山が振り返っている。
「まず坂田がブワーっといって、死ね。そうしたら彰太とオレが引き継ぐ。で、彰太が死んでいるうちに、坂田が甦れ! オレは休みながら弾いて甦るから、そうしたらみんなで死のう」(『BRILLIANT MOMENTS』ライナーノーツより)
冗談めかして言った言葉だったか、本気の発言だったか。本気だった方に賭けたい気がする。おそらくこの頃の山下は、「死と再生」のメタファーで即興演奏を捉えていたのだと思う。それ以前から、彼の中に死のモチーフはあった。あの「伝説のやらせライブ」の企画の発端となったのは、山下の「ピアノを弾きながら死ねればいい」というひと言だったと田原は振り返っている。
山下が、そして坂田、小山の2人が本気だったことは、『モントルー・アフターグロウ』と題されたモントルーの記録を聴けばわかる。収録されているのは、アルバート・アイラーの「ゴースツ」と山下のオリジナル「バンスリカーナ」の2曲で、まさしく、死に向かって突進していくが如き激しい一篇の即興劇を体験することができる。
音楽学者の渡邊未帆によれば「ゴースツ」は、とあるスカンジナビア民謡をベースにしているという説があるそうで、しかし実際にはそれほど似ているわけでもなく、「むしろ、いろいろな日常に口ずさまれる歌の旋律に似ている」と彼女は言っている(『五十年後のアルバート・アイラー』)。坂田がごく自然に口ずさむように「ゴースツ」のメロディに「赤とんぼ」を潜り込ませて違和感がないのは、どちらも「日常に口ずさまれる」ような曲だからだ。1950年代、米軍立川基地の拡張反対闘争、いわゆる砂川闘争において、警官隊に対峙した学生や農民が、降りしきる雨の中で歌ったのが「赤とんぼ」だった。そのエピソードが果たして坂田の胸中にあったかどうか。フリー・ジャズと「闘争」の結びつきをイメージした引用であったと考えることも不可能ではないと思う。
一部で「ゴーストんぼ」と呼ばれているこのメロディに加え、「セント・トーマス」のテーマなども引用しながら、坂田はトリオをすさまじい熱量をもって牽引する。途中に出てくる坂田の絶叫は、最初の「どうなんやー」だけはわかるが、あとは意味をなさない言葉の羅列、いわゆるハナモゲラ語である。
ステージでは、アルバムに収録された2曲以外に「クレイ」と「ミナのセカンド・テーマ」が演奏された。未収録曲は、トリオ結成40周年の際にリリースされた『BRILLIANT MOMENTS』付属のDVDで映像を見ることができる。
フリー・ジャズの「美しさ」を教えてくれる名盤
「ゴースツ」にしても、ジンタのメロディを思わせる短調の「バンスリカーナ」にしても、極めて「聴きやすい曲」であって、『モントルー・アフターグロウ』を繰り返し聴いていると、テーマがあって、各演奏者のアドリブがあって、最後にテーマに戻って終わるという、常道のジャズに聴こえる瞬間がある。同盤の旧版ライナーノーツで、ジャズ評論家の野口久光は、「彼の音楽はいうところのフリー・ジャズの範疇に入るジャズだが、彼の音楽にはこの系列のジャズに多い難解さ、独善的なところがなく、きいていて爽快で心たのしくなる」と書いている。演奏の切れ味という点では、第2期メンバーによるドイツでのライブ録音『クレイ』に一歩譲るが、山下洋輔トリオの1枚を挙げるならばまずこの『モントルー・アフターグロウ』と言いたいのは、めちゃくちゃでよくわからないからとフリー・ジャズを忌避している人たちにとって、フリー・ジャズへの格好の入り口となるアルバムであると思えるからである。激しくはあるが決して難解ではないフリー・ジャズ。あるいは、それこそが山下がトリオで目指していた音楽だったかもしれない。
フリー・ジャズは60年代、70年代の騒乱の時代のあだ花であるように語られることも多いし、先のイベントの主催者にもその意識がある程度はあっただろう。しかしフリー・ジャズは、即興を表現の一つの核とするジャズが必然的に行きついた音楽の一形態であって、状況に従属するものでもなければ、難解さを好むディレッタントのための音楽でもない。
「バンスリカーナ」の最後、坂田のサックスの咆哮に続いて印象的なテーマが何度も何度も繰り返されるところをぜひ聴いてほしい。3人は自らの火照りを自ら冷ますように、次第に音圧とテンポを落とし、そうして最後にメロディと余韻(afterglow)だけが残る。何と美しいエンディングだろうか。フリー・ジャズとは、激しく自由なだけではない。実は美しい音楽でもある。『モントルー・アフターグロウ』は、そのことを教えてくれる名盤である。
(敬称略)
文/二階堂 尚
〈参考文献〉『マイルスを聴け!!』中山康樹著(径書房)、『風雲ジャズ帖』山下洋輔著(徳間文庫)、『ジャズの証言』山下洋輔、相倉久人著(新潮新書)、『今も時だ/ブリキの北回帰線』立松和平著(福武文庫)、『五十年後のアルバート・アイラー』細田成嗣編(カンパニー社)
『Montreux Afterglow』
山下洋輔トリオ
1.Ghosts 2.Banslikana
■山下洋輔(p)、坂田明(as)、小山彰太(ds)
■第10回モントルー・ジャズ・フェスティバル/1976年7月9日