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1940年代から50年代にかけて、フランク・シナトラは南米ブラジルにおいても圧倒的な人気を誇っていた。彼の熱狂的なファンたちはファン・クラブをつくり、そこからのちにボサ・ノヴァと呼ばれることになる新しい音楽ジャンルを支える音楽家たちが輩出していった。ブラジル最大の作曲家と言われたアントニオ・カルロス・ジョビンもまた、シナトラを「神」と崇めていた一人である。米伯を代表する2人の巨頭の交わりは、それぞれの死の間際まで続いたのだった。
ブラジルで最初のファン・クラブ
「シナトラ・ドクトリン」という言葉がある。音楽用語ではない。旧ソ連の外務省情報局長であったゲンナージ・ゲラシモフが提示した一種の政治用語である。ソ連では、共産圏内の衛星国の主権を制限する「ブレジネフ・ドクトリン」が長らく公式の原則とされていた。スターリン、フルシチョフに次いでソ連の最高指導者となったレオニード・ブレジネフが定めた原則である。それに対して、各国がそれぞれの判断で自由な道を歩んでよいとするのがシナトラ・ドクトリンで、名称はフランク・シナトラの代表曲「マイ・ウェイ」にちなんでいる。この原則によって共産圏の崩壊が一気に進行したことは歴史が示すとおりだが、その歴史の大きな転換点にシナトラの名が刻まれていることが生前の彼の絶大な影響力を物語っている。自ら曲づくりを手がけることがなかったひとりの歌い手の影響力という点では、間違いなく空前であるし、おそらくは絶後となるだろう。
シナトラのキャリアが最初の頂点にあったのは、1940年代後半から50年代初期にかけてだった。その頃、若い音楽好きの間でシナトラが「神」とされている国があった。南米最大の国、ブラジルである。1949年2月、リオ・デ・ジャネイロの3人の10代女性が、ブラジル初のファン・クラブを立ち上げた。名称を「シナトラ・ファルネイ・ファン・クラブ」といった。彼女たちは、フランク・シナトラとディック・ファルネイの熱烈な愛好家であった。
ディック・ファルネイは、「コパカバーナ」「マリーナ」などのヒット曲で人気を集めたブラジル人シンガーで、シナトラと同じクルーナー系の歌い手である。1946年から2年間アメリカで活動し、その間シナトラの知己を得たことが、2人が一緒に収まっている写真が残されていることから知られる。
まだボサ・ノヴァというジャンルが誕生していない頃につくられて、1年半程度で解散したこのファン・クラブがボサ・ノヴァの歴史において今なお伝説的に語られるのは、その会員の中に、のちのボサ・ノヴァ・シーンを支えたミュージシャンたちが多数いたからである。ピアニストのジョニー・アルフ、アコーディオン奏者のジョアン・ドナート、サックス奏者のパウロ・モウラ、後年作曲家として名を成すことになるビリー・ブランコ──。いずれもブラジル音楽ファンなら耳馴染みのある名前だろう。
ディック・ファルネイは、ブラジル帰国後にファン・クラブ会員たちと交流をもつことによって「降りてきた」が、シナトラは彼・彼女らがおそらくは永遠に触れられぬ高みにいる雲上人だった。
「シナトラに対する会員たちの憧れはたいへん強かった。もしファルネイがブラジルへ帰国してクラブに本人が顔を出したりしていなければ、彼のファンはフランクだけで完全に満足してしまっていただろう。シナトラは手の届かない神であり、会員たちが彼になにかを要求することなどあろうはずもなく、ただ彼らはフランクが十五日ごとに素晴らしい歌を録音してくれるのを願うだけだった」(『ボサノヴァの歴史』ルイ・カストロ)。
「神」からかかってきた電話
シナトラを「神」としていたのは、ファン・クラブのメンバーだけではなかった。ボサ・ノヴァのオリジネーターの一人であるジョアン・ジルベルトは、あの静かに語りかけるような唱法を生み出すのにシナトラの歌を大いに参考にしたのだったし、「ボサ・ノヴァ」という言葉を広めた張本人とされるジャーナリストで作詞家のホナルド・ボスコリの自宅には、数百枚に及ぶシナトラのレコード・コレクションがあった。ボスコリは、「俺は、女よりシナトラが好きだ」と語っていたという。
ボサ・ノヴァのもう一人のオリジネーターであるアントニオ・カルロス・ジョビンもまた、シナトラを深く敬愛していたミュージシャンの一人だった。ブラジルでボサ・ノヴァが誕生したのは1958年、アメリカでボサ・ノヴァが一大ブームとなったのは、米ジャズ界とブラジル音楽界のコラボレーションが生んだ最初にして最大の果実であった『ゲッツ/ジルベルト』が64年にリリースされてからだが、ブームの中、アメリカのレコード会社はボサ・ノヴァの歌詞をポルトガル語から英語に半ば強引に変えた。ジョビンはそれに抵抗し、「こんなろくでもない英詞バージョンでは、フランク・シナトラが僕の曲をレコーディングできないじゃないか」と主張したという。その言葉を聞いた音楽出版社の社長は、「フランク・シナトラが君の曲をレコーディングするなんて、いったい誰が言うんだね?」と返したのだった(『アントニオ・カルロス・ジョビン──ボサノヴァを創った男』エレーナ・ジョビン)。
その社長の言葉はまもなく覆されることになる。「君の曲をレコーディングする」とジョビンに告げたのは、ほかならぬシナトラ自身だった。ここから先の話は、ボサ・ノヴァの歴史において最も有名なエピソードの一つである。
1966年の12月、リオのイパネマ海岸にあるバール「ヴェローゾ」でジョビンは酒を飲んでいた。ボサ・ノヴァ最大のヒット曲「イパネマの娘」が生まれた場所として知られる酒場だ。自分宛ての電話がかかってきたと知らされて受話器を取ったジョビンの耳に入ってきたのは、英語で話す男の声だった。電話の主はレイ・ギルバート。ジョビンの曲の英詞を手がけていたミュージシャンである。「トム、シナトラが君と話したがっている」とギルバートは言う(トムはジョビンの愛称である)。ジョビンはからかわれているに違いないと思った。しかし、替わった声は確かにシナトラ本人だった。
「君とアルバムをつくりたいのだが、どうだろうか」
断る理由などむろんなかった。快諾するジョビンにシナトラは、「新しい曲を覚えている暇はないし、リハーサルは大嫌いなのだ。一番よく知られている曲でいこう」と告げて、すぐに話はまとまった(『ボサノヴァの歴史』)。実はこの時点で、シナトラはジョビンのアルバムを聴きこんで、彼の代表曲の多くを憶えていたのだった。
ボサ・ノヴァの「永遠性」を保証したアルバム
レコーディングは、67年の1月30日から2月1日にかけてロスアンジェルスのスタジオで行われた。
「録音開始時間は夜の八時に決められていたが、シナトラは時間前に現れ、一人で曲のおさらいをしていた。しばらくたってトムを紹介された時は、フランクは“ボサノヴァの繊細さを消さないよう、自分を抑える努力をするつもりだ”と言った」(前掲書)。
シナトラはレコーディング中にジョビンからボサ・ノヴァの歌い方をアドバイスされ、それに律儀に従った。「最後にこんな小さな声で歌ったのは、扁桃腺が腫れた時だったな」と言って彼は笑ったという。自らの歌唱の影響下に生まれたボサ・ノヴァの唱法を教え諭される「神」──。愛すべき光景と言うべきだろう。ジョビンはレコーディングした曲をテープにダビングして、さっそくホテルの部屋で聴いたのだった。
「トムは幸せ一杯だった。勝利は彼だけのものではなく、ボサノヴァ全員のものだった」(前掲書)
アルバムのタイトルには、ジョビンの名前と揃えるためにシナトラのフルネームが用いられた。そうして完成した『フランシス・アルバート・シナトラ&アントニオ・カルロス・ジョビン』は、全米ポップス・チャートの19位に入り、以後28週間チャート内にとどまり続けた。数字から見れば大ヒットという印象は薄いが、結果的にこのアルバムは1967年にアメリカで2番目に売れたレコードとなり、グラミー賞のアルバム部門にもノミネートされた。受賞していればシナトラにとって3回目にして、66年の『セプテンバー・オブ・マイ・イヤーズ』、67年の『ア・マン・アンド・ヒズ・ミュージック』に続く3年連続受賞の快挙となるはずだったが、受賞は逃している。この年のアルバム部門の受賞作で、1年間で最も売れた作品は、ビートルズの『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』だった。
しかし、この1枚のアルバムによって「ボサノヴァの国際的な永遠性が保証された」のだと『ボサノヴァの歴史』の著者ルイ・カストロは言う。彼は、ジョビンとシナトラの共演の歴史的意義を強調する。
「ブラジル人ミュージシャンにとって、それと比較対照できるのは、毛沢東とレコーディングすることくらいだった。というのも、当時のシナトラはまだミック・ジャガーとローリング・ストーンズのメンバー全員を合わせたよりも有名かつ権力のある存在だったからである」(『パジャマを着た神様』ルイ・カストロ)。
お蔵入りとなった2枚目の共作
ジョビンとシナトラの共演は、一度だけでは終わらなかった。2年後の1969年2月、2人は再びスタジオに入り、ジョビン作の計10曲をレコーディングしている。『シナトラ・ジョビン』のタイトルでリリースされる予定だったそのアルバムの発売が中止になったのは、ジャケットと曲の出来にシナトラが難色を示したからである。「Kill the sucker(こいつはボツだ)」とシナトラはレコード会社に電話で告げたのだった。
ジャケットは、休日の父親のようなラフな格好をしたシナトラがジャングルに停められたグレイハウンド・バスの前に立つという、確かに意味不明でセンスのないデザインだったが、10曲中の3曲についてシナトラがリリースを拒否した理由はわからない。しかも、その3曲(「ソング・オブ・ザ・サビア」「ヂサフィナード」「ボニータ」)は、ジョビン作の中でもよく知られたものだった。
土壇場で卓袱台をひっくり返すような行動はシナトラが得意とするところだったから、周囲が驚くことはとくになかったと思われるが、当時LPレコードと一緒に発売されるのが一般的だった8トラック・カセット版のパッケージの一部はすでに出荷を終えており、およそ3500本が廃棄されることになったのは、レコード会社にとって大きな損害だった。市場にごく少数出回った8トラ版は、のちにオークションで4550ドルの値をつけたという。
シナトラが発売を許可した7曲は、1971年のシナトラ引退宣言のどさくさに紛れて(宣言の2年後に彼は復帰している)、別途録音されたポピュラー・ソング7曲とともに『シナトラ&カンパニー』のタイトルで発表された。さらにレコーディングから41年後の2010年に、『フランシス・アルバート・シナトラ&アントニオ・カルロス・ジョビン』の10曲と、ボツになった3曲を含めた全20曲が『コンプリート・リプライズ・レコーディング』としてリリースされている。
2つの生を同時に生きた稀代のエンターテイナー
ジョビンがシナトラと3回目にして最後のレコーディングをしたのは、2回目のレコーディングから25年が経った1994年だった。もっとも、これはシナトラの声とバック・トラックが録音されたテープにピアノとギターとボーカルをオーバー・ダビングする仕事で、ジョビンとシナトラは直接顔を合わせていない。
その前年、シナトラは、アレサ・フランクリン、バーブラ・ストライザンド、シャルル・アズナブール、トニー・ベネット、ボノといった大物ボーカリストたちと共演した『デュエッツ』を発表し話題を集めていた。その第二弾となる『デュエッツⅡ』の共演者の一人に選ばれたのがジョビンだった。シナトラは『デュエッツ』録音時から体調を崩していて、すでに共演者と一緒にスタジオに入る体力はなかったから、レコーディングはすべて別録りで行われたのである。
シナトラ・サイドから提示された3曲からジョビンが選んだのは、「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」だった。ボーカル・パートに入る前にジョビンが「フランキー、レッツ・フライ」と言っているのは、弱ったシナトラを励ますためだったか、それとも自分自身を鼓舞するためだったか。このとき、ジョビン自身もまた病魔に侵されていたのである。
この9日後にジョビンは「ブラジル・ポピュラー音楽の父」と言われるアリ・バホーゾの曲を録音しているが、それが彼の生前最後のレコーディングとなった。ジョビンが12歳年長のシナトラよりも先にこの世を去ったのは1994年12月8日である。シナトラはジョビンの死に際して、「世界はもっとも有能な音楽家を一人失ってしまったし、私は驚嘆すべき友人を失ってしまった」という声明を発表している(『三月の水』岩切直樹)。
シナトラとジョビンの最後の共演となった『デュエッツⅡ』のCDのブックレットの最終ページには、「NEXT!」という文字が大書されていた。『デュエッツⅢ』のレコーディングを期待させる文字だったが、シナトラにも「次」はなかった。4年後に心臓発作で逝去するまで彼はついに新作を出すことはなく、ジョビンとのデュエットを収めたアルバムが、50年を超える彼の音楽人生の最後の作品となったのだった。
シナトラ最後のアルバムは、遠く40年代に彼が初めて歌った曲「ザ・ハウス・アイ・リヴ・イン」で締めくくられている。デュエットの相手はニール・ダイヤモンドである。豪壮なオーケストレーションをバックに、イタリア人とユダヤ人のシンガーが「僕にとってアメリカとは何だろう?」と問う。
僕が暮らす家
一つの区画、一つの通り
雑貨店と肉屋と人々
運動場で遊ぶ子どもたち
僕が目にするいろいろな顔
あらゆる人種と宗教
それが僕にとってのアメリカ
この歌を歌ったとき、彼の心に去来したのはどんな「人々」のどんな「顔」だっただろうか。数えきれないほどの女性たち、凶悪なギャングたち、政治家、家族、ミュージシャン、俳優、プロデューサー、生まれ故郷の人々──。この世の陰陽両界の者たちをときに友とし、ときに敵とした一人のシシリアンは、誇り高きエンターテイナーの地位を死ぬまで守り続けた。一人生においてアウトローと大スターという2つの生を同時に生きた、まことに稀有な人物であった。
(この項終わり)
〈参考文献〉『ボサノヴァの歴史』ルイ・カストロ著/国安真奈訳(音楽之友社)、『パジャマを着た神様』ルイ・カストロ著/国安真奈訳(音楽之友社)、『アントニオ・カルロス・ジョビン──ボサノヴァを創った男』エレーナ・ジョビン著/国安真奈訳(青土社)、『三月の水──アントニオ・カルロス・ジョビン・ブック』岩切直樹著(彩流社)、『ボサノヴァの真実』ウィリー・ヲゥーパー著(彩流社)
1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。