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シナトラ、ケネディ、モンロー、ジアンカーナ──セレブリティたちの闇のネットワーク【ヒップの誕生】Vol.41

UNITED KINGDOM - SEPTEMBER 01: ROYAL ALBERT HALL Photo of Frank SINATRA, performing live onstage, waving, with audience behind. (Photo by David Redfern/Redferns)

日本、そして世界のジャズが最も「ヒップ」だった時代をディグする連載!

第35代米大統領ジョン・F・ケネディ。そのもとで司法長官を務めた実弟ロバート・ケネディ。両者の愛人であったマリリン・モンロー。対キューバ工作でケネディ大統領と共犯関係にあった裏社会のボス、サム・ジアンカーナ。そしてそのすべてとつながりのあったフランク・シナトラ──。複雑に入り組んだセレブリティたちの闇のネットワークの内実に迫る。

ジアンカーナにカストロ暗殺を依頼したケネディ

43歳という若さで第35代アメリカ合衆国大統領に就任したジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、女性に相当もてたらしい。36歳で結婚したのちも派手な女性関係が収まることはなく、常に愛人がいたとされる。その一人がマリリン・モンローであったことも、よく知られた事実だ。

ケネディの大統領当選を支援したシカゴの犯罪シンジケートのボス、サム・ジアンカーナが目をつけたのはそこだった。彼は、女性関係のスキャンダルを暴露すると脅迫することで大統領をコントロールしようとした。ジアンカーナ、ケネディ双方と友人であったフランク・シナトラがジアンカーナから与えられた役割は、女性の「調達係」であった。ケネディに次々に女性を紹介し、誘惑させ、いわば醜聞を発生させる役目である。

シナトラがジアンカーナの真の目的を知っていたかどうかは定かではないが、彼はケネディとジアンカーナという巨頭のはざまに立ってキーパーソンとして振る舞う役割を、哀れにも嬉々としてこなしていたように見受けられる。要するに、彼は大物が好きだったのである。「ケネディのことなら俺に任せておけ」という自信に満ちたシナトラの態度は、ジアンカーナを一時期大いに安心させた。

シナトラがケネディに紹介した中に、ジュディス・キャンベルという女性がいた。どちらが先だったのか、ジュディスはケネディと深い仲になるのと並行して、ジアンカーナとも関係を結ぶようになる。ジュディスはケネディの死後に、自分がケネディとジアンカーナの「連絡係」であったことを公的な調査で明らかにした。彼女がケネディからジアンカーナに渡せと依頼された封筒には、5万ドルとキューバの首相フィデル・カストロの暗殺計画書が入っていたと彼女は証言している。ケネディがジアンカーナにカストロ暗殺を依頼していたことを示す証言とされる。

フィデル・カストロ

ケネディ暗殺事件の真相

ホワイトハウス、犯罪シンジケート、FBI、CIA──。この四者の関係は極めて複雑である。ジアンカーナがジョン・F・ケネディの「裏切り」に直面したのは、ジョンが大統領就任後に、法律の専門家であり、組織犯罪を心底敵視していた実弟ロバート・ケネディを司法長官に任命したときだった。司法長官とはすなわちFBIのボスであり、FBIはすなわち犯罪シンジケートの最大の敵である。ロバートの司法長官就任後、組織犯罪の取り締まりが急速に厳格化することになる。

その一方で、大統領はCIAを通じてシンジケートとの関係を保っていた。ジアンカーナは生前「犯罪組織とCIAはコインの表裏」とよく語っていたというが、実際シンジケートはCIAの対外工作活動の先兵となっていたようである。共産主義化したキューバの首相カストロの暗殺計画もその一つだった。暗殺の報酬は15万ドルで、ジュディスが携えていた封筒に入っていた5万ドルはその一部だったとみられる。ジアンカーナは「はした金だが、俺は愛国者としての義務を果たす」として、ヒットマンをカストロのもとに差し向けるプランを着々と練っていた。

しかし、ホワイトハウスとCIAが一蓮托生であったわけではない。1961年、ケネディは亡命キューバ人の部隊に母国を攻撃させ、反カストロ分子の蜂起の誘発を狙ったいわゆる「ピッグス湾攻撃」をCIA主導のもとで敢行するが、この作戦は大失敗に終わり、その責任をすべてCIAに負わせた。反ケネディの空気がCIA中に醸成されるのはここからである。

FBIの取り締まりは日に日に激化し、犯罪組織は追い詰められていく。ジアンカーナはジョン・F・ケネディを懐柔する役割をシナトラに期待していたが、シナトラのケネディに対する影響力が自身が口していたほどではなかったことに気づき始め、次第にシナトラを遠ざけるようになった。のちに公開されたFBIの盗聴記録には、ジアンカーナの部下がシナトラ殺害をジアンカーナに進言するやり取りがある。シナトラの虚言に対する報復という趣旨だが、ジアンカーナはそれをやんわり斥けている。

ジアンカーナが腹案であった「ケネディ醜聞暴露計画」を実行に移せなかったのは、それに対してケネディ側がCIAとシンジケートの関係を明らかにすることを恐れたからで、その代わりに彼は大統領に反感をもつCIAと共謀してケネディ暗殺計画を練り始める。『アメリカを葬った男』では、ケネディ暗殺の実行犯とされているリー・ハーヴェイ・オズワルドはあくまでもダミーで、実際の下手人はジアンカーナが手配したヒットマンだったこと、暗殺実行の環境を整備したのはCIAだったことが詳細に書かれている。オズワルドが刑務所に移送される途中に射殺されることによって、この事件の真相は闇に葬られた。オズワルドを撃った男の名はジャック・ルビーという。シカゴのシンジケートの一員だった男である。

1963 年 11 月 22 日、テキサス州ダラスでの市内パレード中に暗殺されたジョン・F・ケネディ(写真左)

多くのことを知りすぎた女

マリリン・モンローがハリウッドへの足掛かりを得たのは、ジョー・シェンクというプロデューサーを介してコロンビア映画のハリー・コーンに紹介されたのがきっかけだった。コーンは、映画『ゴッドファーザー』で「馬の首」の報復をマフィアから受けるハリウッドのプロデューサー、ジャック・ウォルツのモデルとなった男である。

ハリウッドの組合は、ジアンカーナが派遣したシンジケートの一員、ジョン・ロッセーリの支配下にあったから、モンローもほどなく犯罪組織と関係をもつようになったようだ。一方、彼女はどの時点からかCIAにも利用されていて、海外各国の指導者を篭絡するために派遣されていたと『アメリカを葬った男』には書かれている。

モンローがシナトラと知り合ったのはどのような経緯だったか。おそらくルートはいくつもあったのだろう。2015年にアメリカで発売されたシナトラの伝記『Sinatra: The Chairman』には、シナトラに近しい友人の発言を引用する格好で、シナトラが2回目の結婚生活が破綻したのちにモンローとつき合い始めたこと、求婚したが断られたことが書かれているようだ。それとは異なる事実を示しているのが21年に出版された『Sinatra and Me: In the Wee Small Hours』で、こちらはシナトラ自身の証言として、モンローとは親しい友人ではあったが恋愛関係にはなかったと記されているという(どちらも伝聞調で表現しているのは、いずれも日本語版が出版されておらず未読だからである)。

シナトラとモンローの関係はかくの如く曖昧であるが、ジョン・F・ケネディついで弟ロバート・ケネディとモンローとの間に男女の関係があったことは、はっきり事実であったとされている。大統領と司法長官の愛人であったということは、国家のトップ・シークレットを知りうる立場にあったということにほかならない。多くのことを「知りすぎた」ことが、彼女の死を早めることになった。

マリリン・モンロー

CIA、FBI、シンジケートの共犯関係

モンローの祖母と母はともに精神の病を病んでいて、発作を起こした祖母に殺されかけたことが自分の最も古い記憶であると彼女は語っている。自身も精神の病に犯されることをモンローは常に危惧していたし、仕事や男女関係の悩みも多大であったから、精神安定剤や睡眠薬は常に彼女の傍らにあった。その過剰服用による自殺というのが公式に流布している彼女の死因だが、実際にはケネディ暗殺同様、CIAとサム・ジアンカーナの共謀による殺人であったことをジアンカーナ自身が生前明かしている。

晩年のモンローは女優として下り坂にあったことに加えて、ロバート・ケネディから関係の清算を持ち掛けられていて、精神的に不安定な状態にあった。死の直前には、2番目の夫であったヤンキースのスター選手ジョー・ディマジオ(彼もシチリア人である)とよりを戻していたようだが、著しく安定を欠いた精神に宿ったロバートに対する復讐心は熾火のように燻っていて、ジョンとロバートから聞いた国家的秘密をすべて暴露しようとしていた。それを最も恐れたのはCIAで、口封じのためにモンローを殺害しようとした。殺害を依頼されたのはジアンカーナである。

1962年8月5日の夜、ロバート・ケネディがモンロー宅を訪れ、同行していた医師に鎮静剤を打たせて帰ったあとのことが『アメリカを葬った男』には詳細に記されている。引用にある「ボビー」とはロバートの愛称である。

「殺し屋たちはあたりが真っ暗になるまで待ったあと、午前零時前になってマリリンの自宅に侵入した。最初は彼女の抵抗にあったものの、ボビーの医者がすでに鎮静剤を打っていたおかげで、ゴム手袋をはめた殺し屋たちは難なくマリリンを裸にしてベッドに運んだ。彼らは冷静沈着に、外科医チームのような手際のよさで彼女の口をテープで封じ、“医者”が特別に処方したペントバルビダール(睡眠薬)入りの座薬を肛門に挿入して様子をみた」

ペントバルビダールの入った座薬は、カストロ暗殺のために特別に開発されたものだった。座薬の薬効は迅速に大腸から体内に及び、しかも胃から検出される成分は皆無だったから、モンローの身体に他殺の証拠は一切残らなかった。さらに、マリリン死去の一報を受けたロバート・ケネディは、FBIに指示して自身とマリリンをつなぐあらゆる痕跡を完璧に抹消した。こうして、CIA、FBI、シンジケートの「共同作業」による完全犯罪が成立したのである。

マリリン・モンローが亡くなった部屋

闇のネットワークの中でただ一人生き延びた男

シナトラは生前、モンローの死がシンジケートもしくはケネディ兄弟が関与した他殺であったことを確信していると語っていた。モンローが死んだ時点でジアンカーナからの信用をすでに失っていたシナトラは真実を知る立場にはなかったと思われるが、この闇のネットワークに深く関わっていた一人として思うところがあったのだろう。

ジョン・F・ケネディが暗殺されたのは、マリリンの死の翌年1963年11月である。さらにその5年後、大統領選への出馬の意思を表明していたロバート・ケネディもカリフォルニアで射殺される。犯人はパレスチナ系アメリカ人で、イスラエルを支持していたロバートに対する報復であったとされるが、これにもまたジアンカーナが関わっていたと『アメリカを葬った男』にはある。

ジアンカーナ自身は、1975年6月、シカゴの自宅の地下室で頭部に計7発の銃弾を受けて何者かに殺された。おりしも、上院情報特別委員会でカストロ暗殺計画をめぐるCIAとシンジケートのつながりの調査が始まったときであった。銃弾は顎の下に5発発射されていて、これはマフィアによる口封じの符牒であると言われるが、一方で口封じをしたのはCIAであるという説もあり、真実は明らかになっていない。

フランク・シナトラは1971年に一度引退宣言をするも2年後に復帰し、1998年に82歳で病没する数年前まで活動を続け、天寿を全うした。ケネディ兄弟、マリリン・モンロー、サム・ジアンカーナ──。政治、犯罪、エンターテイメントの三界をつなぐ闇のネットワークの中で生き延びたのは、結局シナトラ一人であった。

いくつかの書籍で描かれたシナトラとそれをめぐる人々の姿は、果たして真実なのかどうか。それは読む者が判断すればいいことである。犯罪、謀略、醜聞、暗殺──。シナトラをめぐる闇のエピソードの数々は、それが事実であろうとなかろうと、いずれ歴史の一部として忘却されていくだろう。かたやシナトラの歌には、聴く者の個々の判断を超えた揺るがぬ力があるように思われる。一人の男としてはどうやら外道というほかなかったシナトラの歌声は、今も人々を魅了しているし、これからも魅了し続けるに違いない。嵐のような時代を過ぎて最後に残されたのは、「歌」であった。

(次回に続く)

〈参考文献〉『ザ・ヴォイス──フランク・シナトラの人生』ピート・ハミル著/馬場啓一訳(日之出出版)、『ヒズ・ウェイ』キティ・ケリー著/柴田京子訳(文藝春秋)、『アメリカを葬った男』サム・ジアンカーナ、チャック・ジアンカーナ著/落合信彦訳(光文社文庫)、『ケネディ──「神話」と実像』土田宏著(中公新書)、『マリリン・モンロー』亀井俊介著(岩波新書)

二階堂 尚/にかいどう しょう
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。
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