MENU
ジャズのプレーヤーの中で、黒人に次いで多いのがユダヤ人であるとされる。その枠をコンポーザーやプロデューサー、あるいはレコード会社や音楽出版会社の経営者にまで広げれば、ジャズに関わってきたユダヤ人の数はさらに倍することになる。しかし、多くの日本人にとってユダヤ人は決して身近な存在ではないし、ジャズにおける「ユダヤ性」が語られる機会も多くはない。「ジャズと黒人」というテーマに比べて光があてられることが圧倒的に少ない「ジャズとユダヤ人」という陰のテーマ──。連載「ヒップの誕生」の最終章では、このテーマを数回にわたって掘り下げていく。
黒人と白人が協力してつくり上げた音楽
ジャズは黒人音楽か?──。この問いは、「ゴスペルは黒人音楽か?」「ブルースは黒人音楽か?」「R&Bは黒人音楽か?」「ファンクは黒人音楽か?」「ロックンロールは黒人音楽か?」「ラップは黒人音楽か?」といった問いに比べて、答えるのがかなり難しい。ここに挙げたジャンルのうち、一般的にロックンロールを除くすべてが黒人音楽とされているのは、それらがアフリカン・アメリカンのコミュニティから生まれ、それゆえにアフリカン・アメリカンの感覚を強く備え、かつ主にはアフリカン・アメリカンのミュージシャンの実演によって多くの聴衆を得てきたことを根拠とする。それらの音楽を白人が演奏する場合は、「白人ブルース」や「ブルー・アイド・ソウル」など、それを示す形容がなされることが多い。
一方、ジャズの基層には、アフリカン・アメリカンの音楽のほかに西洋クラシック音楽の要素があって、またジャズの世界では早い段階から多くの白人プレーヤーが活躍してきた。1917年に歴史上最初のジャズのレコーディングを行ったのは白人バンドであるオリジナル・ディキシーランド・ジャズ・バンドであり、1930年代にジャズをスウィングの名でアメリカ全土に広めたのはベニー・グッドマンをはじめとする白人ミュージシャンである。50年代以降のモダン期にも、数多くの白人ミュージシャンが優れた演奏を残しているのは周知のとおりである。
中山康樹は『黒と白のジャズ史』の中で、「ジャズの歴史がおもしろいのは、多くの場合、『黒(黒人)』と『白(白人)』が敵対構造にあり、ほぼ順繰りに主導権を奪い合っていることだろう」と書いている。歴史を見れば、確かに時代によってジャズ・シーンの主役の座は黒人と白人の間で何度か入れ替わってきた。その点では「敵対構造」と言えるのかもしれないが、むしろ、その発生当初より黒人と白人の「協力関係」によって発展してきたのがジャズという音楽だったと捉えるべきだと思う。
ジャズ界で活躍してきたユダヤ人
本来、黒人も白人も「黒」とか「白」とひと口に括ることのできない多様なエスニック集団である。「黒人」の中には、アフリカをルーツとする人々とそうではない人々とのハイブリッドが多数いる。にもかかわらず、アメリカにおいて黒人がひとまとまりのエスニック・カテゴリーとされてきたのは、アフリカンの血が多少とも混じっていれば「黒人」とみなすという、いわゆる「ワン・ドロップ・ルール」があったからだ。一方の「白人」はどうか。この連載で以前、黒人ピアニストのテディ・ウィルソンのこんな言葉を紹介したことがあった。
当時、アメリカの民族的ヒエラルキーの一番下にいたのが黒人だった。その次にイタリア人が続き、さらにユダヤ人、アイルランド人が続いた。ヒエラルキーのトップにいるのは、それ以外のアメリカ人だった。
「当時」というのは、彼がシカゴのアル・カポネの店で演奏していた1920年代である。白人の中には明確な階層があったということだが、アメリカの歴史を紐解けば、より正確には、アメリカの政治や経済の中心には最初のアメリカ移民であったWASPがいて、ドイツ系、アイルランド系、イタリア系がそれに続き、ヒエラルキーの最下層にユダヤ人がいたことがわかる。
紀元前のディアスポラ(民族離散)以来、ユダヤ人の歴史とはすなわち迫害の歴史であり、ユダヤ人にとっての新天地であったアメリカでもまた、彼・彼女らが迫害からまぬがれることはなかった。
アメリカ社会には、アメリカン・ドリームという言葉に代表されるように、社会の底辺から身をおこし、上昇をめざすエートスが古くから国民文化として根づいていた。このような社会では必然的に「地位を求める競合」も激しくエスカレートし、競争の場に新規に参入する部外者、とりわけ競争力に抜きんでていたユダヤ人に対して、ことさら厳しい排斥が加えられるようになったのである。アメリカが他の国よりも自由な競争社会であったがために、より激しい排斥が起こるといった皮肉な現象が生まれたのである。(『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行)
アメリカにおける「最下層の白人」であったユダヤ人が学術、芸術、金融などの分野で秀でた能力を発揮してきたことはよく知られている。ジャズの世界においてもユダヤ人は突出した存在感を示してきた。現在ジャズ・スタンダードとなっている曲の多くは、20世紀初頭に音楽出版社がひしめいていたニューヨークのティン・パン・アレイから生まれたものだが、そこで活躍したアーヴィング・バーリン、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュウィン、リチャード・ロジャース、ハロルド・アレン、といったソングライターは皆ユダヤ人で、非ユダヤ人はコール・ポーターなどごく少数だった。演奏家においても、スウィング期のベニー・グッドマンやアーティ・ショウ、モダン期のリー・コニッツ、スタン・ゲッツ、デイヴ・リーブマン、ランディとマイケルのブレッカー兄弟など、ユダヤ系ジャズ・プレーヤーは枚挙にいとまがない。
ビル・エヴァンスはユダヤ人ではない
さて、そのユダヤ系ジャズ・ミュージシャンにしばしば加えて語られるのがビル・エヴァンスである。わが国のジャズ評論家の文章にはビル・エヴァンスをユダヤ系と断言しているものがいくつもあるし、中にはこんな記述もある。
多くのアメリカの子供たち同様、エヴァンスが音楽に触れたのも教会だったが、エヴァンスと兄ハリーの場合は、母親がロシア系であったことから、ソロモン教会が“出会いの場”となる。(『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』中山康樹)
これは完全に意味不明な文章と言わざるを得ない。「母親がロシア系」であるから「ソロモン教会」で音楽に触れたとはどういうことか。母親が「ロシア系ユダヤ人」であれば、音楽との出会いの場はユダヤ教の会堂であるシナゴーグだっただろうし、「ロシア正教徒のロシア人」であれば正教会であっただろう。
事実はどうだったのか。現在日本語で読める最もまとまったビル・エヴァンスの評伝である『ビル・エヴァンス ジャズ・ピアニストの肖像』(ピーター・ペッティンガー)には、ビル・エヴァンスの父ハリー・レオン・エヴァンスは「フィラデルフィア生まれ」で「息子たちにウェールズ系プロテスタントの観念を強く教え込んだ」とあり、一方の母マリーの家族は「ロシア出身」で、「彼女の信仰であるギリシア正教会の音楽に触発され、自身もアマチュアのピアニストとして楽しんだ」と書かれている。つまり、父親は英国系プロテスタント、母親は正教徒の家系で、いずれもユダヤ系ではないということだ。この記述を信じるならば、結論は一つ、「ビル・エヴァンスはユダヤ人ではない」ということ以外にない。
日本語の中に「ユダヤ人」に対応する言葉はない
もっとも、ビル・エヴァンスの音楽を愛する者にとって彼がユダヤ人かどうかはどうでもいいことだし、過去の記述の揚げ足を取るのも意味のないことである。それでも「ビル・エヴァンスはユダヤ人である」という説にあえて言及するのは、ここに日本人にとってのユダヤ人の捉え難さがはからずもあらわれていると思えるからだ。「ビル・エヴァンスはユダヤ人である」という通説が誤りだとして、ではユダヤ人とは誰のことなのか──。
私淑していた哲学者エマニュエル・レヴィナスがユダヤ人であったことから、長年にわたってユダヤ人について考察してきた思想家の内田樹は、著書『私家版・ユダヤ文化論』の中で、「『ユダヤ人』というのは日本語の既存の語彙には対応するものが存在しない概念である」(原文は傍点あり)と書いている。
私たち日本人が日本の政治単位や経済圏や伝統文化に結びつけられているのとはまったく異質なものによってユダヤ人たちは統合されている。その『まったく異質なもの』は私たちの語彙には比喩的にさえ存在しない。
私たちが「日本人」とか「アメリカ人」と言うような意味での「ユダヤ人」はどこにもいない。ユダヤ人を理解しようとすれば、「ユダヤ人は何ではないのか」という消去法をもってするしかない。そう内田は言う。内田によれば、第一にユダヤ人とは「国民名」ではなく、第二に「人種」ではなく、第三に「ユダヤ教徒」のことではない。第一の点は、西洋を中心とする多くの国の「国民」としてユダヤ人が生活していることから明らかであるし、第二の点についても、ユダヤ人特有の生物学的特徴があるわけではないことから明白である。私たちは、例えばWASP系アメリカ人とユダヤ系アメリカ人を外見によって弁別することはできない。
アルフレッド・ライオンの驚き
では、三点目はどうか。ユダヤ教の法規を体系化したハラハー(ユダヤ啓示法)は、ユダヤ人とは「ユダヤ人の母親から生まれた子、もしくはユダヤ教への改宗者」と定義している。この定義からすれば、例えば、米大統領だったドナルド・トランプの娘であるイヴァンカは「ユダヤ人」ということになる。彼女は、ユダヤ教徒の実業家ジャレッド・クシュナーと結婚するに当たって、プロテスタントからユダヤ教に改宗しているからである。
しかし、ユダヤ教徒ではなくても「ユダヤ人」とされた歴史が過去にはあった。1935年に独ナチスが制定したニュルンベルク法である。この法律では、ユダヤ人とは3人から4人の祖父母をユダヤ人にもつ者であり、その人が現在ユダヤ教徒であるかどうかは関係ないとされた。内田が「ユダヤ人と『ユダヤ教徒』が同義語であったのは、近代以前までのことである」と言うのは、このことを意味している。
この法はユダヤ人にとって言い知れぬショックであった。なぜならドイツのユダヤ人はそれまでドイツ人だと堅く信じていたからである。(『ユダヤ人』上田和夫)
ヴィム・ヴェンダースが製作総指揮を務めたドイツ映画『ブルーノート・ストーリー』(2018年)で、ブルーノート・レコードの創設者でドイツ生まれのユダヤ人であったアルフレッド・ライオンの「自分がユダヤ人であると言われて驚いた」といった意味の証言が紹介されていたと記憶する。あるいは彼のパートナーであったフランシス・ウルフの言葉だったか。いずれにしろ、彼らはユダヤ教徒ではなく、それまで「ユダヤ的生活」をまったく送っていなかったから、自身がユダヤ人であるという認識はほとんどなかった。しかし、ナチスはそのような自覚なきユダヤ人を含めて迫害の対象とし、さらにドイツ領内からのユダヤ人の完全な抹殺を企図したのだった。
現在のアメリカに多くのユダヤ人が住むのは、19世紀から20世紀にかけての主に欧州におけるユダヤ人迫害の結果である。迫害を逃れてアメリカに渡ってきたユダヤ人とその二世、三世の中から数多くの芸術家が輩出し、ジャズの歴史にも大きな功績を残した。ジャズの世界におけるユダヤ人の仕事の多くは黒人との直接的、間接的な共同作業の形をとっている。映画史上初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』、カーネギー・ホールで開催された初めてのジャズ・コンサート、「最大のインディ・ジャズ・レーベル」ブルーノート・レコード、オペラ『ポーギーとベス』、そしてビリー・ホリデイが歌った「奇妙な果実」──。これらジャズ史における「黒人とユダヤ人の共同作業」の内実を掘り下げていきたい。
(次回に続く)
〈参考文献〉『黒と白のジャズ史』中山康樹著(平凡社)、『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』中山康樹著(河出書房新社)、『ビル・エヴァンス──ジャズ・ピアニストの肖像』ピーター・ペッティンガー著/相川京子訳(水声社)、『私家版・ユダヤ文化論』内田樹著(文春新書)、『ユダヤ人』上田和夫著(講談社現代新書)、『アメリカのユダヤ人迫害史』佐藤唯行著(集英社新書)
文筆業。1971年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、フリーの編集ライターとなる。現在は、ジャズを中心とした音楽コラムや、さまざまなジャンルのインタビュー記事を手がけている。本サイトにて「ライブ・アルバムで聴くモントルー・ジャズ・フェステイバル」を連載中。